足踏——AT YOUTOPIA

 鼻腔をくすぐるスパイスの香り。小刻みにまな板がトントンと鳴り、リズミカルに脂が弾ける音がする。目を瞑っていてもシャキシャキの葉物の上にソーセージが乗せられ、裂け目から滴る肉汁にケチャップが混ぜ合わさっていく様子が想起できる。換気のために開けられた窓からは爽やかな夜明けの風が吹き込み、朝の早い職人たちがコンコンと槌を叩く音も運んできた。気付けば調理が終わったのかテーブルに皿がコトリと置かれて、椅子を引く音が二度聞こえた。まだベッドの上で目を瞑っているが、快い朝が迎えられることは、ほぼ確定事項だろう。


 問題は俺が一人暮らしだということだ。


 ここが夢であれ現実であれ、俺は誰かと暮らしていないし、誰にも合鍵を渡していない。加えて、鍵が壊されるようなことがあれば幾ら寝ていても気付かないわけがない。にも関わらず、侵入どころか朝食の準備すら許してしまった。とにかく武器の確保を——


「おはようございます。よく眠れましたか?」


 起き上がろうとしたところで不意に声をかけられる。女性の声。いや、正確には子どもの女性の声だ。


「君は、一体誰だ? なぜ俺の部屋にいる?」


 気取られてしまっては不意打ちの目はない。身元と目的を尋ねる。


「あら、冗談の一つは言えるようになったのですね。わたしはドーヴァ。あなたの婚約者ですよ?」


 貴族のようなドレス姿。気品のある長いブロンドの髪。ガラス細工のような碧い瞳。見た目は子どもだが、落ち着きや余裕を感じる大人びた振る舞い。まるで俺からの返答など全てお見通しと言う表情だ。


「悪いが、記憶にない」


 しばらくの沈黙。少女の唇がわなわなと震えた。


「ほ、ほほほほ、本気ですか!? 10年前の約束、覚えてないんですか!? あ、あなたからプロポーズしたんですよ!?」


 そうは言われても、覚えていないものは仕方がない。それに、幼気な少女に求婚するような小児性愛は持ち合わせていない。


「すまないが、全く」


 そんなぁ、あんまりです! そう言いながらドーヴァと名乗る少女は頭を抱える。先ほどまでの落ち着きはどこへ行ったのか、ドーヴァは空中で膝を抱えていじけてしまった。

 そう、空中で。この少女、浮いているのだ。よく目を凝らすと、ドーヴァの身体越しに湯気を伸ばす朝食が見えた。


「スピリットか?」


 この世界には人間以外にも知性を持つ種族が数多く存在していて、その中に霊体のものが居るのは文献から知ってはいたが、実際にお目にかかるのは初めてだ。


「その様子だと本当に忘れているのですね、コウジン様。本当は冗談を言うような性格ではないこともよく存じ上げています」


 ドーヴァは丁寧に毛布をめくり上げると、手を差し出してきた。


「では、朝食だけでもご一緒しませんか? 冷めてしまいますから」


 悪人ということはなさそうだ。ドーヴァの手を取ると、ひんやりとした感触が手を包んだ。

 朝食を目の前にすると、芳醇な香りや鮮やかな彩が胃袋を刺激する。


「記憶喪失、ということですか?」

「そうだ」


 正確にはこの世界とは別の記憶を保持している、というのが正しい。


 今いる場所はサムザンというギルドの首都カローニャにある住宅だ。この世界で俺はコウジンと呼ばれている。しかし俺が記憶しているところの俺は、東京で暮らす大学生で、本名は阿波和波だ。


「ということは、私のことだけではなくて、今までの記憶を全て忘れてしまっているということでしょうか?」

「そういうことになる」

「なら、良かったです」


 ドーヴァは胸をなでおろしたのか、ようやく食事に手を付け始めた。


「良かった、というのは?」

「わたしのことだけ忘れてしまったんだったら、そんな薄情なことないじゃないですか。でも、一事も万事も全て記憶にないのであれば、またゆっくり取り戻して頂ければよいだけの話でしょう? 事情があるのであれば安心しました。命がけでここまで降りてきた甲斐がありましたよ」

「命がけで降りてきた、というのはどういうことだ? 浮島出身ということか?」

「ええ、私の出身はステラグラード。ここよりもうんと高いところにある浮島です。命がけと言うのは言葉のあやですよ、実際にはもう死んでいるようなものですから」


 カーテンが揺れる。生温い風が入り込む。少女の髪はなびくことを知らない。


「しかし、にわかには信じがたいのだが。俺は本当に君に求婚したのか?」

「ええ、それは情熱的なプロポーズを!」

「君みたいな子どもに? それに10年前と言っていたな。だとしたら君はまだ赤ん坊だ」

「スピリットは言わば幽霊のようなものです。肉体から何らかの原因で魂が切り離された時、多くの場合は死んでしまった時ですが。その際に残された魂が半ば実体化したものがスピリットなのです。私が肉体から魂を切り離されたのが11歳の時分ですから、その姿を幽体でも留めているに過ぎません」

「つまり、本来の年齢は見た目より高い、と」

「女性の年齢を詮索するのはマナー違反ですよ。ただ、仰る通りわたしは見た目よりもうんと年上です」

「何歳だ?」

「さあ、いくつでしょう?」


 判断材料が少なすぎる。10年前の約束、と言っていたな。その時すでにスピリットなのであれば少なくとも20歳以上だろう。ただ、それだと結局は10歳前後の少女に求婚したことに変わりはない。今の自分と同じくらいの年齢の時に求婚したのだとすれば、少なく見積もっても——


「29歳か?」

「不正解です。それではわたしは失礼させて頂きます」


 なぜか不機嫌そうに眉を吊り上げ、ドーヴァは席を立つ。


「待て、まだ君には訊きたいことが」


 引き留めるとドーヴァは玄関の前で静止して、こちらに振り返った。


「わたしを質問攻めなんかにしなくたって、いずれ記憶は取り戻せるでしょう? それよりもあの時みたいに、一緒にいることであなたに迷惑をかけたくないのです。ごめんなさい」


 玄関の扉をすり抜けていく少女。音もなく消えていった来訪者の痕跡は、朝食で用いたであろうスパイスの残り香だけだった。


「追いかけなくては」

 彼女は確実に俺の問題を解決するために必要な情報を持っている。何より彼女の話が本当であるとするならば10年以上待たせておいて、忘れてしまいましたごめんなさい、は通らない話だ。しかし、ドーヴァはスピリット。人の多いカローニャで霊体の種族を探し当てることなどできるのだろうか。玄関の扉を勢いよく開ける。


 すると、扉の7歩先でうつ伏せになり伸びているスピリットが居た。


「あづ、あづい。ああ、いえ、お構いなく、わたし、一人で、いけますか、ら——」




「それで、おぶってここまで連れて来たのか!? スピリットをおぶるって、ふははははは、傑作だな!」


 とにかく涼しい場所に連れて行かねばと手近な店に入ると、やけに豪快な笑い声が聞こえたので、面倒なことになる前に退出しようとしたのだが、結局捕まってしまった。


「スピリットを見るのは久しぶりだ。いつ見ても不思議なもんだな」


 椅子によりかかりだらりと項垂れるドーヴァをしゃがんで見下ろすこの長髪の男こそ、サムザンのギルド長、ユーノだ。


「笑い事ではない。直ちに医者を呼ばなければ」

「いや、その必要はない。そもそもスピリットは治療できるとかできないとか、そういう対象じゃないんだ。スピリットの好不調の多くは、生前の勘違いや感情の大きな揺れによるものだ。肉体を持たない種族なんだから、暑さにやられるなんてことはないはずだぜ」


 さすがにギルド長だけあって見聞は深い。これで軽薄でなければリーダーの器として完璧なのだろうが。


「て、酒場のおっちゃんが話しているのを又聞きしたんだ!」


 きらきらと目を輝かせて危うい情報ソースを開示してくる。これだからこのギルド長に全幅の信頼を置くことはできない。


「で? このスピリットは誰なんだ? どこで引っかけてきた?」


 義足を押さえながら立ち上がると、ユーノは疑問をぶつけてきた。


「人聞きが悪いな。この娘はドーヴァ。俺が記憶を失う前の婚約者だ」

「こ、婚約者ぁ!!?? ふは、ふはははははは!! おいおい、冗談はその仏頂面だけにしておけよ……、いや、本気なのか? マジのフィアンセ?」

「そうだと言っているだろう。俺は全く覚えていないが」

「うわぁ、可哀そ」

「覚えていないものは仕方がないだろう」

「ま、昔も今も変わらぬ、女心のおの字も知らない朴念仁のお前を霊体になっても好いてくれてるんだから、相当奇特な女に違いないな」

「わたしへの誹謗は構いませんが、コウジン様に向けての中傷はお控え頂けますか?」


 目を覚ましたのか。ドーヴァは背筋を伸ばしユーノに訴える。


「おや、起きてたのかお嬢さん。なぁ、こんな唐変木より俺と飲みに行かねぇか?」

「お断りします、ユーノ様。それより、コウジン様の記憶を取り戻す術をご存じないですか?」

「にべもなく振っておいて図々しいな。ただ、そうだな……。コウジン、お前には他に冒険を共にした3人の仲間が居たんだが、そいつらの記憶がヒントになるかもな」

「確かに、お仲間様がいらっしゃいましたね。あの方々はどこへ行かれたのでしょう?」

「確かミドロ、ストリング、リトリヤにそれぞれ1人ずついたはずだ。ただ全員コウジンと同じように眠りについていたはずだし、目を覚ましていたとしても記憶を保持しているかは、正直怪しいな」


 俺の与り知らぬ話が進行している。ただ、ドーヴァが元気になったようで何よりだ。


「いずれにせよ、行ってみるのが早いんじゃないか? ここからならストリングが一番行きやすいだろう。ちょうど今晩、国境までの汽車がでるところだ」

「待て。話が急すぎる。俺にだってこのギルドでの職務があるし、祭りだって近いのだろう? それにそう簡単に汽車の切符はとれないはずだ」

「別にお前抜きで10年間回ってたんだ、今お前ひとりいなくなったところでギルドの運営に支障は微塵もない。それと、汽車の切符ならここに幾らでもある」


 ユーノはそう言うとポケットからばらばらと切符をテーブルに投げ出した。


「お心遣い感謝いたします。でも、私なんかが一緒で迷惑ではないでしょうか? また暑さに負けてしまうかもしれませんし」

「汽車に乗れてさえしまえば問題ないさ。それに、目的地のストリングは水の都。サムザンよりうんと涼しいし、何より結婚式にはぴったりな教会がある」

「そ、それは本当でございますか!?」


 霊体ですが、活力が湧いてきました! ドーヴァはそう言いながら椅子から浮き上がる。


「なんだ、釈然としないか?」


 そう言ってユーノはにやりと笑い煙草に火をつけた。


「そうだな。どこまで偶然でどこまで計算尽くなんだ?」


 たまたまと言うには出来過ぎている。端からこの男は俺をストリングに送り込むつもりだったのではないか。


「さあね。ただ、俺だって人の心がないわけじゃないんだ。記憶もないのによく分からんまま振り回して悪かったな、せいぜいハネムーンを楽しんで来いよ」

「善は急げですよ、コウジン様! それと、ユーノ様。思っていたほど悪い人じゃなかったみたいですね、今度お会いしたときは、お茶くらいであればご一緒しますよ!」


 店の外へと飛び出していくドーヴァ。置いて行かれないようにしなくては。


「ありがとう、ユーノ。これが何かのきっかけになるかもしれない。切符は受け取っておく」

 切符の山から適当に2つ掴み、店外へと駆けだした。


 すると、扉の9歩先でうつ伏せになり伸びているスピリットが居た。

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