魔法のある世界
髪の毛の薄い老医師がベッドに仰向けに寝ているエインの脚を優しくもんでいる。その老医師の手はうっすらと発光しており、その光る手でもまれるたびにエインの肉が薄く細い脚の筋肉がピクンピクンと軽く痙攣する。これはいわゆる電気治療という物で、老医師の手からは弱い電撃魔法が放たれており、その電気の刺激によりエインの動かない脚を治療しようというものである。
「今日のところはこれぐらいにいたしましょう、殿下」
「……うん。いつも、ありがとう」
老医師が脚から手を離すたことを確認するとエインはホッと安堵したように息をつく。この電気治療という物をもう五年ほど行っているが、エインはいまだに好きになれずにいる。
「しかし、本当にお元気になって。五年前とは見違えるようですなぁ」
この老医師の治療を受け始めて五年が経つ。彼は王国内でも有名な『魔法医』であり、その腕は国内でも五本の指に入るほどだ。
魔法医とはその名の通り魔法が使える医者のことだ。医術と魔法を習得した優秀な医者だ。そんな有名で腕の立つ医者に診てもらえるのもエインがこの国の第三王子だからである。
けれどもそんな腕の立つお医者さまでもエインの脚は治らない。生まれてから今まで彼の脚は一度も動いたことがないままだ。
こんなことを続けていて意味があるのだろうか、とエインはいつも思う。医者を雇うのだってタダではないのだし、王族だからと言って無駄遣いをしていいわけではない。効果がないならいっそのことやめてしまってもいいんじゃないか、とも考えている。
だが、この医者を雇っているのはエインではなくエインの母である王妃エルエリッサだ。足が良くなってほしいという親心をエインは無視できず、効果が薄い治療を今も続けている。
「それでは殿下。失礼いたしまする」
診察と治療を終えた老医師がエインの部屋から深々とお辞儀をしてから去っていく。エインはその姿を眺めながら先ほどまで施術が行われていた太ももをなでる。
「あの、エイン様。気を落とさないでください。きっと、きっと動くように」
「あ、いや。別に落ち込んではいないよ。心配してくれてありがとう、マリーナ」
足をさすりながら小さくため息などをついていたエインを気遣うマリーナにエインは感謝の言葉を述べると優しく微笑む。その笑顔を見たマリーナは少しだけ顔を赤くする。
「もう、半分諦めてるし。まあ、でも、動いたらマリーナたちの負担が減るからそのほうがいいんだけどね」
足が動かない。それが不便なことは知っていた。だが、実際に体感してみると見たり聞いたりする以上に大変だ。移動するにも体を洗うにもトイレに行くにも何をするにもひとりではできない。そんな体の不自由なエインの介助を行うのがマリーナとウォレスの仕事だ。
仕事、とはいってもやはり申し訳なさはある。もしこの脚が動いたら二人に大変な思いをさせなくてもよくなるのに、とエインは考えてしまう。もし、脚が動くようになれば、お荷物と言われることもなくなる――かもしれない。
王家のお荷物。それがエインだ。二人の兄よりも出来が悪くいつも絵ばかりを描いている役立たず。それが国王や二人の兄のエインに対する評価である。
エインは家族の中でも浮いていた。そして王宮の中でも浮いた存在だ。体が不自由なため公務に就くことはなく、毎日毎日絵ばかり描いている変な子供。しかし、大っぴらに変だとは誰も口にできないため、王宮にいる者たちはエインを腫れ物のように扱っている。
味方はマリーナとウォレスぐらいだ。しかし、王宮の中以外にならほかにひとりだけ友人、とエインは思っている女性がいる。彼女は王国騎士団の騎士であり『流星隊』と言う隊の隊長で、五十人程の部下を従えて国内の様々な場所を転戦している。エインはそんな彼女から城の外の話をいろいろと聞いていた。
そう、いろいろとだ。城の敷地の外へ一度も出たことのないエインは彼女からいろいろな話を聞き、こちらの世界のことを知った。そして、違和感を覚えていた。
(最初からおかしかったんだよなぁ。あの時見た映像と、いろいろと違うし)
あの時、こちらの世界へ転生する前の時だ。あの二人の天使がいた雲に包まれた世界で見た映像だ。
肺炎で死亡した五歳の男児。それがエインフェルトであり、菱木健太が転生した人物だ。そして、確かにあの時、天使は「五歳の男性、死因は肺炎」と言っていた。そして、足が不自由であることも説明していた。
だが、違う。違うのだ。あの時見た映像と今の状況には違いがあるのだ。
まず髪の色だ。エインの髪色は金髪で、母である王妃の髪色も同じ金色だ。だが、転生する前に見た映像では、ベッドで息を引き取った男の子もその母親も髪色は黒だった。
さらには時代と場所も違う。転生する前に見た映像は菱木健太が死んだ時代と同じに思えた。健太は生まれも育ちも日本であり、黒い髪と黒い目をしていた。それと同じで健太が転生しようとしていた男の子も黒い髪をしており、映像で見た光景は健太の見慣れた光景だった。
健太が見た映像は日本と思われる場所の病院の病室。そのベッドで息を引き取った黒髪の少年にすがり付く、黒い髪をした母親、だったはずだ。
しかし、転生してみると違っていた。髪は金髪、母親の髪の色も金色。目を覚ました場所は病院ではなく城の中で、明らかに自分が見知った日本と言う国とは違っていた。あえてどこの国か、と言われるとヨーロッパのどこかの国、と言うしかないだろう。
時代はちょうどルネサンス期の半ばぐらいだろう。エインは絵を勉強するため国中の画家を呼び寄せたり、様々な絵を取り寄せて観察した。その結果、その写実性的な絵の特徴などからエインの前世の世界でいうところのルネサンス期、14世紀から16世紀のヨーロッパと似た時代だと推察される。
肺炎で死亡した五歳の男児で生まれつき足が不自由である、ということは共通している。それ以外は――時代や文明レベルなど――全く違うのだが、それだけは共通していた。
何かがあった、のだろうとエインは考えている。だが、一体何が起こったのかまではわからない。何が起こったのかを調べようにも、今のところその手段が思い浮かばない。
わからないことは五年たった今でもたくさんある。けれど、考えるだけでは答えはでないだろうと思ったエインは、いずれわかるときがくる、と問題を先送りにしている。
魔法と言う物が存在する未知の世界。菱木健太はその異世界にエインフェルトとして転生を果たした。ということだろう。
正直に言うと不安だった。思いもよらなかったことが起こり、自分に何が起こったのか全く分からない状態なのだ。不安に思わないわけがない。
ただ、不安の中に期待もあった。なにせ、魔法があるのだ。まるでゲームの世界みたいだ、と少しだけワクワクした。エインに転生する前の菱木健太はゲームなど一切したことがないが、ゲームなどの設定資料集を見ることは好きだった。なので実際のゲームは知らないけれど、ゲームの中のファンタジー世界がどんなものなのかはなんとなく知っている。
もしゲームをしたことがあったらもっとワクワクしたんだろうな、と思うこともある。ただ転生する前は、健太だったときはゲームをするよりも絵を描きたかった。ゲームよりも絵だった。
とにかく何かが起きている。何かが起きたのだ。そのことが気になり、これからどうなってしまうのか、と悩んだこともある。
その疑問や不安を解消しようとエインは何度か天使に呼びかけてみたことがある。もしかしたら天使たちがエインの呼びかけに応えて、今の状況を説明してくれるかもしれないと期待したからだ。
だが返事はなかった。何度心の中で呼びかけても、実際に声を出して呼んでも結果は同じだった。
今でも時折天使に呼びかけている。自分がもしかしたら間違った人に転生したのではないか、と不安だったからだ。
もし違う人間に転生していたとしたら、どうなるのだろう。と怖くなることもある。このまま黙ってエインフェルトとして生きていけばいいような気もする。
けれど、それではいけないような気もする。エインの中にいる菱木健太がそう言っている。正直に言わないとダメだ、と。
菱木健太。そう、まだエインの中には菱木健太がいる。正確には菱木健太であった時の記憶だ。そして、エインの中にはもうひとつの記憶がある。
それは『エインフェルト』としての記憶だ。菱木健太がエインになる前までの、生まれてから五歳になるまでのエインフェルトとしての記憶だ。
エインは一度、五歳の時に肺炎で死んでいる。ここでエインフェルトとしての人生は一度終わっている。
その死んだ体に菱木健太が入り込み、息を吹き返した。それが今のエインの状態だ。菱木健太が生まれてから死ぬまでの十五年間の記憶とエインが生まれてから五歳で死ぬまでの記憶、エインの死んだ体に健太が乗り移り息を吹き返してからの五年間の合計二十五年分の記憶を今のエインは持っている。
健太とエインフェルト。時折、二人分の記憶を持っていることで混乱することがある。だから、健太は日記をつけることにしている。その日にあった出来事などを記すための普通の日記と、過去の記憶を整理するための『過去日記』だ。ただ過去の記憶なので何月何日に何があったということを正確には覚えていないが、過去の出来事を思い出して記録することで、健太とエインフェルトの記憶を整理している。
日記は日本語で書いている。これならもし誰かに見られたとしても誰にも内容が分からない。なにせ日本語がわかるのは城の中にはエインしかいないのだ。日本から転生してきたエインしか日本語を理解することができない、はずだ。
日記を日本語で書いている理由はもうひとつある。忘れたくなかったからだ。菱木健太であったことを、日本で暮らしていたあの時のことを忘れたくないから、日本語で日記を書いている。
そして、同じぐらいにエインの記憶も大切にしている。エインフェルトの五歳までの記憶も、菱木健太としての記憶と同じぐらいに大切であり、その記憶にはとても感謝している。なにせ、その記憶がなかったらおそらく生活できなかったからだ。
この世界は異世界だ。この世界に生きている人間は異世界の言葉を話し、異世界の文字を使って生活している。ここは日本ではないし、もちろん健太は異世界の言葉も文字も知らない。
だがエインとして転生した健太はすぐにその異世界の言葉を理解することができたし、文字もある程度読むことができた。これは幼い頃のエインの記憶が残っていたおかげだろう。その記憶があったおかげで健太はエインとして生活することができている。
ありがたいな、とエインの中の健太は思う。もう元の『エインフェルト』と言う少年の人格は消滅し記憶しか残っていないが、だからこそわずか五年分の記憶を大切にしなくては、とエインに転生した健太は感じている。
そして、死んでしまったエインフェルトのためにも少しでも長く、少しでも幸せな人生を送らなくては、とそう思っている。
(がんばろう……。どうすればいいのか、わかんないけど)
エインはまったく動く気配のない自分の足を撫でながら自分にとっての幸せとはなんなのかを考える。
(絵を、描く。ぐらいしか好きなことないしなぁ)
絵を描く。絵を描いているときが一番幸せだ。転生する前も、転生した後も、それは全く変わらない。
ただ、それが本当に幸せなのかはわからない。それは健太としての幸せであり、エインフェルトとしての幸せはまた別のものではないのだろうか、と考えてしまう。
何が幸せなのか。今のところその答えはわからない。
「エイン様。そろそろハンデストロ様がお見えになるかと」
脚を撫でながら物思いにふけっていたエインにウォレスはそろそろ客人が来る時間だと教えてくれる。それはエインの友人、エインが友人だと思っている相手だ。
ダイナ・ルミリアナ・ハンデストロ。王国軍の女騎士がもうすぐやってくる。
(楽しみだなぁ。今日はどんな話が聞けるんだろ)
心が躍る。ワクワクしてくる。城の外へ出られないエインにとってダイナの話は外のことを知るための、異世界を知るための数少ない手段のひとつだ。それが楽しみでないわけがない。
待ち遠しい心を抑えながらエインはダイナのことを待つ。そして、それほど長い時間を待たずに部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「失礼します、エインフェルト殿下」
何度も聞いたことのある声がドアの向こうから聞こえた。それを聞いたエインは笑顔で声の主を部屋の中へ迎え入れた。
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