秘色の理——AT REAL 前編
——変えようのないものがある。生まれや背丈や他人だとか、人によっては頭の良し悪しや環境なんかもそこに並べるのだと思う。それと、変えられるものの境界上に人間関係があって、いつまでも私はその上での綱渡りを余儀なくされていた。家族も、友達も、他人だから変えようはないんだけど、関係自体は変えられそうな可能性があって、その可能性があるという事実がいつまでも私を苛むんだ。ぎりぎり出来そうなことほど厄介なものはない。——
私がかつて暮らしていた家に侵入してきた2人と、そこで目にした光景について。私は一緒に目撃した光輝君と話し合いをしたかったのだけど、彼は中間考査が近いからそれが終わってからにしようと言った。
そして、その中間考査がちょうど終わった。ということは当然、中間考査以外のことを考えなくてはいけない時期が来たということで、早速私は友人たちとの付き合いに駆り出されることになるのだった。
もうしばらく触ることはできないだろうな、とマイコンの入った引き出しを閉じる。篠宮さんが選んでくれた服を着て、自室の扉を押し開いた。テスト明け最初の土曜日の朝、空は快晴、せめて楽しくお出かけを——
「いい加減にしろ!!」
せめて、楽しく、お出かけを……。
「でけぇ声出すなよ、うるせぇな!!」
溜息と逡巡。兄と妹の声がリビングの方から聞こえてくる。別に無視して家を出てしまってもいいけど、いつになく強い怒声に、流石に仲裁した方が良いのでないかと迷う。
「声の大きさは今、どうでもいいだろ! 俺はお前が隠していたこれについて話しているんだ」
「勝手に人様の部屋荒らしたやつが人のこと叱る権利あんのかよ!」
まだ、電車の発車時刻まで余裕がある。それに、2本くらいなら遅れても間に合う。意を決して、踵を返してリビングへと向かった。
「別に1度や2度、悪い点数を取ってしまうのなら分かる。俺だってそういうことはあった。でも、お前はもう中3で、受験生だろう!? 一向に改善の気配が見えないんだが、この先どうするつもりなんだ?」
「別に、兄貴には関係ないだろ! ぐちぐち言って来るんじゃねぇよ、先公気取りかよ!」
リビングのテーブルを挟んで、兄が用紙を妹に突き付けている。おそらくはテストの答案か、それかテストごとに配られる成績をまとめた用紙か。
「ちょ、ちょっと。朝からそんなに揉めなくても」
2人をなだめようと声をかける。
「いいや、大いに関係あるね! 父さんも母さんも滅多に家に居られない以上、俺に保護者としての責があるんだから」
「5つしか違わねぇのに保護者もくそもあるかよ!」
「お、落ち着いて」
幾ら声をかけても、2人のやり取りが鎮まることはない。また、だ。意図的なのか無意識なのか、この人たちは私を透明人間扱いすることがある。そりゃ、兄の後ろに隠れてこそこそ生きてきた私にも多少の原因はあるかもしれないけど。少しくらい、私の話を聞いてくれたっていいじゃないか。
「ふん。お前がその気ならこっちにも考えがあるぞ。赤点が3つ以上あったら、部活を辞めてもらうって話は去年からしてただろ? これは母さんも承諾済みだ。今まで、これからは頑張るというお前の言葉を信じてきたがもう潮時だろう」
「ちょ、ちょっと待てよ! せめて次の大会まで待って——」
「前もそう言ってきて、結局成績は変わらなかったじゃないか! いいな、バスケ部は退部。少なくとも次のテストで赤点を回避するまでは家で勉強する時間を、そうだな、とりあえずは3時間は取ろう。徐々に時間は増やしていけばいい。お前は本当は頭がいいはずなんだから、それでどうにかなるだろ」
「さ、流石にそれはやり過ぎじゃ——」
「ふざけんな! あたしだって、あたしだってあたしなりに頑張ってんだよ!」
「結果の伴わない努力をすることは”頑張る”とは言わない、徒労というんだ」
「そ、そんな言い方しなくても——」
「もーいい!! こんな家、出て行ってやる。パパもママも居ない、最近は玲ちゃんも居ないし。毎日毎日ぐちぐち五月蠅い兄貴と顔を合わせるくらいなら、出て行く!」
「出て行ってどこに行くって言うんだ? 想像力もない、短絡的で勉強もできない」
ああ、売り言葉に買い言葉。いたたまれない空気がリビングを支配する。
「ちょっと。2人とも落ち着いて——」
「出て行くって言ったら出て行くんだよ!! こんなんだったら優しい兄ちゃんの方が良かった!」
「滅多なこと言わないでよ!!」
思わず、私は叫んだ。流石に言い過ぎだよ、2人とも。ようやく私の存在に気が付いたのか、兄妹はこちらを見下ろす。
「な、なんだよ。玲ちゃんも兄貴の味方するのかよ……」
自らの長い髪をぐしゃぐしゃと搔き乱す。
「あー!! もう、どうでもいい!! 頭冷やしてくる、じゃあな」
妹はそう言って私の隣をすれ違い、リビングから出て行った。
「ちょ、ちょっと、莉子! どこに行くの?」
私の制止も虚しく、玄関の扉が開いて閉じる音がした。
「ど、どうしよう」
「ほっとけ。どうせ行く当てなんてないし、夜になれば帰って来るだろ」
「そんな言い方ないよ」
「ま、まぁ。ちょっと言い過ぎたか。それより、出かけるんじゃなかったのか」
兄に言われて腕時計を見る。そうだ、早く出ないと集合時間に遅刻してしまう。
「そうだった。でも、莉子が——」
「大丈夫さ。腹が減ったら家に帰って来るだろ」
頭を冷やしてくる、と言っていたわけだし、冷静になれば家に帰ってくるだろうか。莉子も根はしっかりしている子だし。
「じゃあ、言って来る。莉子のこと、任せたよ?」
「ああ、行ってらっしゃい」
私は兄に見送られて、慌てて家を後にした。
土曜日の立川駅には沢山の人がいた。5月も終わりが近付いて、梅雨が来る前に春の終わりを楽しもうとする人々。改札の隣にある壁画の前では既に友人たちが待っていた。集合時刻を5分も遅れてしまった。急いで駆け寄る。
「あ、ほら。玲ちゃん来たで!」
「ごめん、遅くなっちゃって」
「ううん、全然待ってへんよ、今来たとこ!」
カールした栗色の髪の毛を揺らしながら、同級生の篠宮さんは私を迎え入れてくれた。
「全員揃った? じゃ、行こっか!」
「そだねぇ。上映時刻、迫ってるし」
「せやな、映画館に逃げられても困るしな」
「何それぇ。おもしろ」
私を含めて、4人。時々によって人数は多少増減するけど、このグループに私は属している。篠宮さんの他に、短髪で背の高い子が高橋星凪さん、赤いメッシュの入った髪の長いダウナーな雰囲気の子が二条芽瑠さん。
3人の背中を見ながら歩き出す。みんな、クラスではかなり目立つ子たちだ。キラキラしていて、近寄りがたい雰囲気があって、でも見てしまう。そういう子たちだ。
「れーいちゃん! 今日は珍しく重役出勤やったね」
歩調を遅らせて、篠宮さんが私の隣に来てくれた。
「ご、ごめんね。ちょっと色々あって」
「いや、ええてええて! ちょっとしか怒ってへんから」
「ささやかな怒りで矛を収めてくれてありがとう」
「どういたしまして」
実のところ、本来なら私が関わることのないような人たちと一緒に過ごしているのは、篠宮さんが高校で初めて話しかけてくれた人だからだ。たまたま隣の席になって、たまたま気を遣ってもらって、たまたま2年生でも同じクラスで。高橋さんと二条さんが篠宮さんと友達だったから、私もそこにくっつく形になった。
「あんな、本当に何かあったんやったら相談してな?」
「う、うん。ありがとね。でも、大丈夫だから」
家庭の事情を篠宮さんに相談しても仕方がない。心配も迷惑もかけたくないのだ。
「ほんまかー? 玲ちゃんそういうとこ隠す癖あるからなぁ。あれやろ、テストの点数が気になってしゃーなくて、眠れへんかったんやろ? 全部100点やったらどないしよ! って」
「いや、自信過剰!」
ツッコミはしたけど、当たらずとも遠からず、だ。私の成績の話ではないけど。
「まー、先のこと考えてもしゃーないし? 万が一、いや恒河沙が一補習になったとしてもうちがお勉強見たるから」
そう言って屈託のない笑みを篠宮さんは見せた。八重歯が可愛らしい。
「しのみん、頭いーもんねぇ」
二条さんがこちらに振り返って言った。
「そんなに褒めても飴ちゃんしか出ぇへんよ?」
篠宮さんはそう言って鞄から棒付き飴を3本も二条さんに差し出した。
「糖分過多」
そう言って二条さんは棒付き飴を篠宮さんから取り上げた。
「しーのみん! 映画館ってワンの方だっけ、ツーの方だっけ!?」
高橋さんは二条さんから棒付き飴を1本受け取りながら、篠宮さんに質問する。同じ映画館でも建物が複数あって場所が異なるから、それを訊いているのだ。
「ワンの方やで! せやからさっきのとこ右に曲がらなあかんかったなぁ」
「げ! なんで先に言ってくれないんだよー」
「上映時刻迫ってるって言ったじゃんねぇ」
篠宮さん、良くも悪くもこういうところあるんだよな。私たちは道を引き返して映画館へと向かった。
映画館も街と同様、やや混雑していた。どこか大人びた雰囲気のある内装の館内で、各々チケットを発券する。
「もっと人が少なければ映えるんだけど」
二条さんは不機嫌そうにスマートフォンでチケットの写真を撮る。
「あ、アタシもやろーっと!」
そう言うと高橋さんは二条さんの肩を掴んで内カメラで写真を撮る。二条さんは嫌そうな顔をしながらも、しれっとピースサインを作っていた。
「こらこら。他のお客さんの迷惑になるからほどほどにしてな?」
篠宮さんは2人を制して、シアターへと向かって行った。2人もその後ろをついていく。その後ろを私はついていった。
「めぇっちゃ感動したわー!」
「もう聞いたって」
映画を観終わって、駅へと向かう道中で篠宮さんは二条さんのリュックにつかみかかりながら叫んでいた。二条さんはと言うと、そっけない様子だ。
「いやー、面白かったけど、そんなになるほどじゃなかったなー」
高橋さんも篠宮さんの様子にはやや狼狽え気味だ。
「ちょ、汚いからやめて」
「だって館内でティッシュ使い切ってもーたんやもん」
篠宮さんは二条さんのリュックに顔を埋めた。私は慌ててポケットからティッシュを取り出す。
「ほら、しのみん! これで拭いて!」
「あ、おおきに」
私がティッシュを差し出す前に高橋さんがハンカチを篠宮さんに渡した。みんなに見えないようにこっそりティッシュを仕舞う。
「このまま感想戦やなー、ランチどこで食べよっか?」
「どこでもいい」
「じゃあちょっと前にできた駅ビルのカフェ行こうよ!」
「あ、うちも気になってたんよ、そこ! クーポンも持ってるで!」
そう言って篠宮さんは鞄からゴムで縛ったクーポン券の束を取り出した。なんだか、札束みたいだ。
「多くない?」
呆れ気味に二条さんが呟く。
「大は小を兼ねるって言うやろ? 玲ちゃんも、カフェでええか?」
篠宮さんは振り返りざまに私の肩を叩いた。
「うん。いいよ」
周りへの気配りができて、ユーモアセンスがあって、可愛くて、感受性豊かで、頭もいい。もし私がこうだったら、何か変わったんだろうか。周囲を見渡す。万が一、篠宮さんの言葉を借りるなら恒河沙が一の可能性を考えたけど、妹の姿は少なくとも立川の駅前にはなかった。
「なんや玲ちゃんきょろきょろして。うちならここやで」
「篠宮さんのことなら良く見えてるよ。そうじゃなくって、えっと……。カフェ、行くんでしょ? ランチの時間だし混むかもしれないから、早く行こうよ」
篠宮さんは何か言いたげに瞬きをして、微笑んだ。
「せやね。ほな行こか! 7階やっけ? レッツ、クライミング!」
「素手で登る気!?」
「それもそやな。ロープとピッケルも用意せな」
「いや、エスカレーター使おうよ!」
結局、エレベーターでカフェに向かった。文明の利器には叶わへんのよな、とため息交じりに篠宮さんは呟いていた。高橋さんはと言うと、ポップコーンも食べちゃったからせめて食事の前に運動を! と言って階段を駆け上がっていった。
カフェでの出来事はあまり覚えていない。ただ、いつもの通り3人が喋っているのを眺めて、時々窓の外を見下ろして、苦いコーヒーに口をつけた。いつの間にかみんな食事を終えていて、雑談もひと段落したころ、二条さんがスマートフォンを確認して呟く。
「あ、ごめん。そろそろバイトの時間」
「倉庫作業のバイトやっけ?」
篠宮さんが訊く。
「うん」
二条さんは小さく頷いた。
「芽瑠にしては地味なバイトだよねー」
高橋さんは肘をついて、隣にいる二条さんを見る。
「髪色もネイルも制限ないからねぇ。てか、ここ以外択なかった」
二条さんは赤いメッシュをくるくると指に巻きつけながら言った。
「そうなんや。ほな、一雨来そうやし、この辺で解散と行こか!」
篠宮さんはテーブルに手を着いて立ち上がる。私含め、他のメンバーもそれに倣って立ち上がり、カフェを後にした。
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