病弱な王子
白い外壁の大きな城、部屋を飾る豪華な調度品、大勢の使用人、重そうな鎧に身を包んだ警備兵、手入れの行き届いた広い中庭。その中庭にイーゼルを立て、そのイーゼルにカンバスを立てかけて絵を描く少年がいる。その少年は車椅子に座り、カンバスに木炭で下描きをしている。
エインフェルト・レンヴェルト・カールーン・ロウ・ラ・リィンガルド。それが車椅子に座る少年の名前だ。彼はこの広大な城の城主、国王であるセレストール3世の三男、つまりは王子である。年齢は誕生日はまだだが今年で十歳、太陽の光を糸にしたような美しく淡い色の金髪と宝石のように明るい緑色の大きな瞳をした、優しい顔立ちの美少年だ。
そんな彼が今描いているものはエインフェルトの世話係であるメイドのマリーナだ。彼女の年齢はエインフェルトよりも上、十五・六歳ほどの短い黒髪の気弱そうな顔立ちの小柄な少女だ。マリーナは中庭に咲く、この王国の象徴である黄金の薔薇の生垣の前に置かれた椅子に姿勢を正して腰を下ろし、動かないようにじっとしている。
季節は春。黄金の薔薇が咲く四月の半ば。時折、冷たい風が吹くことはあるが、日差しは暖かく、空気も柔らかい。
「あの、エイン様」
「なに?」
「あまり日に当たりすぎるのは体に良くないかと、思います」
「――母上、みたいなことをいうね」
マリーナはエインフェルトのことをエイン様と呼んでいる。もちろんこれはエインの前だけであり、エイン以外の人間がいる場合はちゃんとエインフェルト様か殿下と呼んでいる。二人の間柄はそれほどに親しいのだが、使用人であるマリーナはエインのことを愛称で呼ぶことにいまだに抵抗がある。
エインとマリーナはすでに五年の付き合いだ。エインが死の淵から生還したそのあとぐらいからの付き合いである。
そう、五年。エインが肺の病で息を引き取り、再び息を吹き返したあの時から約五年の月日が流れていた。
エインは下描きをする手を止める。
「マリーナが行ってしまう前に完成させたいんだ」
「そんな。お急ぎにならなくても、まだまだ先のことですから」
手が止まったことを確かめたマリーナは椅子から立ち上がり、車椅子に座るエインの後ろに回る。そして、エインの後ろから絵を眺める。
「――本当に、お上手です」
「まだ下描きだよ?」
「いえ。下描きでも、まるで世界をそのまま写し取ったような」
「大げさだよ、いつも」
マリーナはまだ下描き段階の絵に見惚れてながら、ほぅ、とため息をつく。彼女は本当にエインの絵の上手さに感動し心の底から褒めているようだ。
「全然描き込みも足りないし、色も塗っていないし。そんなに褒めるほどでもないよ」
エインは後ろを振り返り少し照れ臭そうな笑みをマリーナに向ける。
「でも、ありがとう。嬉しいな」
ありがとう、と感謝されたマリーナの顔がうっすらと赤くなる。
「さ、それじゃあ戻ろっか」
「は、はい」
顔を赤くしていたマリーナは自分の顔を軽くたたき、それから片づけを始める。エインの前にあるイーゼルを畳み、カンバスと一緒にエインの座る車椅子の後ろに取り付ける。この車椅子は特注品でいろいろな場所に画材を運ぶための工夫がされている。
エインはマリーナが片づけをしている間に濡れたハンカチで手を拭き手袋をはめる。下描きをするために使っていた木炭で黒く汚れた手を隠すためだ。炭で黒く汚れた手は拭いただけではきれいにならず、水で洗っても爪や手のしわの間に残った汚れはなかなかとれない。
以前、エインは木炭でスケッチをしている姿を父である国王に見られたことがある。その時、エインは国王に汚い手を叱られた。
お前は王家の人間なのだ。みっともない姿を見せるな。恥ずかしい。そんな風に国王はエインを叱り、ため息をついた。
そのため息がどういう意味なのかエインは知っている。あれは心底呆れた時の、どうしようもないモノを見た時のため息だった。
エインは手袋をはめた自分の手を眺める。そして、ギュッと握ってゆっくりと開く。
何を言われても構わない。エインは心の中でそう唱える。何を言えれようと、どんなふうに思われようと、絶対にやめない。
絵を描く。たとえ父である国王や周りの人間たちから冷たい目を向けられようと、絵を描き続ける。
「いつもごめんね、マリーナ」
「そ、そんな。これが私の仕事ですので」
画材を片づけたマリーナはエインの座る車椅子を押して歩き出す。足の不自由なエインは何をするにも誰かの手を借りなくてはならない。絵を描くときも画材のセッティングから片づけ、移動するにもこうやって車椅子を押してもらわなくてはなないし、階段などを上るときは誰かに負ぶってもらわなくてはならない。
不自由な体。そんなエインの世話をするのがマリーナの仕事だ。
「当り前のことです。謝罪などしていただかなくても」
「当り前じゃないよ。僕はマリーナがいるから生活できてるんだ。本当にありがとう」
車椅子に乗ったエインはマリーナに押されながら中庭を進んでいく。車椅子の乗り心地は相変わらず悪い。中庭に敷かれた石畳の道を進む車椅子はガタガタと揺れ、その振動がエインのお尻から体に伝わる。
「やっぱりゴムのタイヤじゃないからかなぁ……」
小声でそう言いながらエインはガタガタと回る車輪を指で触る。手袋越しに硬い木の感触が指に感じられる。
「何かおっしゃいましたか?」
「気にしないで、ただのひとり言だから」
車椅子の肘掛を手で撫でながらエインは考える。
(あっちの車椅子もあんまり乗り心地は良くなかったけど、こっちよりはマシだったなぁ)
あっち。エインはあちらの世界にいたころを思い出す。五年前、こちらの世界に転生する前の世界のことをだ。
そう、エインは転生者だ。以前の世界では
健太。健やかという字が入っているが、前世の健太は健康とは程遠い人生を送っていた。体が弱く、入退院を繰り返し、自宅よりも病院での生活のほうが長いというほどである。
そんな健太であり現在はエインである彼は絵を描くのが好きだ。大好きだ。前世でも絵を描いていたし、今も絵を描いている。
「それで、結婚はいつなの?」
「まだまだ先の話です。三か月後か、半年後か。いろいろと準備することが多いので」
結婚。そう、結婚だ。エインの世話係であるマリーナは結婚することとなっている。その相手はどこかの貴族という話だ。
「平民の私には勿体ないお話です。エイン様にもよくしてもらっていますし、本当なら王宮で働くこともできない身分。本当に私には勿体ない……」
そう語るマリーナの言葉はしみじみとしている。嬉しそうな、けれどどこか寂しそうな感じだ。
「でも、会ったことないんでしょ?」
「はい」
「それで大丈夫なのかなぁ……」
エインはマリーナの結婚の話を本人からいろいろと聞いている。どうやらこの結婚の話はマリーナの父親が持ってきた話なのだが、結婚は決まっているのにマリーナは結婚相手とまだ一度も顔を合わせたことがないらしい。――というか、結婚するまで結婚相手と顔を合わせたことがない、という話はこちらの世界ではよくある話のようである。
「大丈夫かはわかりません。ですが、父の持ってきた縁談ですので、断るわけにはいかないですから」
親の決めた結婚。本人の意思などもちろん無視だ。だが、マリーナはそれを断ることができない。彼女の立場は非常に弱いのだ。
マリーナは平民の身分ではあるが資産家であり、悪く言えば成金と呼ばれる部類の家柄である。ただいくら資産があり金持ちでも貴族ではない。マリーナの結婚相手は貴族の家柄であり、平民であるマリーナがその話を断ることなどできない。
そう、こちらの世界では身分や血筋という物が重要視される。金持ちであろうと貧乏であろうと貴族は貴族、平民は平民なのだ。
そして、平民であるマリーナは本来ならばエインの暮らす王宮で働くことなどできない。ましてや王子であるエインの世話係になどなれるはずがない。
しかし、そこは金だ。本来なら入ることすら許されない身分であるマリーナは父親の財力のおかげでここにいる。たとえ使用人であっても平民が王宮に軽々しく立ち入ることは許されないからだ。
この城で働く使用人たちはほとんどが貴族階級の者たちだ。代々、執事として仕える家もあれば、花嫁修業として貴族の家の次女や三女などがメイドとして働いている。料理人にも爵位が与えられているくらいだ。
おそらく平民はマリーナひとり。そのため様々なところから彼女は陰口を叩かれ、見下され、邪険にされ、馬鹿にされている。
ではなぜそんな平民であるマリーナがエインの世話係をしているのかと言うと、エインも似たような立場に置かれているからだ。
エインはこの国、ル・ルシール王国の国王の三男である。王家の血を引く正真正銘の王子様だ。だが、あまり扱いがいいとは言えない。体が弱く足が不自由で、誰かの手を借りなければ生活できないエインは、三男と言うこともあり父親やその他の貴族たちから重要視されていない。むしろお荷物扱いされている。
そんな王家のお荷物であるエインの相手など平民にさせておけばいい。ということでマリーナがあてがわれたというわけだ。おそらくは、であるが。
気にかけてくれていたのは唯一エインの母親である王妃だけ。彼女だけが病弱で体の不自由なエインをいつも心配し、優しい言葉をかけて、くれていた。
あまり立場のよろしくないエイン。しかし、エインはそれでも幸せだった。好きな絵をいくらでも描いていられるからだ。
貴族として最低限学ばなくてはならないこともあるが、その勉強の時以外はほぼすべて絵を描くことに使うことができる。朝起きてから夜寝るまで、いつだって絵を描いていられる。
まるで天国のようだった。画材が足りなければいくらでも手に入れることもできる。なにせエインは王子なのだ。エインが頼めば大体のことは叶えてもらえる。
もちろん無理難題やひどいわがままを言っているわけではない。ただ、絵具によっては宝石などを砕いて作った超高級品などもあり、なんとなく無駄遣いや贅沢をしているようで罪悪感を覚えることもある。
それにすべてが思い通りになるわけではない。
「エインフェルト様」
中庭を進み、城の中へと入るための入り口のところまでくると、その入り口のところに一人の男性が立っていた。エインは自分に向けて整えられた白髪頭を下げているその男性に声をかける。
「あ、ごめん。遅刻しちゃった?」
「いえ。ですが、すでにお待ちですのでお急ぎを」
頭を下げていた男性がエインを前にして顔を上げる。その顔には頭髪と同じ色をした手入れの行き届いた白い髭が生えており、目じりや口元には彼の年齢を示す深いしわが刻まれている。鼻が高く、目つきは鋭く、体つきは長身でスタイルがよく、老人とは思えないほど背筋もスッと伸びており年齢を感じさせない。
「待たせてごめんね、ウォレス」
「執事は待つのが仕事ですので」
ウォレス。エインにそう呼ばれた男性はちらりと車椅子を押すマリーナの方へと視線を向ける。
「も、申し訳ありません。つい、うっかり」
「マリーナが謝ることじゃないよ。僕がちゃんとしていればよかっただけだから」
「……ふう。まったく、いつものことと言えば、ことですが」
ウォレスは困ったように小さく息を吐く。エインが時間に遅れることは良くあることだからだ。
「絵を描いていると周りが見えなくなる。まったく、困ったものですな。いつものことですが」
「ははは、ごめんね……」
エインは困ったように頭をかく。絵をかくことに没頭しすぎて予定や約束を忘れてしまう、と言うのがエインの悪い癖だ。
「いつものこと、いつものことですがね。マリーナ。だからこそあなたがしっかりしなければならないのですよ? これ以上エインフェルト様の立場が悪くなることは避けなくてはならないのですからね」
「は、はい。申し訳ありません。以後、気を付け」
「以後、以後。さて、これで何度目でしょうかね」
「ご、ごめんなさい」
ウォレスはマリーナをチクチクと責め立てる。いつもは穏やかで物静かなウォレスなのだが、他人を注意する際には小言や嫌味が少し多めになる。
背の高いウォレスと背の低いマリーナ。その姿はどこかで見たことがある。エインはウォレスとマリーナを眺めながら、思い出す。
あの時、この世界に来る前の二人の天使。背の高い天使と背の低い天使の二人をだ。
(確か、あの時も、背の高いほうの天使さんが、あんな感じで――)
背の低い天使が何か失敗して背の高い天使に説教されていた。あの転生する前の場所、天国なのかよくわからないあの場所。
あの時は確か、背の高い子天使が「天使に対する信用が――」とか「その後の対応が遅かったから――」などなどそんなことを言っていた。その時のまだ菱木健太だったエインは突然のことに混乱しあまり天使たちの会話や説明が頭に入っていなかったが、よくよく思い出してみるとそんなことを言っていた。――気がする。
「まあまあ、二人とも。そう言う話はさ、あとにしようよ」
「はっ、申し訳ありません」
「申し訳ありません」
とにかく今は用事があるのだ。その用事をエインは思い出す。
(確か今日は、お医者さんが来るん、だったっけ)
そう、今日は診察の日だ。エインの診察をするために医者が来ているのだ。エインは絵を描くことに没頭しその予定をすっかり忘れていた。
「うー、やなんだよなぁ、あれ。ビリビリするし」
エインはため息をつく。とても気が重そうな、憂鬱そうなため息だ。しかし、文句は言っていられない。せっかく自分の体を診に来てくれるのだから、邪険に扱うわけにはいかない。
「では、参りましょうか」
ウォレスの言葉に従うようにマリーナはエインの乗る車椅子を押して中庭から宮殿の中へと入っていく。しかし、そのときエインは何かを感じたのか、後ろを振り返る。
「どうかなさいましたか?」
「……ううん、何でもない」
気のせいだろうか、と思いながらエインは前を向く。誰か、何かの視線を感じたような気がしたのだが、気のせいだろうか。
「とにかく行こう。これ以上お医者様を待たせたら悪いから」
宮殿の中に入った三人は医者の待つエインの自室へと向かった。
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