贖罪のエンドロール【5】
◆
顔に当たる風が冷たい。後ろ手に手をつくと砂のじゃりっとした感触が手のひらを痛めつける。この時間帯の砂浜はひんやりとしていて、手に残っていたぬくもりを残さず冷やしていった。
微かに聞こえてくる波の音。真っ黒で底が見えない海。ずっと眺めていると途方もない恐怖感に襲われる。
いっそ、このまま海に飛び込んで死んでしまいたい。かつて彼女が味わっていたという、暗い意識の水底に沈んで消えてしまいたい。
いまとなっては、そうやって考える行為自体が途方もなく自己中で見るに堪えない。死にたくなかった彼女を裏切って見殺しにしておきながら、自分は自分の意思で死のうとするなんて、あまりにも虫のいい話だ。
「…………はぁ」
結局、どれだけのことを経験したところで僕は僕のままだった。何もできない意気地なし。あれだけ頭の中ではもっともらしい意見を並べ立てておきながら、いざとなれば平身低頭で『偽物』やもしれない彼女にペコペコと謝り倒すほどのクズ。
いまから家に帰ったところでもう遅いだろう。たぶん彼女は僕に愛想を尽かして消えてしまい、もう二度と会うことはかなわない。たとえ『幻想』だったとしても、僕は永遠に彼女を創り上げることはなくなるだろう。
「なにやってんだよ、僕」
彼女と添い寝できたことがそんなに嬉しかったのだろうか。それであまりにも嬉しすぎて彼女に厚い信頼を寄せて、過去のみじめな自分をすべて話してしまったとでもいうのだろうか。
だとしたら、あまりにも阿保すぎる。結局彼女がまがいものだったのかは判らなかったけれど、それよりも僕は自分自身のことが許せなかった。
「……あ、こんなところに居た」
「……え?」
鈴を転がすような声。砂糖菓子のように甘ったるい喋り方。絶対にここでは感じることのないはずの、結城加乃の存在感。
振り返ってみると、寝間着に身を包んだ加乃が後ろ手に手を組みながら立っていた。その表情はなんだか複雑で、喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見えた。
生臭い海の匂いに包まれながら、僕たちは1分ほど見つめ合った。最初に口を開いたのは加乃のほうだった。
「…………わたしね。ナギくんに今まで黙ってたことがあるの」
「……黙ってたこと?」
彼女が頷く。やがて、何を思ったのかポケットからスマホを取り出すと、10秒くらい画面を操作して僕に見せてきた。
それは国内最大級のニュースサイトだった。国に関わる大きなニュースから地元の小さな事故まで幅広く取り扱っている。その中にある一つの記事をタップして見せる。近所で起きた交通事故に関するまとめ記事。書かれたのは一か月ほど前。
「……って、これは」
「私が死んだ交通事故に関する記事だよ。それと……」
加乃はちょっと画面をスクロールする。そこには、にわかに信じがたい文面が載せられていた。
「……ナギくんが昏睡状態に陥ってしまった、交通事故の記事でもある」
「……は?」
ニュースサイトにはこう書かれていた。
『昨日の午後6時。桜並木交差点前で事故が発生した。巻き込まれたのは宮ノ橋高等学校2年生の男女二人。いずれも病院に運ばれたが、そのうちの一人である結城加乃さん(17)は程なくして死亡が確認された。もう一人の男子高校生は意識不明の重体である。なお、車を運転していた57歳の男性は――』
「……うそだ」
「今まで黙っててゴメン。でも、伝えるなら今しかない、って思って」
彼女の言葉が耳に入ってこない。頭の中ではずっとこれまでの記憶がぐるぐると渦を巻いている。僕がこれまで学校に通っていたあの記憶は? 友達と笑い合って過ごしていた記あの記憶は? そして、何より……死んだ加乃に向けて手紙を書いていた、あの時間は? すべてが僕の妄想だったのか?
「わたしは一か月前のあの日、死んだ。大通りに飛び出した私をナギくんが助けてくれようとしたんだけど、そのまま前に倒れこんじゃって、ちょうどそこに車が来て……」
一か月前の記憶。僕は彼女を引き戻すべく手を伸ばして、見事腕をつかんだ。でもその際にバランスを崩して前のめりになったんだ。
そこからは……思い出したくない記憶としてずっと奥底に封印していたのだが、どうやら僕はあそこで加乃を見殺しにすることなく、一緒に車に轢かれていたらしい。
つまり、僕は……初めから『生きていなかった』のか。僕と遊ぶ約束をしていた友達もすべて嘘で、周りの環境も学校もすべて嘘で、僕がいま息をしているこの世界すらも、たぶん嘘で。
「要するに……僕は、誰なんだ?」
自分の胸に触れてみる。こんな時でも心臓は普通に稼働していて、自分が昏睡状態になっているということを知った今でも平然とした様子でドクドクと脈打っている。この心臓も流れている血も、すべて嘘だというのだろうか。
「キミは、ナギくんだよ」
彼女が言う。
「キミはずっと、夢を見てる」
よっ、と言って彼女は僕の目の前に立った。ちょうどいいタイミングで陸風が吹いて、その黒いなめらかな髪を弄んでいる。
ここの海岸は旅行雑誌などでは人気のスポットだが、さすがに夜になってここへ訪れる人は少ない。だから周りを見渡してみても『人』は僕たちしかいなかった。
加乃が続けて言う。
「キミは、終わりのない夢を見てるんだよ」
「終わりのない……夢」
「自分で作り上げた世界に閉じこもって、なかなか出てこようとしないの。まるで卵の殻を破れない小鳥みたい」
「ぼ、僕は……」
言いかけて、口をつぐんだ。自分の世界に引きこもっている、という表現がなんだか気に食わなくて修正しようとしたけど、言葉が喉の奥で突っかかった。本当に彼女の言っていることは間違っているのか、と考えてしまったからだ。
「――ナギくんは、最後まで紳士だったみたいだよ」
「……なんだって?」
ふと、加乃が突拍子もないことを言う。
「車に吹っ飛ばされた後も、死にもの狂いで私のところまで這ってきて、泣きながらずっとキスしてたみたい」
「……な」
「まあ、そのまま救急車が来る前に力尽きて倒れちゃったみたいだけど」
そう言って苦笑いをしながら前に踏み出した。さく、と軽い音がする。そのまま膝を折ってかがんで、僕の瞳の奥をのぞき込んでくる。
「でも、わたし……嬉しい。最後まで私のことを愛してくれたから」
「……それは、あたり、まえだろ」
お前は僕の彼女なんだから。ビビりながら言うと、急に抱き着いてきた加乃に押し倒されてそのまま砂浜に寝転ぶ。生臭い匂いがシトラスのさわやかな香りに打ち消されて、淀んだ空気がカラッと晴れたような気がした。
「えへへ。大好き、大好きだよナギくん」
顔に何度もキスをしてくる彼女に抗いながら、けれども体の力は抜いていた。このまま彼女に身をゆだねていたかった。
キスしながら抱き合ううちに、彼女が、もっと大人びたことをしたい、と言い出した。僕の思春期真っ盛りな心は、その一言だけで簡単に揺らいだが、苦渋の決断で彼女の誘いを断ることにした。
理由は自分でもよく判っていない。この期に及んでヘタレな性格が再発したのか、それとも彼女は綺麗なままでいてほしい、という自分勝手な願望があったからか。
「……ヘタレ」
まあ、やっぱり彼女からはこのようなお言葉を頂戴する運びにはなったけれど。
「……でも、まあいいか。またいつかナギくんの夢にお邪魔すればいいだけだし」
そう言って、なんでもなさそうな顔でにへら、と笑って見せる。いつも眩しい笑顔を振りまく加乃だけど、今日に限っては本当に眩しくて、目を開けるのも精一杯だった。
見れば、彼女の体が少しずつ光りだしていて、それはまるでこの世界から居なくなってしまうような前兆にしか思えなくて。
「かっ……加乃? なんか体が光ってないか?」
「ん? ああこれ、服にLEDライトをつけただけだよ」
見え透いた嘘をついて一人で笑っている加乃。僕の方は当然笑っていられる余裕なんてないから、そのまま眩しさをこらえながら彼女の体に抱きついた。まだ柔らかくて温かくていい匂いがする。この感触を手放すのが怖くて、僕はコアラみたいにずっとしがみついていた。
すると、抱きつかれている加乃がひどく優しい顔で僕のことを見下ろす。すべてを知っているような顔で、慈愛に満ちた瞳で僕のことを見つめる。
「ナギくんはもう、この世界が自分の夢だってことに気づいた。だから、あとはもう起き上がるだけだよ」
「……ぇ、そ、それ、って」
「起き上がったら、私はいなくなるよ。だってここはナギくんの作った世界だもん。私みたいな『幽霊』は追い出されちゃう」
「そ、そんな、い、いやだ、いやだ」
光が強さを増していく。眩しすぎてもう見ていられない。でも最後の最後まで彼女を視界に収めていたくて、涙が出るまで加乃のことを見続ける。
「ほら、起きて。ナギくん」
彼女に回していた僕の腕は、いつの間にか宙を抱いていた。
「――――っ」
光に包まれて消え去ってしまう最後に、彼女は何かを言ったような気がした。でも僕がそれを聞き直すチャンスは、もうなかった。
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