第2話 人魚姫

 むかしむかし、ある所に、海沿いに領地を持つ国がありました。

 地の利を活かして漁業や海運業、観光業などを発展させた、非常に富んだ国です。

 そんな豊かな国には、昔から伝わるおとぎ話がありました。

 曰く、彼の海には人魚がいるというものです。

 人魚とは、人の上半身と魚の下半身を持つ生き物で、陸に住む人とは違い、広大な海を棲家にしています。その姿はとても美しく、その声はどんな楽器よりも素晴らしい音色を奏でるそうな。

 ですが、これはあくまでおとぎ話で、国民のほとんどは信じていません。小さな子どもへ寝物語に聴かせるような、そんな泡沫な話。

 本来ならば、大きくなるに連れて人魚という存在の有無を悟っていく中、いつまで経っても人魚のおとぎ話を信じている少年がいます。

 10代も半ばを越えたその少年は、この国の王族のひとりで、王子でした。

 幼少の頃に人魚のお話を訊かされて以来、彼はその姿を一目見たいと願い続けてきました。

 城にある文献を調べたり、時間があれば海へと出る船に乗り込み探します。何処かで人魚を見たという噂を訊いては、その話を訊く為に城を飛び出すこと数知れず。

 国民からは、そんな王子は暖かいというか生温い目で見られ、口さがない者には、人魚に魅入られたと噂されます。ですが、王子は気にしません。

 何故なら、彼は人魚が実在する事を知っているからです。

 この国の初代国王と人魚が顔を合わせ、会話をしていた事を示す書物が残されていました。ですが彼らは親しく交流する事をせず、お互いがいないものとして距離を取ることを選んだのです。

 ですので、いくら王子が人魚へ逢おうとしても、そうそう見つかるわけがありません。

 国王もそれが分かっている為に、王子を好きにさせていました。人魚捜索が徒労に終わり、やがてはすっぱりと諦めるだろうと。

 なのになかなか見切りを付けない息子に国王が内心ヤキモキする中、王子はこれまたいつもの様に船上にいました。


「今日こそは見付けてみせるぞ」


 甲板で、単眼鏡を手にあちこちを見渡しますが、海面には小さく揺れる波しか見えず、人魚のにの字もありません。

 しかし王子の表情に落胆の色はありません。辺りが暗くなるまで何時間でも単眼鏡を除き続けます。

 結局、陽が沈んでも何も見付かりはしませんでした。


「また何も無しか。だが、今日がダメだからと言って、明日もそうだとは限らないじゃないか」


 落ち込む事なく、王子はまた明日だと気合いを入れながら眠りにつくのでした。

 そんな王子のいる船を、突如嵐が襲います。

 乗組員の奮闘むなしく船は転覆し、王子を含めたほとんどの者が海へと投げ出されてしまいます。


(くっ、なんて事だ……)


 うねる波と吹き荒れる風に王子は翻弄されます。運良く近くを漂っていた板切れにしがみ付き、何とか耐えますが、どんどん体力を奪われていきます。


(耐えろ! 堪えろ!)


 嵐が収まるのをひたすらに待ちますが、一向に弱まる気配を見せません。

 やがて、体力の尽きた王子は板切れから手を離してしまい、海中へと引き摺り込まれてしまいました。もちろん海中も荒れ狂っている為、激しい海流に王子は全身を翻弄されます。


(これは、もう……)


 すでに上下左右の感覚もなくなり、無駄な力を使わないよう流れに逆らわずにいる事しか出来ません。最悪の覚悟をし出した王子でしたが、


 ガシッ


 その身体を、何者かがしっかりと捕まえます。すると、あちこちに振り回されていた王子の身体がピタリと止まりました。

 さらにはその何者かは王子を抱えたまま海中を泳ぎ始めたのです。


(そんなバカな、いったい誰が……)


 いえ、考えるまでもありません。荒れる海の中を普通の人間が泳げるわけもなく、ならば答えは一つ。


(私は、ついに出会えたんだ)


 ほとんどの者に存在を疑われながらも、何年も何年も探し続けていた人魚と。

 胸に熱いものが込み上げてきた王子はしかし、身体に力が入らない為、海流とは別の流れに身を任せます。

 グングンと海中を進む中、必死に息を堪えていた王子は、いつの間にか肺が限界を迎えそうになっていました。

 それを察したのか、何者かは海面へと浮上していきます。


「うっ、ゲホッ、ゲホッ!?」


 思わず飲み込みそうになっていた海水を口から出しつつ、がむしゃらに空気を吸い込み呼吸を繰り返します。

 数分後、ようやく呼吸を落ち着かせた王子が、ゆっくりと瞼を開けると、そこには、待望の、長年焦がれた、人魚の姿がーー


「…………………………えっ?」


 禿頭で、無精髭を生やしていて、厳しい顔つきの、どう見ても男の人魚がいました。


(に、人……魚、だよな?)


 王子の身体を力強くしっかりと抱きしめている両の腕は非常に筋骨隆々で、まるで岩のよう。胸板も信じられない厚さをしており、そう言えば抱えられている間はずっと接している所が硬かった記憶があります。柔肌なんて微塵も感じられませんでした。

 よくよく思い出してみれば、人魚(?)が泳いでいる間、時々額をショリショリと削る感触があったのは、きっとあご髭だったのでしょう。


(えぇ、美人じゃなかったの、人魚って)


 騙されたと思いつつ、やがて王子の意識は薄れていきます。

 気を失う寸前、「大丈夫か?」と訊いてきた声は、


(美声って、美声って……)


 確かに低音で落ち着いた渋い声でしたが、王子が想像していたどんな楽器よりも素晴らしい声とは、百八十度違っていたのでした。

 理想と現実のあまりの落差に、尋常じゃないショックを受けた王子は、抵抗する事なく、あっさりと気絶したのでした。


 その後、王子が意識を取り戻すと、ひとり浜辺に寝ていたそうな。

 すぐに現れた捜索隊に発見され、城へと戻った王子は、多少の体調不良はあったものの、すぐに元気になりました。

 ところが王子は海で波に攫われてからの事を一切覚えておらず、浜辺で目を覚ますまでの記憶がプッツリと途絶えていたのです。

 医師を始め、誰もが溺れた事が原因と捉える中、王子はというとあれから一度も海へと足を運ばなくなりました。

 それだけでなく、人魚の事も口にしなくなったそうです。あれだけ人魚の捜索に熱心だった王子だったので、周囲の者たちは内心首を傾げますが、これも溺れた事が原因だろうと結論付けました。国王も大喜びです。

 あれ以来、城での政務に邁進する王子でしたが、何故か筋骨隆々なマッチョや、禿頭の人、無精髭を生やした人を見ると、顔色を青くしながら脱兎の如く逃げ出すようになったそうです。

 その理由は、誰も、本人ですら知らないそうな。





 めでたしめでたし。

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