第2話 美空と始める周回遅れの新婚生活。

妻の誘導で山下公園のベンチに座って少しした時、妻からは「お話があります。聞いてください」と切り出された。


一瞬で世界の音が消えた気がした。

カモメの声も波の音も何も聞こえなくなったと思った。


これは薫が出て行ったから離婚を切り出されるのかも知れないと思った。

元々は亡き父のワガママから始まった事だった。

それなのに20年も付き添ってくれた妻にはどうやっても恩を返せない。


緊張で喉がカラカラに乾いた時、妻が口を開く。


「私の話です」

音のない世界でそれだけは聞こえてきた。


妻の話は想像とは全く違う物だった。

妻の実家でも俺には秘匿にされてきた大学卒業から先、俺と会う日までの妻の過去だった。


妻は就職難の時代に私塾の講師となって成長からの倒産という苦楽を共にした妻帯者の塾長に一瞬で恋をして気持ちを打ち明けて一度だけ関係を持っていた。

だが全てを失った塾長は命を絶ち、残されて泣く妻を見た塾長の奥さんは全てを察して夫婦の最後を汚したとして妻と亡き夫への復讐として遺骨を無縁仏にすると言い出していた。


無縁仏を回避する条件は妻が独身を貫くのではなく結婚をする事だった。

そこに丁度父が俺の結婚相手を探している話が舞い込んできたという。


「そんな大変な事があったんですね?」

「ごめんなさい。そんな気持ちで結婚なんて失礼だと思って自分を押し殺してました」


妻はそういうとボロボロと泣いた。

俺はこの日まで妻がここまで泣いた所を見ていなかった。


息子…薫の生まれる日に涙を流し合って見つめあった事はあったが、あれ以外で妻は涙を見せたことがなかった。


妻はもう一度「ごめんなさい。自分の目的の為に結婚を利用していました。ずっと傷つけていました」と謝って頭を下げてくれた。


俺はすぐに妻の肩を掴んで振り向かせると「美空さん、そんな事があったなんて…。すぐに言ってくれて良かったんですよ?俺よりも美空さんが辛かったですよね?今まですみません。これからは俺が支えますからね」と言って手を握った。


妻は顔をくしゃくしゃにして「…す……昴さん、これからやり直してくれませんか?」と絞り出すように言ってくれた。


衝撃的だった。


俺は震える声で「え?」と聞き返すと美空さんは「昴さん…やはりダメですか?私を許せませんか?」と言う。


「違う、そうじゃない…その前」

「え?」

不思議そうに首を傾げる美空さんに「な…名前、俺の名前…」と言った。


そう。

美空さんは郵便物の受け取りや何かの確認の時にしか鶴田 昴としか言わない。

病院でも「鶴田 昴の家族のものです」とは言わずに「鶴田の家族」と言って相手が「鶴田…?鶴田 昴さんですか?」と返事をして「そうです」と言う流れを作って極力名前に触れないようにしていた。

それなのに今は俺の事を昴さんと呼んだ。


「はい。それもごめんなさい。私に呼ばれても嫌だと思っていたのと…沖田 優人さんの事もあって呼びませんでした。でも薫からも名前を呼ぶところから始めろって言ってもらえて…夜中に練習していたんです」

まさかの言葉に俺は「夜中に?練習?」と聞き返してしまう。


「はい。うなされていたから手を握って名前を呼ぶ練習をしました」

冷静な美空さんが隠れて練習してくれていた事に驚いたがそれよりも美空さんが名を呼んでくれた事が嬉しくて仕方なかった。

だからすぐに「ありがとう美空さん」と言った。


「え?」

「練習してくれてありがとうございます」


「昴さん?」

「やり直しましょう、何からしますか?手を繋ぎませんか?腕を組みませんか?」

俺は年甲斐もなく慌てて早口になる。

俺の圧が酷いのか「え?え?昴さん?」と言って慌てた美空さんは恥ずかしそうに「全部です。全部お願いします。それで落ち着いたら2人で薫の所に手術の報告に行きましょう」と言ってくれた。



その後の事は嬉しすぎて記憶が若干怪しかった。

覚えているのは山下公園で年甲斐もなく美空さんを抱きしめた俺は我慢ができないと言って駅まで歩くのを勿体ないと言いタクシーまで使って家に連れ帰ると手を引いて寝室に連れ込んだ。

何度も名前を呼びながらキスをすると美空さんも何度も名を呼びながらキスを返してくれた。

俺も美空さんもキスをしながら泣いていた。

涙を流しながら行為をした。


初めて美空さんとした日、俺は何でこんな事をしているのかと思って泣いた。

無表情、無反応の彼女を抱きながら自分に絶望をした。


だが今の涙は全く別だった。

美空さんも泣きながら俺に手を伸ばして「昴さん」と呼んでくれる。


伸びてくる手が身体に触れるだけで電気が走ったように痺れた。

あの日とは全く違っていた。

感動的な時間だった。


散々、せめて悦んで貰いたいと思ってあれこれ試した行為の全てを美空さんは悦んでくれた。

嬉しくて離れたくなかったが行為に終わりはくる。


名残惜しむ俺に美空さんも名残惜しそうに「昴さん、無理のない範囲でまたお願いします」と言ってくれた。

そして、胸の手術痕に触れて「痛そう」と言う。


この20年の痛みに比べたら手術の痛みなんて、なんて事はなかった。


俺たちは初めて服も着ずにベッドで話をした。


「俺はてっきり美空さんが病院に嫌な思い出があるんだと思いました」

「え?」


「あの麻酔から覚めた時の顔を見て昔大切な人を病で亡くしたのだと思ってました」

「そんなことはないです。これからやり直したかったのに昴さんが起きてくれなかったらと思ったら不安で医師を呼びつけに行ってました」


「あれ?じゃあもしかしてあの時…俺の名前?」

「呼びましたよ!呼びかけました!」


俺は嬉しくて美空さんを抱き寄せて「ありがとう」と言う。


美空さんは「謝るのは私なのに昴さんは本当に真面目で優しい人」と返してきた。


その後はバレていないと思ったのに薫の名前を晃としたかった事なんかを話した。

俺はあの日、美空さんがつけたい名前があったのに我慢をしたと思って罪悪感に囚われていた。

その事も見抜かれていた。

驚いていると美空さんが「昴さん、昴さんの初恋を教えてください」と言って俺の顔を覗き込んできた。


「俺に彼女はいませんでしたよ」

「じゃあ薫の写真を送れる彼女の話をしてください」

俺はこれには驚いた。

まさか普通にメールを送っていた亀川 貴子の存在を見抜いていたとは思わなかった。

美空さんは不干渉で詮索してこない人で俺の行動を見ていないと思っていた。


想定外の会話に「え?美空さん?」と言うと美空さんは嬉しそうに「ふふ。まあ急ぎません」と言って俺を力一杯抱きしめてくれた。


「私達はやり直すんです。明日も明後日も時間をたくさん使ってやり直すんです。初恋がいい思い出になれるように頑張りますからよろしくお願いします」

そう言って美空さんはベッドから出ると「昴さん、お腹空きません?」と聞いてきた。


確かに昼は肉まんと焼売を食べたくらいだったから腹は減っていた。


「確かに、中華を食べ損ったから何処かに中華を食べに行きますか?」

「…それは魅力的ですけど私達の顔、涙でボロボロよ?」


俺は鏡を見て唖然とした。

流石に外に食べに行ける顔ではなかったので2人でインスタントの袋麺を食べる事にする。

顔を見合わせて食べるだけで笑顔になる。


美空さんは少し食べるペースが速いので頑張って合わせて同じタイミングで食べ終わる。


その後は2人で風呂は恥ずかしいとやめにして普段ならそれぞれが別のことをしている時間なのにお互いが出てくるのをリビングで待ってから2人で手を繋いで寝室まで行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る