絵の魔法
十日間。エインは十日もの間アトリエから一歩も外に出なかった。食事も睡眠も排泄もアトリエの中で行っていた。
何かが欲しいときにはベルを鳴らす。それ以外には誰もアトリエには入ってこない。いや、入ることができなかった。
その部屋には誰もが足を踏み入れることをためらうほど重苦しく、不気味な空気がアトリエの中に充満していた。
「ふん、ふーん、ふふふ――」
エインは薄ら笑いを浮かべながら絵を描いている。時折、鼻歌を歌いながらカンバスに絵具を塗り込んでいく。
「あ、あの」
「……なに?」
エインは声をかけてきたマリーナをギョロリと睨む。その目に睨まれたマリーナは「ひぃっ」と小さな悲鳴を上げ体を縮こまらせる。
「あ、あの、ベルの音を聞きましたので、なにか、御用が」
「ああ、ああ、そうだったっけ。ごめん。……えっと、水、もらえるかな?」
エインは近くにあるテーブルの上に置かれた水差しを指で示す。
「水……。だけじゃない。そうだ。もうすぐ、もうすぐ出来そうなんだ」
笑う。エインが楽しそうに笑みを浮かべる。その笑顔を見たマリーナは震えあがる。
エインの顔、十日間アトリエに籠っていたエインの顔はまるで死人のようだった。肌の色は白く、眼の下には炭を塗ったように黒いクマがある。まともに体も洗っていないせいで髪の毛は皮脂まみれで、その手や爪はデッサン用の炭や絵具で人の手とは思えないほど汚れていた。
だが、その目だけは違った。死人のような姿をしたエインだったが、大きく見開かれたその目だけはギラギラと強い輝きを放っている。
「マリーナ。ダイナさんを、呼んできて。僕の部屋に」
一体何をしているのか、とマリーナは問いかけたいようだったが声を発することができないようだった。エインの鬼気迫る雰囲気にのまれマリーナは言葉を失っていたのだ。
「早く」
「は、はい」
マリーナは慌てて水差しを手に取ると一礼して部屋を出ていく。エインはそれを見届けることなく再び絵を描き始める。
(わかった、わかってきた。僕の、力)
筆を走らせる。エインは無言で手を動かす。マリーナが水差しを持って部屋に戻ってきたことも、近くのテーブルにその水差しを置いて出ていったことにも気が付かないほど集中しながら描き続ける。
描いているのは目。まるで本物のような眼球。
エインの足元、エインが座っている車椅子の周りにはいろいろなものが落ちている。絵筆、パレット、ペインティングナイフなど絵を描くのに使う道具もあれば、花瓶や皿や陶器の人形なども転がっている。
エインの周りに転がる物はすべてエインが生み出した物だ。
十日前。エインは何かに目覚めた。きっかけはわからない。
その力は魔法の力だった。絵を現実に、描いた物を具現化する能力だった。
最初は信じられなかった。けれどこの十日の間に実験を繰り返し、理解した。寝る間も惜しみ、食事もほとんどとらず、描いて描いて、描いた。
そして、完成させた。
「は、ハハハ」
できた。
「は、あ……」
全身から力が抜ける。車椅子に座って絵を描いていたエインはお辞儀をするように倒れ込み車椅子から落ちそうになるがそれをなんとかこらえて踏みとどまる。
何かに抉り取られるようにゴッソリと体力が削られる。痛みはない。体の中からエネルギーが消えたような、そんな感覚がエインを襲い、全身を虚脱感が包む。
その虚脱感はこの十日間何度も味わってきた感覚だ。それが成功した時の感覚だ。
エインは描き終えた絵を左の指でなぞる。すると絵が盛り上がる。
「できた、できた……!!」
最初はわずかだった盛り上がりがだんだんと大きくなる。そして、何かがカンバスからぽとりと滑り落ちる。
目だ。眼球がカンバスから抜け落ちたのだ。
「これで、これできっと、ダイナさんは」
エインはカンバスから現れた眼球を両手で受け取り、嬉しそうにそれを眺める。死人のような顔に嬉しそうに笑みを浮かべ、その笑みには歓喜と狂気が入り混じっていた。
「やっと、やっと、役に、立てた」
眼球を左手に持ったままエインはテーブルの上に置いてある呼び出し用のベルを右手で取る。だが手に力が入らずベルはテーブルから床に転がり落ちて小さな音を鳴らす。
「お呼びでしょうか」
そのわずかな音を聞いたウォレスがアトリエの中に入ってくる。それを見たエインは力なくうなだれながら口を開く。
「ダイナさんが、来る。体を、拭いて欲しい」
風呂に入りたい。とエインは言いたかった。だが、今の状態で入浴などしたらその場で気を失いそうだった。それほどにエインは疲れ切っていた。
「畏まりました。用意いたします」
「うん、お願い」
本当に少しでも気を抜くと気絶しそうだった。だが、ダイナが来るまで気を失うわけにはいかない。最後までやり遂げなければならない。
「お持ちいたしました。失礼、いたします」
水の入った容器とタオルを持ってきたウォレスがエインの上着を脱がせて上半身をタオルで拭いていく。エインはもう自分で体を拭く気力もない。
エインは停止してしまいそうな脳を無理やり回転させる。回転させ、考えをまとめる。自分に突然現れた能力について考えをまとめていく。そうすることで意識を失わないように、眠らないように意識をつなぐ。
発現した能力は『絵を現実にする能力』だ。そうとしか言いようのない能力だ。
この能力が発言してから十日間、エインは様々な検証を行った。そのおかげで自分の能力がどのような力なのかがわかってきていた。
この能力は『描いた物』を実体化させる力だ。自分で描いた絵を現実の『物』として実体化する能力である。
ただし、この能力には様々な制限がある。
まず実体化させるには最初から自分の手で描いた物でなければならない。他人の絵や以前に描いた絵を実体化させることはできない。
次にこの能力は『無機物』に限定される。動物や植物を描いたが実体化させることはできなかった。ただ、無機物の中でも『水』は実体化させあることができなかった。
血や肉も実体化させることはできなかった。野菜や果物なども同じだ。どうやら『飲食物』は実体化不可能らしい。水も飲み物であるため、無機物であるが実体化することができなかった。
その他、無機物であっても構造が複雑な物は実体化できなかった。試しにノートパソコンやスマートフォンを実体化させようとしたが実体化しなかった。
何ができて何ができないのか。そのすべてを把握することは今のところできていない。これからいろいろと検証していかなければならないだろう。
次に調べたのが『魔法』だ。実体化させた道具に不思議な力を付与することができるか、だ。
結論から言うと、できた。生み出した物に魔法を宿すことは可能だった。
ただしこれにも条件があった。体力だ。
この能力は体力に依存する。どうやらエインの体力、もしくは生命力を消費して絵を実体化させている。その体力の消費量は、絵の大きさ、描き込まれた線の数、使用された絵具の量に比例して消費量が大きくなる。
ただし消費量が多くなると言っても微々たる物だ。ただの物を実体化させるだけでは消費量はそれほど変わらない。
しかし、魔法の道具となるとそうはいかない。
今、エインの周りには試しに実体化させた魔法の道具が置かれている。と言っても魔法の杖や巻物などではなく、魔法の力を宿した画材である。
芯の減らない鉛筆と色鉛筆、さっと水で流すだけでどんな絵具もキレイに落ちる絵筆、あらゆる種類の絵具を無限に絞り出すことができるチューブなどなど単純な能力を付与した道具たちである。
これら単純な能力であってもそれなりに体力を消耗した。三十分ほど体が動かなくなる程度だが、普通の道具を実体化させるよりはかなり多い。
能力付与の方法も簡単だった。書けばいいのだ。絵の横に説明文を書き込めばいい。
最初はわからなかった。魔法で生み出しているのだから魔法の能力を与えられるのでは、と考えたまではよかったが、どうすればいいかまではわからなかった。
そんなとき思い出したのが『設定資料集』だった。ゲームの設定資料集のことを思い出し、それを真似てみたのだ。
試しに描いた絵の横にその道具の説明文を書くと見事に成功した。道具に魔法の力を宿すことができたのだ。
では、次に何をしたかと言うと、どれだけの能力を追加できるかを実験した。ひとつの道具にいくつの能力を与えられるかだ。
結論から言うと『わからない』。最高でどれだけの能力を書き加えられるのかは今のところ不明だ。
不明な理由は体力の問題だった。
体力の消費は能力を加えれば加えるほど激しくなる。一つよりも二つ、二つよりも三つのほうが消費が多い。これは単純に消費が倍になるということではなく、能力の大きさも影響してくる。
能力の大きさ。たとえば『芯の減らない鉛筆』の能力は単純で小さい能力だ。それに対し『治癒の能力を持つ指輪』の能力は複雑で大きい。この能力の大小や強弱によっても体力の消費は変化してくる。治癒の指輪などはひとつしか能力を付与していないにも関わらず、実体化した後半日以上動けなくなるほどに体力を消耗した。
エインに与えられた能力は複雑だった。まだまだわからないことはあるが、今はこれで十分だった。
十分だった。現時点で十分に理解したエインはその力を使いある二つの物を完成させた。
義眼と義手だ。もちろんこの二つには魔法の能力を付与してある。
「エイン様。ダイナ様がいらっしゃいました」
「わか、った。部屋で、待って、て、も、もら、って」
気を失わないように考えを巡らせながらウォレスに体を拭いてもらい新しい衣服に着替えさせてもらったエインは、布に包んだ義眼と義手を抱えてウォレスに車椅子を押してもらい部屋を出る。
「エイン様」
「だいじょう、ぶ。おわった、ら、やすむ、よ」
ウォレスの呼びかけにエインは振り向くことなく答える。その手には布に包んだ義手と義眼を大事そうに抱えている。そんなエインを乗せた車椅子をウォレスが押し、マリーナはそんな二人の少し後ろを黙って歩く。三人は廊下を歩きエインの部屋へと向かう。廊下を進む間、すれ違った使用人たちはエインの姿を見て驚き怯え、声を失ったかのように黙り込む。
誰もエインに声をかけようとしない。誰も彼も王子であるエインに対し一礼することも忘れ、エインの姿に目を見開き、息を飲み、後ずさり、エインを避けるように廊下の端に寄って道を開ける。
エインの部屋へとたどり着く。部屋のドアをマリーナが開け、ウォレスがエインの乗っている車椅子を押して部屋に入る。
「で、殿下!? ど、どうなさ……!?」
部屋に入ってきたエインの姿を見て挨拶をしようとしたダイナが、その言葉を最後まで言うことができず声を詰まらせる。
「い、今すぐ医者を」
「い、らない。あとに、して」
エインが顔を上げる。エインはダイナと視線を合わせる。
「ぼく、から、ぷれぜ、んと、が、あ、る、んだ」
ウォレスに車椅子を押されエインはダイナのそばへと近づく。ダイナはエインの目から何かを察したのか、何も言わずにエインを見つめている。
ダイナの前に来たエインは布包みを広げる。そして、その布包みの中に入っていた義手と義眼をダイナに見せた。
「まず、うで、から」
エインはマリーナに小声で指示を出す。だが、その声は小さすぎて聞き取れない。エインはもう声を発することも難しいほどに疲労していた。
声を聞き取ることができなかったマリーナはエインの口に耳を寄せる。そうすることで何とかエインの言葉を聞き取ることができたマリーナはその指示に従う。
「し、失礼、します」
マリーナはエインの命令に従いダイナの左腕の包帯を外す。
ダイナの左腕。モンスターの毒に侵され、それが全身に回らないように切断された腕。その左腕には肘から先がなく、傷口は治癒魔法でキレイにふさがっている。
エインはマリーナに義手を渡す。義手を受け取ったマリーナは少し震えながらダイナの左腕に義手を装着する。
装着、と言っても何かしたわけではない。ベルトで固定したりすることもない。ただはめただけだ。
だが、それでいい。それでいいように、造った。
「どう、かな?」
義手をはめられたダイナは驚いたような顔をしていた。その表情からエインは上手くいったことを理解する。
「うご、かして、みて」
そうエインに言われたダイナは左手を動かす。何の調節もせずともダイナの左腕にぴったりと装着された義手は、作り物であるはずなのにダイナの意志に従い動き出した。
「う、まく、いった」
ダイナの手が動いた。それを見たエインは今にも死にそうな真っ白な顔で嬉しそうにほほ笑む。
「こんど、ど、は、こっち」
そう言うとエインはまたマリーナに小声で指示を出し、指示を受けたマリーナはダイナの顔に巻かれている包帯を外していく。
包帯の下から現れた左目。眼球を失った左目は閉じられており、眼球がないことで支えを失ったまぶたが眼窩に落ちくぼんでいる。
「かお、こっち」
エインは手招きしてダイナに顔を近づけるように伝える。
「め、あけて」
ダイナはエインの命令に従い左目を開ける。
左目には何もなかった。エインはそのなにもない眼窩を覗き込む。
「なにか、あれば、すぐ、に、は、ずして」
エインはダイナの空っぽの眼窩に義眼をゆっくりと押し込む。そして、ダイナに一度目を閉じるように言う。
「……どう?」
エインから顔を離したダイナはしばらくの間目を閉じていた。目を閉じまま指でまぶたの上から義眼を触り、それからゆっくりと目を開いた。
「――殿下」
見た。ダイナの驚愕に見開かれた左目がエインに向けられた。
「み、える?」
ダイナは頷く。それを見たエインは本当に嬉しそうに笑顔を見せる。
「うまく、いった――」
ダイナが自分のことを見ている。ちゃんと両目で見ている。それを見たエインは満足そうに微笑む。
そして、倒れる。エインは笑顔を浮かべたまま前のめりに倒れ車椅子から滑り落ち、床に倒れ込む前にダイナの両腕に抱き留められた。
「エイン様!」
「すぐに医者を!」
エインは気を失っていた。
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