ああ、楽しいなあ、絵を描くのは本当に楽しい。たのしくて仕方がないほどにたのしい。


 永遠にペンを走らせていたい。筆を握っていたい。いくらでも描き直して、ずっとずっと楽しいままでいたい。


 ああ、でも、絵は『完成』してしまう。いつまでも完成しなければいいのだけれど、いつかは終わりが来るのだ。


 未完のままで終わっても、それがその絵の『完成』なのだ。未完であることがその作品の完成なのだろう。


 では、この絵はどうなのか。これは完成するのだろうか。


 スケッチブックに描き出されていく人の顔。紙の白と鉛筆の黒だけで描かれた人形の頭部。長い髪と瞳は黒鉛の黒、肌は真っ白な紙の白。その黒と白で描き出された顔は、どことなく見知った誰かに似ているようで誰とも似ていないような整った顔。


 誰かに似ている。でも、誰なのかはわからない。


 0からと言うのは難しい。人間の想像は何かや何処かや誰かに似る。今まで見てきた何かや何処かや誰かに似てしまう。


 その絵は母に似ているような気がする。けれど、ほかの誰かにも似ている気がする。


 一体誰なんだろう、とエインは考える。考えながら白い紙の上に黒を置いていく。


 誰でもいい気がする。これはただの自分の中の想像を形にしただけで、似ていたとしてもそれはただ似ているだけだ。肖像画でも似顔絵でもなんでもないのだから、誰かに似せる必要などないのだ。


 これが誰でもいい。ただ描きたいように描けばいい。


 けれど不思議だった。エインは不思議な感覚に陥っていた。


 エインは今、絵を描いている。いや、『描かされて』いる。まるで目に見えない何かに導かれるように手を動かしている。


 いつもなら大体の構図や完成図、どんなものを描きたいのかが頭の中にあるはずだ。しかし、今のエインの頭の中にはそれがなく、ただただ楽しかった。


 描きたい何かが心の中にあるから描いているはずなのに、頭の中にも心の中にもそれがない。けれど楽しい。


 楽しくてたまらない。


 絵が瞬きをしている。絵がこちらを見ている。これでいい、とその目が言っている。


 まだ下描きのはずなのにもうすでに完成に近いような気がする。


「ダイナさん、体はどうですか?」


 手を動かしながらエインはダイナの作業の状況を確認する。


「ちょうど良さそうなパーツを選びましたが、いかがですか?」


 エインはスケッチブックから視線を外し、組み上げられた人形の体に視線を向ける。


 椅子に座る首のない裸の人形。それは本当にただの人形だ。


 この体に首を据え付ければ形にはなる。けれど、それで完成ではない。


「パーツひとつひとつに設定を書き込んでいくのは、手間だな……」


 人形の手や足のパーツはそれぞれ別々に実体化させている。エインの能力では人間と同じように動く球体関節を持つ人形は複雑な構造物という判定のようで、人形をそのまま描いて実体化させることができなかったからだ。


 それともう一つ問題がある。それはサイズだ。


 人間と同じ大きさの人形はサイズが大きい。実体化させる物が大きければ大きいほどそれを描く紙やカンバスのサイズも大きくしなければならない。人間と同じサイズの人形となると人間よりも大きな紙や画布が必要になる。


 将来的には巨大ロボットなども実体化させたいと考えてはいるが、そうなるとそれを描けるだけの『何か』が必要になってくる。


 そもそも巨大な絵となるとバランスを取るのも難しくなってくる。スケッチブックに絵を描く場合は絵の全体をすぐに確認できるのでバランスを取りやすいが、絵が大きければ大きいほど描くのもバランスを取るのも難しいだろう。


 それを解決する方法の目星はついている。一応は何度か試したこともある。


 その方法と言うのはサイズを『書く』と言う方法だ。つまり設定を書き込むように実体化させる物のサイズを書き込むという方法である。


 例えば鉄パイプを実体化させるとする。長さ50センチ、直径5センチ、鉄の厚さ3ミリというように描いた絵に細かくサイズ設定を書き込んでいくとそのサイズで実体化することができた。こうすることで実体化させる物のサイズ調整は可能だ。


 問題があるとすれば複雑な物になればなるほどサイズ設定も細かくなるということだ。鉄パイプのように構造が単純ならばサイズ設定も楽なのだが、巨大ロボットとなると全長だけでなく、肩の幅、足の長さ、胴の長さや横幅や奥行きなど細かく指定しなくてはならなくなるだろう。その他にも装甲の厚さや材質、内部の部品のひとつひとつまでサイズ指定しなくてはならないかもしれない。


 どれだけ細かく指定すれば違和感も破綻もなく実体化できるのかはまだ試していない。そもそもアトリエ内で大きなものを実体化させるのは不可能だ。大きな物を実体化させるのなら野外で行うのが一番なのだが、この王宮の中でそんなことをすれば面倒なことになるだろう。


 ただし、それももうすぐお終いだ。この城からエインは外に出て別の場所で暮らすことになる。


 マリーナも同じだ。彼女は王宮を去り、顔も知らない貴族の家に嫁いでいく。


 エインは今描いている絵に向き直る。


 マリーナを守りたい。その一心で作り上げた二体の人形はどこかへ消えてしまった。


 盗まれたのか、逃げ出したのか、どちらなのかは定かではないが、とにかく見つけ出さなくてはならない。


 そのための人形。三体目のメイド人形。


 目が合う。エインとエインが描いている顔の視線が交わる。ただの絵がエインを見つめ、その目は何かを訴えかけているように見えた。


「今、出してあげるからね」


 その視線に応えるようにエインはスケッチブックに文字を書き込んでいく。


 『統括者』。人形ドールズメイドの長。


 『最強』。あらゆる『敵』を排除するための力を持つ。


 『進化』。あらゆる障害を克服するため己を進化・成長させることができる。


「う、ぐ……」


 エインの体から一気に力が抜け意識を失いそうになる。


「やっぱり、直接は、つらいな……」


 かなりの体力を削り取られたが、まだやれる。まだやれる、とエインは自分を奮い立たせて作業を続ける。


 絵に直接設定を書き込むとこうなることは予想できていた。予想はしていたが思った以上に体力が削り取られている。


 しかし、設定集はここにはない。誰かが持ち去ってしまった。もし設定集があればこんなにも体力が削られることはなかっただろう。


 絵を実体化させるということはこの世にないモノを現実化させるということだ。0から1、無から有を生み出すのに等しい。そして、その生み出す物が強大であればあるほど体力の消耗も激しくなる。


 それに対して実体化させた物に新たな要素を付け加えることは絵を実体化させるよりはかなり楽だ。0を1にするより1を2にするほうが簡単なのだ。


 だから設定集を作った。まずは絵を実体化させ、そこに様々な要素を追加して実体化させたものを変化させていく。こうすることで体力の消耗を少なくし、気を失ったり何日も寝込んだりしないようにしていた。


「あ、はははは――」


 笑いがこみあげてくる。心地よい疲労感だ。今すぐに横になって気を失ってしまいたいほどだけれど、とても気分がいい。


「さあ、おいで」


 エインは笑っている。笑顔を浮かべながら絵を描き、文字を書き込んで行く。一つ線を加えてゆくたびに体力が削られ、何とも言えない幸福感に満たされてゆく。


「……エイン?」


 体を組み立て終わり、それに予備のメイド服を着せていたダイナは、エインの様子が変わったことに気が付く。


「どうか、したのですか?」


 ダイナの背すじに冷や汗が流れる。寒気を覚え、ごくりと息を飲む。


「ああ、ダイナさん。大丈夫だよ。僕は、とっても気分がいいんだ」


 スケッチブックから顔を上げたエインがダイナの方に視線を向ける。エインの眼差しに射抜かれたようにダイナの体が硬直する。


「本当に、気分がいいんだ」


 エインは笑う。その笑顔は恍惚としていて、不気味で、醜悪で、悍ましく、艶めかしく、とても美しかった。


 嫌な予感がする。これ以上はダメだ、とダイナは本能で感じ取る。エインを止めなくてはと心が叫んでいる。


 だが、動けない。体が動かない。まるで何かに縛り付けられているように。


「な、なんだ、これは!」


 ダイナは気が付く。足元から何かが這い上がり、自分の体にまとわりついていることにダイナは気が付いた。


 それは影だった。ダイナの影がまるで触手か蛇のようにダイナの体に絡みつき、彼女の体の自由を奪っていたのである。


「エイン様! それ以上は――」


 エインを止めようとダイナは必死に抵抗するが黒い影がダイナの口を塞ぐ。


 スケッチブックの中から何かが流れ出し始める。黒い霧のような物がエインの膝の上にあるスケッチブックから流れ出し、徐々にアトリエの中に充満していく。


「これは、これは一体……!」


 アトリエに誰かが入ってくる。体を拘束されたダイナは目だけを動かしアトリエの入り口を見る。


 ウォレスだ。いなくなった二体の人形のことを調べに行ったウォレスが戻ってきたのだ。


「エイン様! ダイナ様!」


 ウォレスは状況を見るとすぐにドアを閉めた。何が起こっているのかはわからないが、部屋に充満する黒い物が外へ漏れ出したら危険だと判断したのだろう。そして、それは正解だった。


 ウォレスの足の間に黒い霧が流れ込んでくる。その霧に触れたウォレスは自分の中から何かが抜け落ちていくのを感じ取った。


 黒い霧に触れたダイナもその場に膝をつく。彼女もウォレスと同じように体から力が抜けていくのを感じていた。


「い、いけません、エイン様……」


 体から力が抜け、体温が急速に低下していくのをウォレスは感じる。それはまるで命が吸い取られていくような、そんな感覚だ。


 黒い霧がさらに濃くなっていく。その中心にエインはいる。人の命を奪い取る黒い霧の中でエインは笑いながら絵を描いていた。


「さあ、出ておいで」


 エインが呼びかける。するとスケッチブックの中から黒い物が盛り上がり、形を成していく。


 それは人の首。今しがたエインが描いていた人形の頭部だった。


 エインは赤子を取り上げるように人形の頭部を両手で優しく包み込み、ゆっくりとスケッチブックの中から引きだす。


 その頭部が口を開く。


「おはようございます」


 その言葉にエインは言葉を返す。


「おはよう、サレナ」


 サレナ。エインはその人形の名を呼んだ。


「まさか……!!」


 そんなを聞いたウォレスは絶句した。


「キミは今日から、僕の家族だ」


 サレナの長い黒髪が影と混じり合い樹木の根のように床を這いまわる。そして、椅子に座っている首のない人形の体に絡みつく。

 

 エインが手を離すとサレナの首がフワリと宙に浮く。そして、その首は椅子に座る頭部のない体の方へとゆっくりと飛んでいった。


 頭と体がつながる。つながりゆっくりと立ち上がる。


 霧が晴れていく。部屋に溢れていた黒い霧がサレナのスカートの中へと吸い込まれ消えてゆき、部屋の床や壁を這いずり回っていた影も何事もなかったかのように元に戻った。


「ご命令を」


 立ち上がったサレナは無表情で問いかける。


「命令、じゃないよ。僕は、キミの……」


 家族なんだよ、と言い終わる前にエインは途中で気を失いその場に倒れ込んだ。


「エイン様!」


 解放されたダイナとウォレスが倒れ込んだエインに駆け寄り彼を助け起こすと、エインを助けるためすぐに行動を始めた。


「寝具セットの用意を!」

「わかった!」


 ウォレスの指示を受けたダイナはアトリエ内にある簡易ベッドを組み立て始める。その間にウォレスは部屋にあるタンスからパジャマと三角のナイトキャップを取り出し、エインの服を脱がしてそのパジャマに着替えさせていった。


「何をボンヤリしているのです! あなたもエイン様のメイドならば手伝いなさい!」


 エインをパジャマに着替えさせている途中、ウォレスはサレナにそう命じた。そして、それまで直立不動だったサレナは一瞬だけウォレスの顔を見つめ、動き出した。


 これは賭けだった。もしこの言葉にサレナが従わなかったらウォレスはすぐにでも彼女を処分するつもりだった。


 サレナ。彼女は明らかに危険だった。制御できないならば破壊するしかない。


 しかし、サレナはウォレスの言葉に従った。


「何をすれば?」

「エイン様をベッドに寝かせてください。私は水を取ってまいりますので」

「わかりました」


 サレナはエインを軽々と抱え上げ、ダイナが用意したベッドに横たえる。


「何か?」


 エインをベッドに寝かせたサレナは視線に気が付きアトリエの入り口に立つウォレスへと振り返った。


 ウォレスは少しの間サレナと視線を交わし、それから無言で部屋を出て行った。

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