秘色の理——AT REAL 後編
確かに篠宮さんの言う通り、さっきまではあれだけ快晴だったのにいつの間にか空は鈍色になっていた。それぞれの行く先が違うから、駅で解散になる。高橋さんと二条さんと別れ、篠宮さんと2人で東京行の電車に乗った。正直、ほっとした。
「さ、2人きりになったことやし! 前に言うてた男の子の話、聞かせてもらおか?」
前言撤回。油断ならない時間はまだ続きそうだ。
「えっと、何のことかな?」
一応、一縷の望みに託してとぼけてみる。別に光輝くんと何かがあるわけではないけど、関係を説明するにはあまりにややこしい間柄だ。
「とぼけてもあかんよ! いや、玲ちゃんは男の人って言うとったっけ? てことは年上の人なんかな?」
鋭い。
「どこで会うてたん? もう何回か遊んでるん? まさかもう付き合うてたり?」
「えっと、会ってたのは代官山で……、でも、光輝くんとはそういう関係じゃ——」
「光輝くん!! し、下の名前で呼び合う間柄」
「だ、だから、そう言うんじゃないって!!」
失言だった。篠宮さんは頭を押さえてくらくらとしたそぶりを見せる。
「ズルい。まだうちはお父さんにも下の名前で呼ばれたことないのに!」
「いや、特殊な家庭!」
「ま、実際のところがどうなんかは置いておいて」
篠宮さんは手ぶりでそこにはない何かを、両手で右脇に置いた。
「うちのこともそろそろ下の名前で呼んでよ」
篠宮さんはそう言って、両の人差し指で自らの頬を指差す。
「え、でも、今更呼び方を変えるのも……」
「恥ずかしい?」
「う、うん」
躊躇いがちに頷くと、篠宮さんは半歩、私に近付いた。
「今更って、今からやんか。その言い振りやと時間経てば経つほどチャンスはなくなりそうやし」
電車が揺れて、篠宮さんは庇うように私の肩に手を回した。
「いつだって今が一番若いんやから、恥かくんなら今の内やで」
篠宮さんを見上げる。正直、嫌だ。言い方ひとつで何が変わるんだって話ではあるんだけど、目に見えて関係性が前進してしまう気がして。でも、篠宮さんが望むのなら。
「えっと、彩音、さん?」
「そ、それもええけど! 呼び捨てがええなぁ」
篠宮さんは私をちゃん付けで呼ぶくせに。
「うん、えっと——」
『次は荻窪、荻窪——』
逡巡している間に、電車が目的の駅に着くことを告げた。
「あ、じゃあ、私、ここで降りるから」
「せ、せやな。この辺にしといたるわ! また学校でなー」
篠宮さんは出口の方に私の体を送り出して、肩から手を離した。
「うん。それじゃあね」
開いた扉から電車を降りて、振り返って手を振る。篠宮さんも窓越しに、どこか照れくさそうに手を振り返していた。
それからバスに乗って家の最寄り駅に向かい、小雨の中を小走りに、自宅のあるマンションに辿り着く。こういう時は駅前に家があって良かったと思う。これで妹が帰って来ていて、いつもの調子でリビングでだらだらとテレビを点けてスマートフォンをいじっていてくれればよかったんだけど、現実はそうもうまくはいかないみたいだった。
家には兄も妹も居なかった。
急に胸がざわつく。時計は16時を示していた。まだ心配するような時間じゃない。小学生だってまだしばらく遊んでから帰るような時刻だ。それでも、念のため。私は妹にLIMEでメッセージを送った。普段なら割とすぐ既読がつくんだけど。
それから、リビングで既読がつくのを立って待っていたら、それより先に兄が帰宅してきた。
「ただいま。急に降り出して来たなー」
「あ、おかえり。そうだね」
兄に滴る水滴を見るに、雨はひどくなってきているみたいだ。
「莉子、まだ帰って来ていないみたい。どこに行ってたの?」
兄にタオルを渡して尋ねる。
「サンキュ。いや、ちょっと本屋に。まぁ、夜には帰って来るさ」
タオルを受け取った兄はそう言って、どっかりとソファに座った。
「ほ、本屋って」
尋常ではなかったこの人と妹の喧嘩の様子がフラッシュバックする。もちろん、それでも友人と遊ぶことを取った私が悪いんだけど、兄のどこ吹く風な様子も腹立たしい。
あの時、ちゃんと呼び止めていれば。
そういう後悔をまたしてしまうのではないか。そう思うと胸のざわつく感じがひどくなってきた。
「探してくるよ、莉子のこと」
ソファからはみ出した兄の後頭部に向けて言う。
「こんな雨の中をか?」
振り返る兄の眼鏡はうっすら曇っていた。
「うん、お兄さんは家で待ってて。莉子が帰って来たら教えて」
「おい、ちょっと待てって」
兄の制止を振り切って、ビニール傘を手に家を飛び出した。
莉子が行きそうな場所。駅前。ゲームセンター。公園。線路沿いの道を歩いて、高架下のバスケットコートを覗いても、そこには妹の姿はなかった。靴は雨水でぐずぐずになって、段々と通りは暗さを増していった。夕べの音楽が鳴って、手を繋いで歩く親子の横を通って、気付けば高校の最寄り駅まで歩いて来ていた。
どうしよう。思い当たるところは大体見て周ってしまった。友達の家にいるとかだったらいいけど、私は妹の交友関係については分からないし。そうだとしたら家に連絡が来てしかるべきだし。一瞬、警察の2文字が頭を過ったが事態を大きくしたら返って妹が辛いかもしれないし。LIMEを確認しても、兄からも妹からも連絡はなかった。
駅の改札の前で、ぼんやりと路線図を眺める。もし、電車で遠くに行ってしまっているのだとしたら。中学生の女の子1人で、本当に大丈夫だろうか。突然、不審者に話しかけられでもしたら——
「あの……、あのー!」
間近で聞き覚えのある声がしたので、その主の方へ振り返る。私より少し背の高い、ちょっと上ずった特徴的な声。
「へ? 光輝くん!?」
なんでこんなところに?
「良かった、本物の玲さんですね」
「いや、影武者ができるほど立派な身分じゃないよ。えっと、なんでこんなところに?」
さっき言葉にできなかった疑問を、どうにか紡ぎ出す。
「だって、幾らチャットしても返事寄こさないじゃないですか! あんなことがあった後じゃ、無事か気にはなりますよ!」
チャットって『UTOPIA』のことか。慌ててスマートフォンでアプリを起動すると、確かに何10件も個人チャットが送られてきていた。そうか、そういえば夢の世界では、光輝くん目線では大邑に辿り着けず落下してしまったように見えるよな。
「ご、ごめん。でも、どうして小泉学園に?」
「そ、それは、ほら! 前、通ってる高校の名前、い、言ってたじゃないですか!?」
そういえば、そんな話も以前していたような気がする。
「心配かけちゃってごめんなさい。優しいね、光輝くんは」
「へ?」
「わざわざここまで探しに来てくれたんでしょ? ありがとう」
「ま、まあね! と、とにかく無事なら良かったです。それで、あっちの話ですけど——」
「えっと、その、ごめん。今、あんまり時間なくてさ」
話始める光輝くんを遮る。本当は夢の世界の話だってしたいし、ゲームの話だって聞きたい。でも、今は余裕がない。
「あ、そうですか……。じゃ、またチャットで確認してください。そっちにも書いたけど、向こうの僕は盤帝の生家? 昔の家に匿ってもらってて無事なんで!」
光輝くんはそう言って改札の方へと歩き出す。
「ちょっと待って! また今回みたいに気付けないと申し訳ないから、LIMEの交換しよう?」
向こうでプッチという連絡手段を得たように。もう友人なのだから連絡先は互いに知っておいた方が良いだろう。
「へ? あ。そ、そうっすね! じゃあ、はい」
光輝くんのQRコードを読み取る。
「何か、色々無理してそうですけど、大丈夫ですか?」
光輝くんに訊かれる。顔に出るほど、余裕なかったかな。
「ううん、大丈夫だよ。あの、この埋め合わせは絶対にするから」
「や。別にそういうのは良いです。僕が勝手に来ただけなんで」
光輝くんは早々とスマートフォンをポケットに仕舞い、また改札の方に小走りで去ってしまった。
「キャパオーバーしたらいつでも言えよ」
とだけ残して。
結局、手に入ったのは光輝くんの連絡先だけ。手掛かりはゼロだ。でも、向こうの光輝くんも無事なようなら良かった。盤帝って、大邑の皇帝だよね。その人の生家、昔の家に——
「まさか!」
最初から選択肢から除外していた場所があった。昔、私たちが暮らしていた家。もう誰も暮らしていない廃墟と化した、あの家。家出でわざわざ神奈川くんだりまではいかないだろうと思い込んでいた。いや、頭の隅にも思いつかなかった。
「行かなきゃ、もうそこくらいしか思いつかない」
妹にも見せられない”仕掛け”が施されているし、何より前の事件があったから、何か変なことが起こらないか心配だ。急がないと。
電車を乗り継いで、月吉本町駅に降り立つ。すっかり暗くなってしまったかつての家路を走る。水たまりに反射する頼りのない街灯を踏みつけて、人よりも草木や虫の方が元気な廃墟に辿り着く。濡れた鉄扉を押し開けて、玄関の扉の前。その扉が半開きになっているのに気が付いた。押し開くと見覚えのある踵を踏み潰した靴があった。妹のものだ。
時々落書きがなされていることがあったり、誰かが勝手に入った形跡があったり。その度に綺麗に直していたけど、それはつまりこの辺りの不良とか不審者がこの家に侵入していた証拠なんだ。もし妹がここでそういう人たちと鉢合わせでもしたら。そんな不安でざわざわと心臓が逆撫でされる。1階にその気配が無かった以上、いるとしたら2階だ。もし居なかったら、その時は……。いや、まずは確認しないと。スマートフォンのバックライトを頼りに階段をギシギシと上がる。
「莉子ー! 居たら返事して!」
声を出すか迷ったけど、もし1人でここにいるんだったら、私なら誰も迎えに来てくれない不安の方が勝つから、声を上げて妹の名を呼ぶ。
そして、2階の奥に向かうと、目的の部屋に入る前に飛び出してくる人影があった。
「れ、玲ちゃん!!」
莉子だ。私の姿を確認すると、妹は泣きながらこちらに駆け寄ってきた。私より背の高い妹の顔が、私の胸元に埋められる。バサバサになってしまった髪の毛を私は撫でる。濡れていた。落ち着かない様子で小刻みに震えている。
「に、兄ちゃんが、兄ちゃんがっ!!!」
妹はうわごとのように何度もそう言っていた。この部屋を在りし日の姿のままにしていたことで、妹がこんな風にパニックに陥ることになるとは。買い手がつかない土地だからって、家族に黙って好き勝手していたのはよくなかったな。
「うん、うん。もう、大丈夫。大丈夫だから。一緒に帰ろう? ね? お腹空いたでしょ?」
頼りないお姉ちゃんでごめんね、頑固で融通の利かないお兄ちゃんでごめんね、甘えられる時間のないお父さんとお母さんでごめんね。
雨は、もうしばらく降りそうだから。薄っすらと青い夜道に透明なビニール傘を差して、言葉少なに2人で家に帰った。まだ、我が家として受け入れ切れていない、東京のマンションの1室に。雨で滲んだビニール傘越しに見える家並みの灯りが、どうしようもなく羨ましくなってしまうのだった。
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