赤と青

 空に浮かぶ二つの人影がある。


「ねえ、見てよ。人間がいっぱいだ」


 眼下に広がる城下町。そこはル・ルシール王国の王都ダイパン。


 その町を見下ろす二人。ロングスカートのメイド服に身を包んだ赤髪と青髪の二人。


「美味しそうな匂いだ。穢れた魂の匂いだ」


 赤髪のメイドは目を輝かせ、城下町を歩く人々を空高くから見下ろしている。その目はまるで獲物を狙う獰猛な獣のような目をしていた。


「こいつら皆殺しにしたらきっと楽しいよ!」


 そう言うと赤髪のメイドは口の端を大きくひん曲げニンマリと笑う。その笑顔はどこまでも残忍で、本当に楽しそうだった。


「それにしても運がよかったね。ふらふらしてたらちょうど良さそうな体があって」


 赤髪のメイドが自分の体を触る。しなやかに撫でるように、手袋をはめた手で自分の腕と顔に触れる。


「生身の人間より具合が良さそうだ。ねえ、そう思うだろ?」


 と赤髪のメイドが近くにいる青髪のメイドに声をかけた。しかし、返事はなかった。


「おい、どうしたんだよ? ねえ」


 声をかけても返事がなく赤髪のメイドは不機嫌そうに顔をしかめる。そんな彼女を無視して青髪のメイドは一冊の本に目を通していた。


「なに? それがそんなに気になるの?」


 赤髪のメイドは青髪のメイドが読んでいる本を覗き込む。


「なんだっけ? ボクたちの『設定』だっけ? こんなもの書いて変な奴らだよねぇ」


 無表情で本を読んでた青髪のメイドの表情が、赤髪のメイドのある発言を聞きわずかに動く。


「ねえ、質問なのだけれど」

「なに?」

「わたくしたちに性別はないわよね?」

「あるわけないよ。人間じゃあるまいし」


 何言ってんだこいつ? と言うように赤髪のメイドは怪訝そうな顔をする。しかし、そんな赤髪のメイドを無視して青髪のメイドは真剣な表情で本をとあるページを眺めている。


「あなたは自分のことを『ボク』と言ったわね」

「言ったけど?」

「どうしてあなたはそれを疑問に思わないのかしら?」

「え? だって、そう設定されて」


 気が付く。赤髪のメイドは気が付いた。


「そう、わたくしたちには性別もなければ名前も『自分』という意識もなかった。わずかばかりの『自我』のような物はあったけれど」


 青髪のメイドは考えを巡らせる。


「この、マジカル設定集、だったかしら。これは、かなり危険ね」


 マジカル設定集。それは青髪のメイドの手に持っている本のことである。


「ねえ、ルビー」

「なに?」


 青い髪のメイドは赤い髪のメイドの名前を呼んだ。呼ばれた赤髪のメイド、ルビーはそれに迷うことなく返事をした。


 迷うことなく。


「あなた、どうして返事をしたの?」

「え? だって呼ばれたから」

「わたくしたちにはもともと名前なんてないはずよね?」

「だって、そう、設定されて……」


 設定されている。


「わたくしの名前を呼んでみて」

「――サファイア」

「そうね。呼ばれたけれど何の違和感もない」


 サファイア。それが青髪のメイドの名前だ。


「念のために持ってきて正解だったわね」

「そ、そうだな。これ以上変なことされたらどうなるかわかったもんじゃない」


 サファイアとルビー。二人はエインがこの世界に生み出した生きた人形である。


 そう、エインが生み出した存在なのだ。


「そうだ! そんなのさっさと燃やしちゃえばいいんだよ! そうすりゃさ、ボクたちを縛るものは何もなくなるんだし」

「それは考えたわ。でもね、わたくしたちがどうなるか、少なくともこの体は無事ではすまないでしょうね」


 二人の体はエインの力で作り出した物だ。エインが作り出し不思議な力を宿らせた物が今の二人の体なのだ。


 そして、その設定は、二人の体がどのような物なのかの設定はこの設定集に記されている。もしこの本を焼き捨てたとしたら、もしかしたら二人の体はただの人形になってしまう可能性もある。いや、もしかしたらただの絵に戻ってしまう可能性さえあるのだ。


 最悪の場合も想定される。この本を燃やしてしまえば、人形の体だけでなく、そこに宿る『自分たち』にも影響が出るかもしれない。


「それに……」


 サファイアは何かを言おうとして口を閉ざす。口を閉ざし、自分の胸の辺りを手で押さえる。


 恐怖。


「ま、まあいいじゃん。そんなのに縛られる必要ないし、無視すればいいんだよ」


 そう、そんな誰かが勝手に設定したものなんて無視してしまえばいいだけだ。


「でもさ、馬鹿だよね。あんなにボクたちが逆らったらとか考えてたのに、それを防ぐために何もしてないんだから」


 そう言ってルビーは笑った。笑っているのだが、心の底からは笑えていないようだった。


「だから無視すればいいんだよ! ボクたちは自由なんだから!」


 自由。自由なはずだ。何にも縛られず、何にも従わない。ただその衝動に従うだけ。


 破壊衝動。街を国を大地を星を、そして世界さえも破壊し尽くすほどの強い衝動のままあらゆるものを滅ぼしていく。


「ほら! はやくぶっ壊そうよ!」


 ルビーは声を張る。何かを誤魔化すかのように大きな声を出す。


「ボクたちは壊すのが使命だからさ! さっさとこの世界を壊そうよ! 人間を殺して、全部滅ぼそう!」


 早くしよう、とルビーはサファイアに迫る。


 ルビーは焦っていた。内側からあふれ出そうになる感情を無視しようと必死だった。


「そう、ね。それがわたくしたちの存在理由、なのだし」


 サファイアは怯えていた。ある一つのことに思考を支配されてしまい頭が狂いそうだった。


「でも……」


 それは恐怖だった。今まで一度も感じたことがない、怖い、という感情だった。


 一体何を恐れているのか。それはただ一つだ。


「でも、嫌われたら、どうしよう……」


 サファイアは消え入りそうな声でそう言った。不安そうに、苦しそうに、震える声でそう言った。


 嫌われたくない。嫌われてしまうかもしれない。


 一体何に。


「怖くなんかない! 嫌われたって、そんな、そんなこと、平気……」


 平気だ! と言い切ろうとしたルビーだったが、できなかった。嫌われてしまうかもしれない、と考えただけで体が引き裂かれそうなほど胸が苦しかった。


 嫌われるのが怖い。大好きだから嫌われたくない。


 二人の脳裏に一人の少年の名前が浮かび上がる。


「なんで、なんで、なんで」


 ルビーは頭を搔きむしる。全身を支配する恐怖を振り払うように頭を振り、心を支配する一人の少年の名を搔き消そうとするように叫び声をあげる。


 けれど、無駄だった。どうやっても恐怖は消えることはなく、いくら叫んでもその名前を忘れることはできなかった。


 二人はこの世界に呼び寄せてはならない存在だった。世界を破滅させるほどの力を持ち、世界を破壊することを使命とするあらゆる世界の『敵』だった。


 しかし、今の二人は『支配』されていた。それはダイナのファインプレーによるものだった。


 そう、二人はたったの一文に支配されていたのだ。


 『エインのことが大好き』という言葉に。


「――戻りましょう」


 サファイアは震える体を抑え込むように自分を強く抱きしめる。


「何をいまさら」

「今更、だけど、このままだと」


 嫌われる。そう考えただけで心が潰れそうになる。


「そんなこと、もう、勝手に逃げ出したんだから」


 嫌われてしまったかもしれない。そう考えただけで泣き叫びたくなる。


「じゃあどうすればいいの!」

「知らないよ! こんな、こんなの知らない!」


 今まで恐怖など一度も感じたことがなかった。むしろ二人が恐怖そのものだった。


 世界を破滅に導くあらゆる世界の破壊者であり、存在そのものが恐怖の象徴である二人は今、初めて恐怖を感じ、その感情に圧し潰されそうになっている。


「クソっ! こんな、こんなものがあるから!」


 ルビーはサファイアの手から設定集を奪い取るとそれを破り捨てようと両手に力を籠める。


 だが、できない。これはエインにとって大切なもので、それを破ったりしたらどうなるかをルビーは想像してしまった。


「どうしよう、ねえ、どうしよう、サファイア!」


 ルビーはサファイアの両肩を掴み彼女を揺さぶる。


「わからない。でも、今のままじゃ、きっと」


 サファイアは頭を抱える。今のまま逃げ続けていたら、それこそエインに嫌われてしまう。


 嫌だ。絶対に嫌だ。


「――そうだ!」


 ルビーは何かを思いついたのかサファイアの両肩を掴んだ手に力を籠める。


「ほら、言ってたじゃん! あいつ! あいつを殺しせばいいんだよ!」

「あいつ?」

「あいつ!」


 ルビーの表情に明るさが戻ってくる。名案を閃いたからだ。


 そして、それはエインが二人を生み出した理由も関係していた。


「マリーナって子をウルバンて奴から守るんだ!」


 二人が生み出された理由。それはマリーナの結婚相手であるウルバンと言う男から彼女を守るため。


「――なるほど。その子が何かされる前に先手を打つ、ということね?」

「その通り!」


 うんうん、とルビーは力強くうなずきサファイアの肩から手を離すとニンマリと笑う。


「ぶっ殺しちゃえば何の問題もないよね?」


 物騒。物騒この上ない考えだ。だが、事態を未然に防ぐという観点から言えばそれが正解とも言えた。


 ウルバンと言う男が実際はどんな人間なのかは知らない。しかし、危険だと考えられるのならば排除してしまうほうが手っ取り早い。


 マリーナが被害にあってからでは遅いのだ。怪しいのなら滅ぼしてしまえばいい。


「でも、嫌われないかしら」

「どうして?」


 確かに名案だ、とサファイアも思う。しかし、ウルバンと言う男を殺してしまうのは問題があるような気がする。


「わたくしたちは心優しいメイドなのよ?」

「でもさ、主を守るのもボクたちの仕事だよ? だったら人間の一人や二人殺したって問題ないよ」

「そう、かしら」


 そうだろうか、とサファイアは考える。本当にそのウルバンという男を殺してしまっていいのだろうか。


 何が善で何が悪なのか二人にはわからない。そんなこと今まで考えたこともない。


 破壊することが二人の使命であり存在理由だった。破壊することが唯一の楽しみで、喜びで、破壊こそが二人の幸福そのものだった。


 けれど今は違う。壊すことは好きだけれどエインに嫌われることだけはしたくない。


 どうすればエインが喜んでくれるだろうか、と二人は考える。


 考えて考えて考えて、そして、ある結論に達した。


「全部ぶっ壊しちゃおう。人間以外」


 まあ、物を壊すぐらいなら許してくれるだろう、という結論に達したのである。


「そんじゃあさっそく行きましょうか!」


 ルビーはそう言うと右腕をグルングルンと回して気合を入れる。


「でも、そのウルバンはどこにいるの?」

「うーん、そこらにいる人間に聞けばいいんじゃない?」


 二人は眼下に広がる城下町を見下ろす。


 そこにはたくさんの人間がいる。なら、一人ぐらいウルバンのことを知っている者もいるだろう。


「素直に教えてくれるかしら?」

「締め上げればいいんじゃない?」

「それもそうね」


 この日、この時、ウルバン・ガングルッグの人生の崩壊が確定した。それは彼の招いた運命なのか、因果応報なのか、それともただただ運が悪かっただけなのかはわからない。


 ウルバンはまだ知らない。数日後、屋敷も財産も何もかもを失うとは思ってもいない。


「殺さなければいいんだよね」

「そうね。わたくしたちは『心優しいメイド』なのですもの」


 二人のメイドが地上に降り立つ。本来ならそれはこの世界の破滅を意味するのだが、今の二人は世界の破滅など望まない。


 嫌われたくないから。大好きなエインに嫌われたくないから。


 二人は心優しい善良なエインのメイド。エインが作り出した魂の宿る生きた人形。人形の体を持つ人の心を持った存在。


 そうデザインされた物。


「喜んでくれるかな?」

「喜んでくれるといいわね」


 自分たちが何者なのかなど二人は今まで考えたことがない。そして、今も考えてなどいない。自分が、自分たちが何者なのかなど二人にとってはどうでもいい。


 だが、もし彼女たちが何者なのかを現すのなら人々はこう呼ぶだろう。


 『悪魔』と。

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