【番外編】咖喱
相も変わらず散らかったオカルト研究会の部室で、窓を開け放して煙草を吸う女性が居た。我がオカルト研究会の会長、アベさんだ。俺とアベさんまでの距離は数メートルだが、その間にある紙束や倒れた椅子、床に雑然と転がる本の類によってかなり遠くにいるように感じる。この部室において、窓に辿り着くことすら困難なのだ。その証拠に窓が開けられているのを俺は今日初めて見た。煙草の火の不始末一つで大火事になってしまいそうな、そんな部屋の窓辺でアベさんはそれでも紫煙をくゆらせていた。そもそも、この大学は全館禁煙なのだが。
「それで、今日はどういった要件ですか?」
昨日の深夜3時に突然、アベさんから部室に来るように連絡があった。サークルのグループ全体の連絡だったが、わざわざ『@阿波君』と丁寧にご指名がされていた。どうにも先日の幽霊屋敷の一件から妙な気に入られ方をしてしまったらしい。
「挨拶」
俺の入室第一声に対して、アベさんは不機嫌そうに煙草の灰をウイスキーの空き瓶に落として、そう言った。
「……おはようございます」
「いんや、時刻はこんにちはだよ」
「ではこんにちは」
「うむ、こんにちは」
窓の桟に肘を置いて、アベさんはこちらを向いた。長いポニーテールが揺れる。
「それで、要件は?」
「君をわざわざ呼び出したんだ、要件は1つしかないだろう」
そう言うとアベさんは部室内にある事務机に指差した。日焼けした書類が散らばるその上に、比較的新しいクリアファイルが置いてあった。中には紙が1枚入っている。
「また調査ですか」
「察しが良くて助かるよ」
アベさんは短い煙草を中指と薬指の間に挟み込んだ手で、ファイルを開くようにジェスチャーする。促されて取り出した紙には、地図が入っていた。今時、地図アプリで場所を共有するかせめてその手のweb上のマップを印刷してくればいいだろうに、国土地理院の地図上に手書きでバツ印が付されていた。
「今度はどこですか? 廃墟ですか。それとも寺社仏閣ですか」
「いんや」
アベさんは煙草を火がついたまま空き瓶に捨てて、言った。
「カレー屋だ」
我が大学の最寄駅から電車に揺られて25分。地図で示されていた場所は、都心と都下の丁度狭間に位置していた。人のまばらな駅。やや昼時からは外れた午後1時だ。食事に出かける人もいないし、何よりベッドタウンとしての位置付けが強いこの街では、多くの人々が都心の方へ出かけているのだろう。
駅はそこそこ立派だったが、少しでも歩き出せば情緒が滲み出る。駅前にはチェーン店が立ち並んでいたが、次第に個人商店の方が目立つようになってきた。ガス灯をオマージュした電灯が見下ろす通りは、歩道だけがタイルで舗装されていた。洒落た街だ。だが気取ってはいない。
次第に奥まった道に入っていく。細い道の両脇には年季の入ったアパートや一軒家が並んでいる。やや薄暗い。だが、きな臭い雰囲気はしない。景観意識が高いのか、それとも偶然そうした人がこの辺りに大勢住んでいるのかは分からないが、それぞれの家の軒先やベランダに観葉植物が飾られていたからだ。こうして小奇麗にしてあると、よそ者でも気後れなく街を歩けるものだ。
駅を出て10分強歩いたか。地図に示された目的地にたどり着いた。家と家に挟まれる格好の、細長い建物。その1階の看板にはでかでかと『本格インド・ネパール料理 アショーカ』と書かれている。オレンジ色の看板。ちょっと不気味だ。だが、蠱惑的な雰囲気がある。
「腹、減ったなぁ……」
思わず口をついて出てしまった。思えば朝ご飯にトーストを押し込んでから、何も食べていないのだ。
「調査は後でもいいか」
どうせ店内を調べる必要があるのだ。まずは腹ごしらえをしてからでもいいだろう。俺は扉を押し開いた。
凄まじい香りが襲い掛かる。扉によって厳重に閉ざされていたスパイスの香りが飛び出してきたのだ。これで空腹を抑えておけという方が無理なものだ。店内はというと、多少エスニックな雰囲気の調度品がおいてはあるものの、全体的には日本の食堂と大きな違いはなかった。異国情緒を楽しめる感じではないが、親しみやすくて、これはこれでいいな。客の数はと言うと数人しかおらず、殆どの席が空いていた。
「いらっしゃいませよー、好きな席に座ってくださいよー」
俺がしばらく入り口のラグの上で立ち往生していると、店の奥の方から声が聞こえてきた。流暢ではあるが、外国人が発する日本語だ。言われた通り、俺は適当な2人掛けの席に腰かけた。席にはメニューとコップが数個、おしぼりと、それに加えてピッチャーが置いてある。まるでラーメン屋や牛丼屋のようだ。ただ、店員がお冷を注いでくるのを待たなくてよいのはありがたい。
折り畳まれたメニューを手に取る。ラミネートされたテカテカのメニューには、サモサやタンドリーチキンなど、インド料理の写真が所狭しと掲載されている。
「メインは、やはりこれだな」
もちろんそうしたサイドメニューにも興味はあるが、やはりメインはカレーだろう。チキンやマトンだけでなく、海鮮のカレーもあり、それぞれの種類も豊富だ。個人で経営していると見える店だが、それにしては品数が豊富だ。正直なところ、どれも旨そうで迷ってしまう。
「ほう、こんなのもやっているのか」
メニュー表の左下、セットメニューの一覧が目に入った。スペシャルカレーセットと称されたそれは、ナンのおかわりし放題に加えてチキン・マトン・海鮮・本日のカレーが小鉢で提供されるようだ。スープとチャイもついてくる。2000円とやや値が張るのが迷うところだが、領収書をアベさんの名前で切ってもらえばいいか。俺は店員を呼ぶことにした。
「すみませーん」
声を張ると厨房の方からいかにもという見た目の男性が顔を出した。
「はーい! 今行きますよー」
男性はそう言って伝票を片手にこちらまでゆっくり歩いてやってきた。
「えっと、このスペシャルカレーセットを1つ」
俺はメニューを指差して注文する。
「はい、スペシャル……、あ。ごめんなさいよー、それ、ディナーだけなのよー」
「え、そうなんですか」
俺はメニューを見返す。確かに、小さく米印で18時からと書かれている。参ったな。どれか1つを選べないからこれにしたというのに。
「うーん、それじゃ、この、ランチセットを」
俺は慌てて別のものを選んだ。
「はーい。そしたら、カレーを2つ選んでくださいよー」
なるほど。ランチセットでも2種類までカレーを選べるのか。これはいいな。品数は半分に減ってしまったが、その分安いし。
「じゃあ、このマトン・マサラとココナッツ・チキンで」
海鮮カレーはまたの機会にしよう。俺がカレーの種類を指定すると、店員はにっこりと笑った。
「それじゃ、ちょっと待っててくださいよー」
そう言うと店員は背を向けて店の奥に消えて行った。
それからすぐに店員が客席に現れる。その手には盆があり、山盛りのナンが乗っていた。まさか、これが1人前なのか。そんな俺の戦慄をよそに、店員は俺の座席を通り過ぎて、奥に腰かける数名の客の下へと向かった。
「おかわりどうぞー」
そうか。セットメニューはナンが食べ放題だから、ああして客に配って回っているのか。ただの杞憂だったな。店員も気さくだし、店の雰囲気もいいし、今のところは良い店という印象だ。だが——
「お待たせしました、ランチセットですよー」
やはり最大の問題は、提供される食事だ。結局のところはそれがお店の良し悪しを決める。銀のプレートの半分をナンが占めており、深皿にカレーが2種類、それとスープにサラダ。
「おや、これはチキンか」
サイドにタンドリーチキンもついていた。ココナッツ・チキンと被ってしまったな。こういう失敗も初めてのお店ならでは、か。
おしぼりで手を拭い、皿から豪快にはみ出したナンをちぎって、マトン・マサラに浸す。まずはカレーの味を楽しむことにしよう。赤茶色に染まったナンを口に運ぶ。
「うまい」
これはうまい。羊肉のパンチの利いた香りを爽やかなスパイスが上品に包み込む。想像とは少し違う味に驚いたが、これはこれで良いな。そして遅れて辛さがやってきた。これだ。これこそがカレーの醍醐味だ。
「しかし、思っていたより辛いな」
ある程度なら辛いのはいける口だが、流石に本格的な店だけあって辛みが強い。コップの水を一気に流し込んだ。
次はココナッツ・チキンを試してみよう。ナンでチキンを包み込むようにして浸す。こちらはどちらかというとクリーム色で、マトン・マサラの赤さと比べると穏やかそうだ。マトン・マサラが予想外に辛かったし、こっちを注文して正解だったな。
「む、これは」
そんな希望を打ち砕くほどに、ココナッツ・チキンはマトン・マサラ以上に辛かった。しかし、これは癖になる辛さだ。ココナッツの甘やかな香味が暴力的な辛さを旨みへと昇華させている。
俺はピッチャーに満タンのキンキンに冷えた水をコップに一気に注ぎ込んだ。そしてコップを口に押し付ける。なるほど、だからピッチャーがテーブルに置いてあるのか。
付け合わせも食べてみよう。サラダにはオレンジ色のドレッシングがかけられている。まさか、これまで辛くないよな。恐る恐る少量を口に運ぶ。
「なんだ、ニンジンか」
ニンジンの甘味のあるドレッシングだった。シャキシャキのサラダとよく合う。大分、舌先のピリピリが収まった気がする。
「さて、こっちはどうかな」
俺はタンドリーチキンにフォークを伸ばした。炭火で焼いたのだろうか、焦げ目がついていて香ばしい。まずはレモンを絞らないで頂くことにしよう。
「なるほど、肉々しいな」
フライドチキンや唐揚げとは違う、ジューシーというよりは少しパサついた食感だ。ただ、それが不快というわけではなく、返って肉そのもののガツンとくる旨みを楽しむことができる。ややスパイシーだが、先ほどのカレーと比べれば辛さは控えめだ。これだけでもご飯3杯はいける。
「おかわりどうぞー」
ナンを山盛りに盆に抱えた店員がやって来た。気付けば俺の皿の上にナンが追加されている。
「あ、どうも」
笑顔で去っていく店員。こういう気遣いが嬉しいんだよな。客のことをよく見ている。俺は早速、ナンをちぎってマトン・マサラに浸した。どちらのカレーも辛めだから、どうしても浸す量に対してナンの面積が大きくなる。今度は羊の肉をナンに乗せて一口。野性味溢れるマトンの匂いがスパイスに彩られて鼻から抜けていく。よく煮込んであるからか肉質は殊の外柔らかく、ナンと合う。
そうか、このナンがまた絶品なんだ。もちもちというよりはパリパリとした生地、こんがりと焼き上げられて、仄かに甘い。どちらかというとチャパティに近いんじゃないか。これだけで食べてもうまいな。まだカレーが半分以上残っているというのに、そのままナンだけ食べてしまった。
「あの、おかわりを、あれ?」
新しいナンをお願いしようとしたが、既に皿の上には焼き立てのナンが置いてあった。奥の客席へと向かって行く店員の後ろ姿が見える。食べるのに集中していた俺を邪魔しないようにそっと置いてくれたのだろうか。気さくなだけでなく繊細な店員だ。
たった1プレートでかなりの満足感だ。辛さは次の一口を伸ばす手を加速させるし、気付かぬうちに追加されるナンのおかげで食べ過ぎてしまった。
「ふぅ。満腹だ」
まさか都心の外れにこんなにおいしいカレー屋があるとは思わなかった。テーブルに置いてある伝票を持ってレジへと向かった。
「ありがとうございましたよー」
陽気な会計を終えて気分がいい。店を出ると初夏の風が爽やかに袖口を抜けて行った。
「何か忘れているような気がするが、まぁいいか」
そういえば来週提出の課題があったな。せっかく元気をこれだけ貰ったのだし、今日中に終わらせてしまおう。細い道を抜けて、駅へと歩き出した。
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