月白相照らす——AT REAL 前編
——誰かがああ言ってたとか、あの人がこう言っていたとか、物陰から聴こえてくる声が嫌で嫌でたまらなくて耳を塞いでいるうちに、いつの間にか大事なことも聴き逃してしまっていた。近くにあることだけでいいのに、手の触れられる範囲のことだけでいいのに、どうしてか両耳に手を当てて、遠く向こうのことばかりをぼんやり見つめている。こんなんだから、私はここに居ないんだ。——
走る、走る、走る。中央線のオレンジ色の電車から降りて、ホームを駆けていく。申し訳なさだとか、言い訳だとか、そういうものを胸の底でかき混ぜながら走る。スカートがひらひらと膝にまとわりついて、私の全力疾走にブレーキをかけてくる。鬱陶しい。
とにかく、まずは今日遅刻してしまった理由から話して、それと先週わざわざ私のことを探してくれたのに無下に扱ってしまったことを謝って、それだけだと足りないから今日の食事代は私が出そう。後は何を話せばいいだろう?
階段を下りて、交通ICをタッチして改札を抜ける。LIMEで指定した集合場所は「改札前」だ。首を右に左に、彼のことを探す。休日で人の多い武蔵小金井駅、存在感の薄い私を懸命に探そうとしてくれていたとしたら申し訳ない。私から見つけて声をかけないと。いるとしたら待ち合わせをしていそうな人がたくさんいる、あの柱のあたりだろうか?
「あの、玲さん、ですよね?」
「うわぁ!」
突然、聞きなじみのある声が背後からして、声をあげてしまった。
「そ、そんなに驚かなくっても」
いつもの緑の上着。ちょっと猫背で無造作な髪。光輝くんだ。
「その、えっと、ごめんね?」
順序だてていろいろと謝罪しようと思っていたのに、光輝くんに話しかけられただけでいろいろと吹き飛んでしまった。
「いや、今来たところ、ですの、で」
光輝くんはそういうと頭をぶんぶんと振る。
「ほら! 行きましょう! 武蔵野文理科大学でしたっけ? 北口はこっちですよ!」
光輝くんは駅の案内表示を指さすと、せかせかと前を歩いていく。電車内で、駆け下りる駅のホームで胸の底にあった気持ちは、すべて杞憂だったのだろう。いつもとなんら調子の変わらない光輝くんに安堵を覚えた。
「ところで、その、なんですかその恰好は? 女子高生のコスプレですか?」
「いや、本職だよ」
ネクタイを正しながら、私は答えた。
「実は今日午前授業だったんだけど、そのあと友達に掴まっちゃって。家に帰って着替える時間が無かったから、そのまま来ちゃった」
友達というのは篠宮さんのことだ。関西弁で喋る陽気な生徒会副会長。正直、なんで仲良くやれているのかは謎。
「ふぅん、そうですか。人と待ち合わせの約束をしていたのに、自分は友達と仲良く談笑ですか」
光輝くんは短い影を連れて往来を歩きながら、私の方を見ずにそう言った。
「それは、本当に申し訳ない」
光輝くんの背中を見つめる。ちゃんと言葉が届いたのか、少し不安になった。
「まぁ、いいですよ。いや、大学に行くっていうのはあんまり気乗りしないですけど」
光輝くんは立ち止まってこちらを振り返った。目は合わない。その後ろでは歩行者信号が赤く灯っていた。
「? どうして? 光輝くんは3年生でしょう? それとも、もう志望先は固まっているから、ほかの大学に興味ない感じ?」
名門大学に行った兄は私と同じくらいの時にすでに志望大学を1本に絞っていたから、オープンキャンパスや入試の説明会には全く顔を出していなかった。だから、光輝くんもそうなのかもしれないと思うのは、自然な推理である。
「いや、えっと、半分当たりで半分外れです」
「どういうこと?」
的を射ない返答に訊き返す。信号はまだ赤いままだ。車が横切っていく。
「そりゃ行きたい大学はありますけどね、めちゃくちゃ行きたいところが。でも、そこに受かるかどうかってのはまた別問題じゃないですか。だから、なんていうかな――」
「つまり、志望していない大学だったとしても、そもそも大学に行くことで受験に向けた準備がまだ足りていないことが思い起こされてナーバスになっちゃうってこと?」
「みなまで言語化しないでくださいよ!」
光輝くんはバツが悪そうな顔をして言った。一瞬だけ目が合う。
「ごめんごめん」
私が謝罪をする間にも、彼の目線は靴もとへと落ちていった。
「ええ、そうです。成績が揃えきれなくって推薦をもらえないんじゃないかってことが、全然関係ない他大学を目の前にするだけでもフラッシュバックするとんだナーバス野郎ですよ」
「ふふ、ごめんってば。別にオープンキャンパスに行くわけじゃないんだからさ、ただちょっと調べ物をするだけ。大学入試とはなんら関わり合いのないことだよ。でも、そっか。意外だな」
「何がですか? もしかして僕のこと、秀才さんだとでも過大評価していましたか?」
「ううん、そうじゃなくて」
「それはそれでショックなんですけど」
「そうじゃなくってね、光輝くんって意外と慎重なんだなと思って」
私がそう言うと、辺りがシーンと静かになった。車が通りを横切らなくなったからだ。
ゲーム中の振る舞いも、夢の世界でも大立ち回りも。無理だ無理だと言いながらも、悪態をつきつつなんだかんだやってのけるのを何度も見てきた。受験くらいでそこまで過敏になるのが意外だったのだ。
「いや、大学受験ですよ? 慎重を期すのは当たり前でしょうが」
「うん、そうだね。私がまだ2年生だから、危機感がないだけなのかも。あ、青だよ」
光輝くんの肩越しに見える信号が、そのサインを変えた。カッコー、カッコーと目の不自由な歩行者に向けた音が流れる。
「はぁ。それじゃ、行きましょうか。ところで、わざわざ大学に行って、何を調べるんですか? 論文?」
光輝くんは横断歩道を歩きながら私に尋ねてきた。
「いやぁ、少なくとも私にはそんなの読めないよ。ただ、噂が広まりを見せた原因をしっかりと押さえておきたいと思って」
「噂って、なんの?」
私より一足早く歩道に辿り着いた光輝くんが、質問を重ねてきた。
「幽霊屋敷」
私たちの背後で、カッコー、カッコーという音色が鳴り止んだ。
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