畳のへり

増田朋美

畳のへり

その日も暑い日だった。どこへ行っても暑いのが日本の夏というものであったが、それでもまだ、静岡の夏は暑すぎるという程でもなかった。他の地域では、体温並みに暑い地域もあるという。そんなところに行くなんて、想像を絶する暑さであるが、そういう事が、本当にあるというのだから、誰でも将来が不安になることが多いと思われる。

その日、製鉄所では、中庭の草取りを利用者が行っていた。確かに必要な行事であるのだが、由紀子にしてみれば嫌なものでもあった。本来であれば、安静にしていなければ行けないといわれている水穂さんが、そんなときに限って、自分だけ寝ているのはいけないと言って、外へ出ようとするからである。由紀子は、そんな水穂さんを、見ているのがとてもつらいというか、そんな事しないで安静にしてればいいのにと思うのだが、水穂さんは、怠けてはいけないと思ってしまうのだろうか。

水穂さんは、自分も外へ出てくさとりを手伝わねばと言って、中庭へ出ようとするが、数歩歩いただけで、えらく咳き込んでしまうのだった。

「大丈夫ですか。水穂さん、疲れたなら、布団に入って休みましょう。」

由紀子は、咳き込んでいる水穂さんに、そう言って、布団に入るように促した。

「草取りは、他の人に任せておけばいいの。水穂さんは、布団でゆっくり寝ていればそれでいいわ。戻りましょう。体が弱ったら、どうするの。」

由紀子は、咳き込んで居る水穂さんの肩を貸して、急いで四畳半に戻した。そして、ほら、と言って、布団に寝かせてやり、掛布団をかけてあげた。水穂さんはそれでも咳き込んだままだった。それと同時に、赤い内容物がどっと出る。由紀子は急いで、水穂さんの口元をタオルで拭いてあげた。

「大丈夫ですか?お医者さん呼びましょうか?」

と、由紀子は急いで言った。それと同時に、ご飯を持ってきた杉ちゃんが、

「ああよしなよしな、医療関係者なんて、碌なやつがいないから。どうせねえ、水穂さんのような人は、見てもらえないで、病院たらい回しにされるのが落ちだよ。」

由紀子にいうので、由紀子は腹がたった。

「そんなこと言ったって、苦しんで居るのだし。」

「まあ、由紀子さんの気持ちはわからないわけじゃない。でも、現実として、水穂さんが医療機関で見てもらえる可能性は非常に少ないし、見てくれたって、嫌な顔されて、追い出されるのが当たり前だよ。そういう悲しい気持ち、水穂さんにはさせたくないね。」

杉ちゃんに言われて、由紀子は、

「でも苦しんでいるのよ!」

と、思わず言った。

「わかってるよ。だから、僕もそれを考えて言っているんだ。水穂さんを、一日でも長くこっちにいさせてあげるには、医療機関に行かせない事が一番の方法なんだ!どうせ、医療機関のやつなんて、水穂さんのような人を馬鹿にしている奴らばかりの環境で育ってきている坊っちゃんばっかりだ。だから、見せたって、馬鹿にされるだけ。そんなの、水穂さんにさせたくない。だから、とにかく、薬を飲ませて寝かせてあげるのが一番なんだ!」

杉ちゃんが急いでそう言うと、

「僕もそう思いますね。」

いきなりやってきたのは、かっぱみたいな顔をした、柳沢裕美先生だった。この先生の顔を見ると、思わず吹き出してしまいたくなってしまうのであるが、由紀子は、東洋医学の先生を、好きになれなかった。

「そう思いますって、先生も、水穂さんを病院に連れて行かないほうが良いとおっしゃるんですか?」

由紀子は思わず聞いた。

「ええ。僕も杉ちゃんの言うとおりだと思います。僕もミャンマーにいたとき、ロヒンギャにそう言われた事がありました。今の杉ちゃんと全く同じセリフです。そういうふうに扱われてきたのは、ロヒンギャだけではありませんよ。アメリカの黒人とか、中国のトゥチャ族など、差別的に扱われた部族はたくさんいます。水穂さんもその一人ではないかな。つまりですね、どこに行っても、そういう差別的に扱われている人というのは、居るわけですよ。」

「でも、現に苦しんでいるんですから。」

由紀子がそう言うと、

「そうですが、仕方ないこともあるんですよ、由紀子さん。諦めなければならないというか、そういうことは、あるんですよ。」

柳沢先生は、そう訂正した。なんで年寄りは、そういうことばっかり言うのだろうか。なんで、そういうふうに何でも達観したようなことを言って、格好つけているのだろう。だから、年寄は由紀子は嫌いだった。

「とりあえず、水穂さんには、薬を飲んで頂いて、緩和していただきましょう。とりあえず、薬を飲ませてください。」

「わかりました。」

と、杉ちゃんが枕元にあった水のみの中身を水穂さんに飲ませた。確かに、薬は、一時的に、咳と出血を止めてくれるのであるが、根本的なことは、解決してくれない。やっぱり、そういうことは、ちゃんとお医者さんに見せる必要があると思う。とりあえず、水穂さんは、薬を飲ませてもらって、咳き込むのを辞めてくれた。由紀子は、水穂さんを横にならせて上げて、再度掛ふとんをかけてあげた。

「大丈夫です。咳がとまってくれれば、水穂さんは苦しまないですみます。」

「はあ、そうですが、、、。」

由紀子は、なんとなくじれったい思いがした。

「まあ、人間誰でも、そういうところがあるんだよな。なんでも、自分で決着をつけて、納得しないと行けないところがあるんだよな。もちろんとことん追求して、それで勝利ってこともあるんでしょうけどさ。でも、勝利も敗北もできないで、ただ日常生活やっていくしか無いってこともあるんだよ。」

杉ちゃんが、由紀子を慰めるようにいうが、

「私は、信じませんね。水穂さんには、良くなってほしいと思っているだけなのに。」

と、由紀子は言った。

「まあそうですね。それが、若いということでもあるんでしょうね。」

柳沢先生が、優しくそういうのであるが、由紀子は困ってしまって、何も返答できなかった。

「とにかく、水穂さんには、これまで通り安静にさせてやってください。それから、本人がいくら言っても、草取りはさせないでください。」

「わかりました。」

柳沢先生がそう言うと、杉ちゃんが言った。なんで、と由紀子は、納得できないまま、柳沢先生が、帰っていくのを見送った。

「まあなあ。由紀子さん、あんまり気に病みすぎないほうがいいよ。人間どうしてもできないことはあるんだから。ただそれに従って、生きていくしか無いときもあるんだから。なんとかしてくれるっていうのは、なにか悪いものかもしれないじゃないか。例えば甘い言葉に騙されて、特殊詐欺の出し子になるとかさ。そうならないで、穏やかに毎日を過ごせればいいってことだ。それでいいと思うよ。」

杉ちゃんは、由紀子に言った。

「まあ、それでいいじゃないか。とにかく、水穂さんは、楽になってくれたんだから。由紀子さんも、明日仕事があるだろ?あんまりここで長居をするのではなく、家に帰ったほうが。」

杉ちゃんがそう言うので、由紀子は、自宅に帰らなければならなくなった。なんでこうなってしまうのだろうと由紀子は思ってしまう。なんで、私は、水穂さんのことを、ここまで好きなのに、ずっとそばにいてあげられない存在なのだろう?

「水穂さんの世話は、僕がしておくよ。由紀子さんは、もう明日の支度をしたほうがいいと思うよ。」

杉ちゃんに言われて、由紀子は、

「はい。」

とだけ言って、仕方なく、ポンコツの車に乗って、家に帰った。家に帰っても、どうせ何もすることは無いのだ。ご飯を食べると言っても、女のひとり暮らしであり、カップラーメンごときで満足してしまう。由紀子は誰とも話さないで、ラーメンを食べた。風呂に入ろうかなと思ったけど、なんだかその気になれず、由紀子はソファにどてっと座った。

ふと、由紀子の部屋のインターフォンがなった。誰だろうと思って、由紀子は急いで玄関先に行くと、

「由紀子!」

と、言って入ってきたのは、渡辺香菜という女性だった。由紀子には地元の友だちがいなかったから、こうしてインターネットで友達を募るしか無い。香菜も同じであった。香菜は、時々由紀子の部屋にやってきて、ぐちを漏らす時がある。こういうことはメールで済ましてもいいと思うのに、香菜は、そういうことは、できないようだった。

「渡辺さんどうしてこんな時に。」

由紀子は思わずそう言うが、

「ええ、ちょっと仕事で嫌なことがあったから、こさせてもらいました。」

と、香菜は嬉しそうに言った。

「でも、なんだか、嫌な事があったことはないように見えるけど?」

由紀子が思わずそう言うと、

「まあ確かに嫌な事があったけど、でも、いいこともあったわよ。私ね、由紀子にも言ったかもしれないけど、今、カウンセリングの勉強してるんだ。今は、水商売の仕事してるけどさあ。いつかはさようならして、ちゃんと、カウンセリングの仕事する。それが私の将来の夢なんだ。」

香菜は、にこやかに言った。

「そうなのね。香菜は夢があっていいなあ。」

由紀子は羨ましい気持ちで言った。

「それでね、由紀子。私、カウンセリングの勉強しながら、時々、動画サイトとかで、練習したりしてるんだけど、それで、すごい人と出会ったのよ。あたし、思い切って告白してみたら、受け入れてくれた。それで私は、恋愛も、仕事も順調なんだ。」

香菜は、にこやかに笑ってそういうことを言った。香菜ばかりではないけれど、人間は、誰でも他人に自慢してしまいたくなるときがある。なんでこんなつまらないことをと思われるかもしれないけど、そういうことを、誰かに話さなければいけないと感じてしまうこともある。

「そうなのねえ。香菜は、何でも順調か。私は何にも無いわ。仕事だってただの駅員のままだし、恋愛だって、私の思いが通じないしなあ。」

由紀子も本音をぽろりと漏らしてしまった。

「まあ、由紀子ったら。思うだけじゃ恋愛はできないわ。由紀子は好きな人が居るでしょ。それはどんな人なの?」

香菜に言われて由紀子は、水穂さんのことを口に出して言おうか迷ってしまった。

「居るんだけどね。でも、私の思いなんて、口に出しても通じないわよ。」

由紀子は、はあとため息をついた。

「そうなのね。どんな人なのよ。どんな顔してるの?誰かタレントで言えばにている人居るの?」

香菜に言われて由紀子は、困ってしまった。

「誰といえばいいのかしら。今風のアイドルという感じではないし、すごい素敵な人ではあるけど、タレントに例えたら誰になるのかしらね。テレビのタレントに例えようにも、すごいきれいな人で、うーん、なんと言ったらいいのかな。」

由紀子は、水穂さんの美しさをどう例えていいかわからず、そう話してしまった。具体的に言ったら、ショパンを今風にしたような感じであるが、そんな事を言っても、香菜にわかるはずがなかった。香菜は、クラシック音楽には縁のある女性ではなかったのである。

「そうかあ。例えようが無いほど、きれいなんだ。すごいじゃない。由紀子はそんな人に思いを寄せてるのねえ。あたしとは、全然違うんだ。まあでもさ、憧れだけではなく、由紀子も恋愛できるといいね。手の届かない人を好きになるより、手の届く範囲で楽しんだほうがいいと思うわよ。あたしだって、そうしてるんだし。そのほうが絶対いいって。誰でもねえ、ちゃんと身分に応じて、好きになるようになってるからねえ。あたしは、少なくともそう思ってるな。楽な方が絶対いいってば。手の届かない人を、思い続けるよりも、手が届く方を、手中に収めたほうが楽よ。」

香菜はそう言ったが、由紀子は考えを変えることはできなかった。香菜のように簡単に自分を受け入れてくれる人に、思いを寄せてしまうのはどうかなと思う。

「まあ、結局の所、あたしたちは孤独なのよ。いわゆる流れ者っていうの?そんなところあるじゃない。だから、こういうさ、田舎の地元愛がたくさんある人に、理解されるってのは、難しいことよね。」

香菜はそういうことを言うのだった。

「だから、簡単に好きになれたりするほうが、いいってわけ。由紀子も、そうしなさいよ。そんな届かない人を、思い続けるよりも。」

「そうねえ。」

なんでこういう人が、自分の家に来るのかよくわからないけれど、由紀子は香菜の、恋人自慢を聞いていた。なんでそうなってしまうのかなと思いながら、由紀子は大きなため息をつく。

「まあ由紀子、幸せになりなよ。それだけは誰でも同じことよ。」

香菜は、最後に由紀子にそういうことを言った。それはそうなのであるが、由紀子は、香菜のような幸せはほしくないと思った。とりあえず、香菜にはもう遅いからと言って帰ってもらったが、でも、彼女が行ったあと、由紀子はとても疲れたような気がした。

その翌日。由紀子は、月曜日なので、駅員のしごとへでかけた。でも、仕事は上の空で、駅員さん、本吉原駅へ行くには、どこの電車に乗るのがいいんですかと、お客さんに聞かれて、はっとしてしまったくらいだ。自分はその時は、吉原駅に勤めている駅員なんだけれども、なんだかそれではなくなってしまっている由紀子だった。

その翌日も、由紀子は駅員の仕事をした。その次の日も、また次の日も。由紀子の日常は、製鉄所に行かなければ、駅員のしごとと、自宅の往復だけであった。食べるものは、カップラーメンで十分だし、おしゃれな食べ物を選ぼうという気にもならない。洋服も、しまむらのような安い洋服屋で済ませれば十分。テレビも何も面白い番組もないし、由紀子の生活はそんなつまらないものであった。確かに、香菜に言わせればつまらないものであるかもしれない。

金曜日。由紀子のしごとは、翌日から二日間休みになる。その間は別の駅員が駅の業務を行うことになっている。なんだか、それは、嬉しいのかつまらないのかわからない。そうなると、いつもどおりに製鉄所に行って、水穂さんの看病に行く。明日は、何時に製鉄所に行こうかなと、由紀子が考えていると、由紀子のスマートフォンがなった。誰だろうと思ったら香菜だった。

「どうしたの?」

由紀子がそう聞いてみると、

「由紀子!私の恋人、他に好きな人が居るって言ったのよ。私とは単なる気の慰めだって。私は、どうしたらいいか。私の事、好きだって行ってくれたか、それで良かったと思ってたのに!なんで簡単に付き合えて、簡単に別れることもできちゃうんだろ!」

香菜は、でかい声でそういうことを言っていた。由紀子は、香菜に簡単に仲良くなれる以上、関係を維持するのは難しいわよと言おうと思ったが、香菜は泣いているので、それは言わないでおいた。

「それでは私、どうしたらいいのかしら。これから、その人を失って、どうしたらいいのか。由紀子はどう思う?」

と、言っている香菜に、由紀子は、こないだ杉ちゃんに言われたことと、同じことを言えばいいと思った。

「そういうことなら、辛い感情を抱えたまま、しばらく生きてみたらどう?それで、なにか新しい恋が、出来るかもしれませんよ。」

「そうねえ。」

香菜もそう言っている。同じく流れ者として、ある程度理解できているのだろう。

「まあ、辛いけど、新しい恋をすることだってあるかもしれないしねえ。由紀子、いいこと言うわ。やっぱり、由紀子と友達で良かったわ。」

と、香菜は言っている。由紀子は、自分のことを、そう言ってくれるのは嬉しいが、香菜にももう少し、成長してほしいなと思った。でも、それはあえて言わないで置いた。

「まあ、お互い、流れ者同士、頑張りましょう。由紀子も、早く恋愛で充実できるといいわね。」

香菜は、そういって電話を切った。

その翌日は土曜日だった。何故か雨が降っていた。天気予報では、晴れだと言っていたのになぜ雨が降っているのだろうと思ったが、由紀子は、それでも、水穂さんのそばにいたいと思ったので、急いで製鉄所に向かった。由紀子が到着すると、製鉄所には、杉ちゃんと柳沢先生がいた。一体何があったのかと思ったら、四畳半の畳が汚れていて、枕元に薬の水のみがあった。水穂さんは、静かに眠っていた。多分きっと咳き込んで、薬を飲んで眠リ出したのだと思った。

「あーあ、相変わらずというか、ひどかったね。やっぱり雨が降って、湿気でやられてしまったのかな。まあ、こういうことはよくあることだからさ。水穂さんが眠ってくれて良かったと思うことにしよう。」

と、杉ちゃんが言っている。隣にいた柳沢先生は、

「そうですね。漢方医療に出来ることはやっぱり限られてますよ。」

申し訳無さそうにそういったのであった。由紀子は、それを聞いてちょっと安心した。それならまだ、病院につれていける可能性があるのではないかということだ。私は、これからも水穂さんのことが好きだもの。それは、香菜のような、簡単に思いを告げられる恋愛はできなくても、私の好きな人は、水穂さんだもの。それは、きっと、これからも続いていくだろうから。香菜のような、人生は簡単にどうのが美徳であるはずは無いはずだ。簡単になんでもできていたら、人生は面白くないじゃない。だから私はきっと、水穂さんをこれからも愛していく。そう思いながら、由紀子は、水穂さんのそばに行って、吐いた血液でひどく汚れてしまっている畳を雑巾で丁寧に拭いた。

「これからも張替え代がたまらないが、それも、水穂さんのすることだよな。また、畳職人に頼んで、張り替えてもらおうな。」

と、杉ちゃんがそう言うと、由紀子は

「いいえ、杉ちゃん。そんな事したら、水穂さんが可哀想だわ。水穂さんのことを思っているんだったら、言わないであげましょう。」

と、杉ちゃんに言った。

「まあそうだけどねえ。」

杉ちゃんも柳沢先生も、苦笑いした。

由紀子は、何も言わないで、畳のヘリを拭いてあげた。


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畳のへり 増田朋美 @masubuchi4996

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