第5話 合わせ鏡

 私は就職に際し、東京にでてきた。住宅手当がでるけれど、寮はないので、自分でアパートをみつけないといけない。

 条件にこだわった結果、かなり古いアパートになった。その条件とはずばり、お風呂とトイレが別で、かつ脱衣所が独立してついていること。

 単身者用のアパートだと、最近ではお風呂とトイレは別だけれど、洗面台のついた脱衣所……が少ない。それはキッチンでも顔ぐらい洗えるし、部屋に戻って、鏡をテーブルにおいて髪を乾かしたり、お化粧をしたり……といったこともできる。スペースが限られる中で、わざわざ独立した脱衣所を設けることはない、という判断なのだろう。

 でも、私は嫌だった。それに拘ると、ファミリー向けのアパートになり、そうなると住宅手当をオーバーするのが確実。だから、ちょっと古いことを我慢するしかなかったのだ。

 でも、ファミリー向けだけに四畳半が二つあり、両方とも畳敷きだけれど、一つをリビング・ダイニングとして利用し、もう一方を寝室にすることもできる。

 そんなことを考えながら、新しい暮らしに希望をもって、東京での生活を始めた。


 ただ、少し気になったのは、やはり脱衣所が狭い点だ。恐らく一畳もなく、かつ窓もないので、湿気が溜まりやすい。それに、鏡がお風呂の方に向いていて、お風呂を上がってすぐは、ドライヤーの風を当てないと、くもっていて鏡の役目を果たさなくなる。

 しかも、お風呂についた鏡と、合わせ鏡になっているのだ。勿論、高さに微妙な違いもあり、鏡同士は面と向かっているけれど、鏡がずらっと並んで見えるような代物ではない。

 それでも、これは設計ミスではないか? と思わせた。

 不満といえば古さと、そこぐらい。値段にしては広いし、都心へと通うにもそこそこ便利だ。

 快適に過ごしながら、仕事ができる……そのときはそう思っていた。


 私は精神科の病院を訪ねることとなった。

 仕事でミスを連発するようになり、言葉遣いも怪しくなり、呂律もまわらなくなった。眩暈で倒れることもしばしばで、幻聴や幻覚まで見え、気づかないうちに独り言で、架空の人物を相手に話をするようにまでなっていたのだ。

 さすがに仕事場の上司が心配し、上京した母親とともに、精神科を受診することにした。

 でも、私は霊による呪いではないか? と考えていた。自分が自分でないような感覚に陥り、乗り移られているようでもあったからだ。

 精神科の先生は、中年ではあるけれど、ダンディな感じの無精ひげを生やしたイケメンだった。

 色々と話をするうち、洗面所の話になった。

「合わせ鏡になっていて……」

「それはよく語られますが、霊的なものが起きる、といった報告はありませんよ。非常に奇妙な形で姿が映るので、何かおかしなことが起こる……といった都市伝説として広まったものです」

「でも、私はその鏡をみると、見慣れた自分のはずなのに、ちょっと違和感をもってしまって……。いつも『あなたは誰?』と問いかけていたんですよ」

 先生はその言葉に、さっと表情が変わった。

「それはゲシュタルト崩壊を引き起こす、非常に危険な行為です」

「ゲシュタルト崩壊?」

「ゲシュタルトとは、全体性をもった構造、ということです。つまり自分という姿形をふくめた、全体の構造が、その言葉によって崩壊するのです。それは自分の姿だけれど、そこに疑問をもってしまう。第二次大戦中、精神を壊すためにドイツ軍が捕虜に課していた、ということでも有名になりました。これは精神病ではなく、心理学的にいうところの問題ですから、鏡をみて『あなたは誰?』と尋ねることを止めれば、自然と治りますよ」


 アパートにもどり、この話を大家さんにする。よく調べてみると、洗面所の鏡が微妙に歪んでいたのだ。

 その結果、私は洗面所の鏡をみると、自分の顔に違和感を生じて、そう尋ねてしまっていたらしい。

 大家は「実は、前に貸していた人も、心療内科に通って、最終的には心を壊して地元に帰ってしまったんですよ」と笑い話のように語る。実際、人が亡くなったりしたわけではないので、重大事由として情報を伝える必要はないのかもしれない。でも、そういう話は先にしておいて欲しかった。

 鏡を新しいものに交換してもらい、これで安心だ。ただ、そうなると合わせ鏡となっていたそれが、いっそうその角度が合ってしまい、見る角度によっては何重にもその鏡が重なって見えるようになった。

 さすがに気持ち悪いので、角度が合わないように気をつけるけれど、そのころから背中越しに誰かに見られているような気がするようになった。私もさすがに気持ち悪くなって、後ろを振り向かないようにして、スマホを背後に向けてみる。その何枚目かの鏡に映った私は、他が後頭部しか映っていないのに、正面を向いていた。そしてその私は呟いた。

「あなたは……誰?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る