兆し

 黒い影が朝の湖を眺めている。


「何を考えているのですか?」


 その影の背後に音もなく近づく者が一人いる。


「……わかりません」


 黒い影は水面を見つめながら応える。その表情には何もない。


「懐かしいのではないですか、お嬢様」


 黒い影が振り返る。その影はサレナだった。


 サレナの視線の先にはウォレスがいた。音もなく近づいてきたのはウォレスだった。


「やはり、よく似ていますな。」


 ウォレスには見覚えがあった。その顔をウォレスは知っていた。


「あたなは私を知っているのですか?」

「はい。よく似た方を。まあ、もうこの世にはいないのですが」


 かつてこの地を治めていたランベルト伯爵の娘。サレナはその娘によく似ている。


「……そう、ですか」

「覚えていないのですか?」

「はい。なにも。私が誰なのかも、覚えておりません」

「……思い出したいですか?」

「わかりません。思い出したほうが良いのでしょうか?」

「さて、それはあなたが決めることですな」


 そう、サレナ自身が決めることだ。ただ、ウォレスとしては思い出さないほうがいいと思っている。


 思い出すということは、自分が死んだ後のことも知るということだ。


 父が犯した罪を、自分がその原因であることを。


 知らない方がいいこともある。このまま何も知らず静かに暮らしていくほうが。


「さあ、戻りましょう。主が待っていますよ」

「はい」


 サレナは今の彼女はメイドだ。エインフェルトの使用人だ。


「因果なものですよ、まったく」


 運命の神というのは意地の悪いものだ。


「どうしました? 早くもどりますよ」


 ウォレスは湖に背を向ける。けれどその背にサレナが付いてくる気配がない。


「あれは、何でしょう」


 サレナの視線は水面ではなく空に向けられている。空のはるか高くを見ていた。


「あれとは?」

「白い、鳥のような」

「鳥? 鳥なら珍しくもないでしょう」

「いえ、なにか、何かを感じるのです」


 ウォレスもサレナの視線の先に目を向ける。確かに何か白い物が見えるが、ウォレスの目にはそれが何なのかはっきりとわからなかった。


「歳ですかねぇ。よく見えません。あなたには何が見えるのですか?」

「鳥です。色は白、五枚の翼、三本足、七つの赤い目、大きさはこの湖とほぼ同じ」

「……それは、化け物ですね」


 化け物。そうとしか言い様のない物がサレナの目には見えている。


「非常に緩やかに落下して来ています。地上に到達するのはおそらく24時間後かと」

「まったく、面倒な」


 問題は山積みなのにさらに訳の分からない物が降ってこようとしている。


「エイン様に報告しましょう」


 これは主に伝えなければならないだろう。秘密裏に処理できそうもない。


 さて、時を同じくして別の場所では。


「……行ったか?」

「クソっ! 一体何なんだアレは!」

「大声を出すなよ、勘付かれる」


 森の中に数人の人影があった。彼らは空を見上げ何かを警戒しているようだった。


「空飛ぶメイドだ? いったい何の冗談なんだよ」


 メイドが空を飛んでいた。そんなバカな話があるものか。彼らはそう思いながらも、身の危険を感じて身を隠していた。


 さて彼らは何者か。


 正直、そんなことは関係がない。彼女たちにとってはただの侵入者なのだから。


「あのさぁ、主様の領地に勝手に入んないでくんない?」


 それは彼らの背後に突然現れた。


「な、おま」

「うるさい、死ね」


 そして、彼らを一瞬で真っ赤な氷の中に閉じ込めた。


「来るんならさ、ちゃんと道に沿ってきてよ」


 さて、彼らは何者だったのか。彼らがそれを語ることは二度とない。


「ああ、命の壊れる音がするよ。最高だね」


 真っ赤な氷の塊の中で絶命した男たちをルビーはうっとりとした顔で眺めている。


「どうだいサファイア。他にもいる?」

「この辺りにはいないわ。別の場所へ行きましょう」


 彼らが何者なのかなど彼女たちにはどうでもいいことである。なぜなら何者であっても同じだからだ。


 侵入者。エインの領地に無断で侵入してきた不審人物。そんな奴らは問答無用で殺してしまえばいい。


 彼女たちの本来の使命は破壊することだ。命あるものを、形あるものを、世界そのものをぶっ壊すのが彼女たちの存在理由である。


 しかし、今はそれよりも優先される使命がある。


「主様の領地をこそこそ嗅ぎまわる奴は壊されて当然。ねえ、サファイア」

「その通り。当たり前だわ」

 

 彼女たちの今の使命。それはエインために働くこと。エインの敵を排除すること。とにかくエインのお役に立つことが彼女たちの存在理由である。


 さて、今日も彼女たちは朝早くから周囲の見回りをしている。空を飛び回り、怪しい奴らや危険な魔物がいないかを探していた。


「それで、あいつらはどこまで来てる?」

「湖に続く街道の入り口に近い町にまで来ているわ」

「にしても、ウォレス様はなんでそいつらを殺さないんだろう? 見張るようにってことは危険なんでしょ? だったらさっさと壊しちゃえばいいのにさ」

「さあ? 理由なんてどうでもいいわ。わたくしたちは仕事をするだけ」


 彼女たちはウォレスから指示を受けていた。それは流れ星の紋章が描かれた旗を掲げた一団の監視だ。


「あー、なんかヤダヤダ。ボクたちは主様の下僕なのになんであんなジイさんの命令を聞かなきゃならないんだろ」

「仕方ないわ。マスターの命令ですもの」

「まあ、そうだけどさ」

「不満があるなら死になさい」


 彼女たちの主人はエインである。しかし、今はエインの命令でウォレスの下で彼女たちは動いている。どうやらそれが気に食わないらしい。ルビーもサファイアもである。


「まあ、いいや。何かあれば壊せばいいし」


 エインのためなら何でもする。人殺しだって喜んでやる。


「にしても変なのがいっぱい来てるね」

「そうね。たくさんの命を感じるわ」

「いいね、たくさん壊せる」


 彼女たちは本能で感じ取っていた。


「命が壊れる。命を壊せる」

「楽しみ?」

「当たり前だよ」

「そうね。当たり前ね」


 何かが近づいてきている。それは一体何なのか。


 良い物か、悪い物か。吉事か、凶事か。


 それはまだわからない。


 まだなにもわからない。


「楽しみだなぁ。どんな奴を壊せるんだろう」


 そう言ってルビーは子供のように笑う。


 無邪気に楽しそうに笑っている。

 

 


 

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