第4話 アリとキリギリス

 それは、ある夏の日のことです。

 大きな樹の下にひとりーーいや、一匹のキリギリスがいました。

 照り付ける太陽の光は枝葉に遮られて柔らかな陽射しとなり、平野を流れてくる風は爽やかに肌を撫でます。

 そんな夏にしては比較的心地よい空気の中、キリギリスは手にしたヴァイオリンで優雅な音楽を奏でていました。

 鼻唄混じりに気分良く、何とも楽しそうに演奏するキリギリス。

 その目の前に、重い荷物を抱えたアリが一匹通りかかりました。


「やあ、アリくん。今日も大変そうだねぇ」


 演奏を止めたキリギリスは片手を上げて親しげに話し掛けます。


「仕事だから、大変も何もないよ。キリギリスさんは今日もヴァイオリンの演奏かい?」


「もちろんさ、ワタシの一番の楽しみだからね」


 ひとつ弦を鳴らします。


「君はいつもいつもそうやってヴァイオリンを弾いているけれど、冬越えの食べ物の準備はしなくて良いのかい?」


「ハハハ、何を言うかと思えば。見てごらん、あちらこちらに食べ物がたくさんあるんだ。どうしてわざわざ運んで保存なんて面倒くさいことしなければならないんだ」


「そりゃあ今はまだ良いかも知れないけど、夏が終わり、秋が来たら少しずつ食べ物が減っていくんだ。今のうちに準備は必要だよ?」


 親切心からキリギリスへと忠告をするアリくんでしたが、相手はフン、と鼻で返します。


「だからって、こんな天気の良い日に汗水流して働くなんてワタシはゴメンだよ。食べたい時に食べて、ヴァイオリンを奏でたい時に奏でて、寝たい時に寝て、そうやって過ごした方が楽しいじゃあないか」


「もしも君の言う通りの自堕落な生活をしていたら、冬になって困ったことになってしまうかもしれないよ?」


「まったく、アリくんは心配性だなぁ。そんな先の事なんて気にしてさ。未来の事なんて誰にも分からないんだ。気を揉むだけ時間の無駄だろうに」


 天を仰ぐように空を見上げると、キリギリスは首を横に振りました。


「問題なんて起きた時に対処すれば良いんだよ」


「キリギリスさんがそれで良いならボクは別に構わないさ」


 話はこれで終わりとばかりにヴァイオリンを奏で始めたキリギリスを尻目に、アリくんは家へと戻るのでした。

 その次の日も、また次の日も、アリくんは冬に備えるために食べ物を抱えて運びます。夏の暑い陽射しに焼かれ、汗をダラダラと流し、息を荒げながらも足は止めません。まだまだやる事は多いのです。

 一方のキリギリスはと言えば、これといって特に何も変わることなく、呑気にヴァイオリンを弾いて暮らしていました。

 樹の根に座る自身の前を何度も横切り、せっせと働くアリくんを不思議そうな目で眺めます。


 やがて、夏が過ぎて秋になりました。


 アリくんは夏と同じ事を繰り返し、キリギリスは食っちゃ寝食っちゃ寝の傍らにヴァイオリンを弾いています。


 そして、冬が来ました。


「うぅ……」


 雪がチラついていました。空気は冷たく、肌を刺すようです。辺りはしんと静まりかえっています。

 人気の無い道を、キリギリスは一匹で歩いていました。

 杖を手にまるで病人のようにヨタヨタと体を揺らすキリギリスでしたが、実際彼は本当に病人でした。


 肥満

 高血圧

 虫歯

 歯槽膿漏

 痛風

 糖尿病

 腎不全

 肝硬変

 偏頭痛

 狭心症


 などなど、ありとあらゆる生活習慣病を発症していました。

 時間も量も関係なく好きなだけ食べる暴飲暴食に、ヴァイオリンを弾く以外ほとんど動かない慢性的な運動不足。睡眠不足にはなっていませんが、寝るタイミングがバラバラで体内リズムはグチャグチャになっていました。

 キリギリスがなんだかおかしいな、と感じ始めた時にはすでに遅く、規則正しい生活に戻れるような真面目さも意思の強さもありませんでした。

 それでも何とかなるだろうという危機感の無さと、生来の病院嫌いも手伝ってしまい、キリギリスはもう目も当てられない身体に成り果ててしまったのでした。


「うっ、足が、痛いよぅ」


 ヴァイオリンを弾くだけで働きもせず、お金もないキリギリスは病院で身体を診てもらう事もできません。無意識に他人を下に見ていたせいで、友人と呼べる者もいません。孤独です。


「ハッ、ハッ、身体が、重い。息をするのが、辛い……」


 内臓年齢も外骨格密度も肌年齢も運動能力も、全てが地を這う最低ラインでした。こんな苦しいままで死にたくないというその一心だけで、キリギリスは足を進めています。

 その先にあるのは、かつて自分が笑っていたアリくんの住む家でした。自分を心配して声を掛けてくれるような優しいアリくんならば、棺桶に片足を突っ込んでいると言っても過言ではない状態のキリギリスを見放したりはしないはず。

 そんな希望にすがるように杖に体重をかけながらえっちらおっちら、ようやくキリギリスはアリくんの家の前に着きました。


「これで、助かる……」


 医者の診察費用でも、当座の食糧でもなんでも良いのです。冬で食べ物がほとんど見付からないので、せめて空腹だけでもなんとかしたい所でした。

 久しぶりに歩いたせいで視野は狭まり、息は荒く、時折咳が出ます。身体の重みに耐えかねて膝は痛いし、足はずっと針を刺されているように痛みます。


「あと少しの辛抱だ」


 痛みに耐えつつ、キリギリスが俯いた顔を上げると、アリくんの家の前には他のアリが何匹もいました。


「まだ若いのにーー」


「突然だったそうでーー」


 妙に暗い雰囲気の中、漏れ聞こえる声に目をやれば、涙を流しているアリがいます。


「あの、なにかあったんですか?」


 キリギリスの言葉に、アリたちは沈痛な面持ちで顔を見合わせた後、一匹のアリが口を開きました。


「亡くなったんですよ、この家のアリが」


「……は?」


 キリギリスは耳を疑います。

 慌てて家の中に入ると、床にはアリくんが一匹ちょうど入るくらいの木の箱があり、正面にはアリくんの写真がたくさんの花と共に飾られていました。


「ウソだ、なんで……」


「過労、だそうですよ」


 先ほど泣いていたアリが教えてくれました。

 どうやらアリくんは、荷物運びの最中に急に倒れてしまったそうです。すぐに病院へと運ばれ入院しましたが、結局アリくんは意識を取り戻す事なく息を引き取ったそうです。

 原因は、働きすぎによる過労で起きた心不全でした。冬の備えのために毎日毎日重い荷物を運んでいたアリくんは、ロクに休憩も取らず、休日も返上して働いていたそうです。

 周りのアリたちが休むように注意しても、


「ボクが休んだら冬を越えられなくなるじゃないか」


 そう返してきたそうです。他にも、


「みんなだって働いてるのに、ボクだけ休めないよ」


「ボクは体が小さくて運べる荷物の量が少ないんだから、その分いっぱい働かないと」


 明らかに顔色が悪いのに、笑顔でそんな事を口にするものだから、誰も何も言えなくなってしまいました。

 キリギリスの前には、笑顔を浮かべるアリくんの遺影。

 自分を省みない結果が、これでした。


「そんな、アリくんが……うっ」


 ドタッ


 まさかの事に呆然としていたキリギリスは、アリくんの訃報を認識したさいの衝撃に耐えきれず、胸を押さえるとその場に倒れて込んでしまいました。

 苦しげな表情で、掠れたように細く荒い息をするキリギリスに、慌てたアリたちが医者を呼びますが時すでに遅し。

 キリギリスが眼を覚ます事はありませんでした。


 一匹は後先考えず働き続けて、


 一匹は後先考えず自堕落に暮らして、


 それぞれ違う方向に突き進み、ちょうど良い加減を知らなかったキリギリスとアリは、こうして天に召されたのでした。




 めでたくない、めでたくない。

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