贖罪のエンドロール【4】
◆
「まずは夕飯をつくろうか、ナギくん」
家に帰ってくるなり彼女はそんなことをのたまった。
僕がソファにカバンを放り投げると、女はキッチンでエプロンを身に着けていた。
『幽霊』がエプロンをつけている光景はなかなかに面白い。
「何が食べたい?」
「なんでも」
「むぅー、そういう反応が一番困るんだよね」
「じゃあハンバーグ」
「任せて!」
俺の一言でやる気スイッチが入ったのだろうか、女は冷蔵庫を開けると料理に使う食材を次から次へと出していく。普段から外食とかカップラーメンばっかりの俺からすれば、その食材をどうやって使うのか皆目見当もつかないが、まあ彼女ならやってくれるだろう。
普段から料理をしない僕にとって、彼女の存在はまるで救世主のようだった。小さいころから料理を嗜んでいる彼女にとって、僕の胃袋をつかむ料理を作るのは朝飯前だったらしく、彼女が死ぬ前はよく学校にお弁当を作ってきてくれた。
あまりにも彼女が僕に尽くしてくれるものだから、何もしていない僕のクラス内評価が相対的に下がっていったのは少しばかり残念に思われるけれど。
「ナギくんは適当にテレビでも見てくつろいでて」
キッチンの方から女の声が聞こえる。そもそも幽霊にしろ幻覚にしろ実体のなさそうな彼女に料理なんてできるのか、という野暮な考えが脳裏に浮かぶ。それがトリガーになったわけではないけれど、今夜の夕飯は僕も手伝おうと思った。
座っていたソファを降りると、暑苦しい学校のネクタイをほどいてキッチンへと向かう。すぐに目に飛び込んできたのは女の麗しいエプロン姿。これだけで絵になってしまうから彼女の秀麗さは末恐ろしい。
「……今日は、僕も手伝うよ」
「えっ、ほんと? 嬉しい!」
ほんわかとした笑みを浮かべる彼女に悩殺されながら手を洗って料理の準備をする。包丁すらまともに握ったことのない僕だけど、まあ何かを注いだりかき混ぜたりすることくらいはできるだろう。
「じゃあナギくんは玉ねぎを炒めてくれないかな」
「玉ねぎを……炒める」
「そう。この木べらを使って玉ねぎが飴色になるまで炒めて」
「木べら……? 飴色……?」
「こ、こんな無知ならせめて死ぬ前に料理のこと教えてあげるんだった……えっと、まず木べらっていうのはね?」
右も左もわからない僕に手取り足取り優しく教えてくれる女。おかげで木べらがどういうものか分かったし、飴色が具体的にどんな感じの色なのかも把握した。あとは彼女に言われた通り玉ねぎを炒めるだけだ。
その間、彼女はひき肉を丸めてハンバーグのタネをつくっていた。なんだか粘土みたいで面白そうだったけれど、僕がやるとたぶん紙くずみたいな形になるだろうから自重しておいた。
「えへへ。なんかこういうの久しぶりだね」
「ああ、なんだか不本意だが懐かしく感じる」
「もー、まだ信じてないの? ナギくん」
「逆にお前は信じるのか。もし僕が死んで、一か月後に僕が『幽霊になって復活しました』とか言ってお前の目の前に現れたら」
「私は信じるよ。だってそうすればまたナギくんと一緒に居られるでしょ?」
「……ホント、お前のその楽観的な思考は天性のものだよな」
「それ、褒めてるの?」
「僕的にはかなり褒めてるつもり」
「うそだー。本当は馬鹿にしてるんでしょ」
「いや、本当に心の底からそう思ってるだけだ」
「……あやしい」
雑談を交わしながら夕食のメニューをどんどん作り上げていく。途中、包丁に挑戦した僕が危うく自分の指を切り飛ばしそうになったが、すんでのところで彼女に助けられた。危うく死ぬところだった。
気づけば時刻は午後7時を優に過ぎていて、夕食をとるには少し遅い時間になってしまっていた。豪華な料理が並んだテーブルに腰かけて女が言う。
「お疲れさま、ナギくん」
「ああ、そっちも」
僕も椅子に腰かけると、その日の夜は二人で楽しくご飯を食べた。彼女とこうやってまったりした時間を過ごすのは久しぶりで、僕の中にある疑念も少しだけ顔を引っ込めたが、油断はできないのですぐに引きずり出す。
もしかしたらこれらはすべて僕の幻覚で、次の瞬間にはリビングで一人寂しくカップラーメンをすすっている僕がいるかもしれない。
この不安定な幸せに肩までどっぷり浸かるのは、気の弱い僕にはちょっとできそうにもなかった。
ご飯を食べ終えて、風呂に入って、歯を磨いたころにはもう寝る時間になっていた。明日も学校だからできるだけ夜更かしは避けたいところだ。
なんだけど……。
「わたし、ナギくんと一緒に寝たい」
「ダメだ」
「なんで?」
「眠れなくなる」
「あ、それってもしかして私にドキドキしてくれてるってこと?」
「寝てる間に何されるか分からないから」
「ちょっと!? 別にわたしは何もしないよぅ!?」
「何もしなくてもダメだ。今日は僕のベッドを貸すからここで一人で寝てくれ」
「ナギくんはどこで寝るの……?」
「リビングのソファ」
「そんなところで寝たら腰痛めちゃうよ。私と一緒にベッドで寝ようよ~!」
服の裾をつかんで子供みたいに駄々をこねる。こういうところは昔と何ら変わりないけど、この状況で彼女と添い寝なんかしたら、僕はきっとこの女のことを信じ切ってしまうだろう。
彼女の匂いとか、体温とか、体の柔らかさとか、そういうものを無条件に信じるようになってしまうだろう。そうなったら僕はいよいよ後がなくなってしまう。
まだ僕は彼女が『偽物』である可能性を信じ続けなければならないんだ。最後の最後で後悔しないように。
「…………えいっ」
「っ!?」
すると、いきなり彼女に腰をつかまれて、そのまま布団の中に引きずり込まれた。いきなりの出来事だったからとっさの判断が利かず、彼女にぎゅうっと抱きしめられる結果となってしまった。
「えへへ、あったかい?」
「……あ、ああ」
背中に抱きつかれているもんだから、彼女の体温や心臓の鼓動がじかに伝わってくる。本当はそんなものないはずなのに、なぜかそれらがあることが当たり前だと思ってしまっている自分がいる。
……本当は、冷たいはずなのに。どうして今はこんなにも温かいのだろうか。やはり彼女は僕が作り出した幻ではないのか。それならいろいろと辻褄が合うのだが。
「今日は私たっての意向で、このままナギくんをぎゅーっとしながら寝ようかと思います」
「やめてくれ」
「むぅー、なんで? ナギくんは嬉しくないの?」
「そりゃあ……嬉しくないわけないだろ」
「じゃあもっとぎゅってするね」
「おい、ちょっ、やめ」
彼女の腕の力がさらに強まって、もっと密着する羽目になった。もはや僕の体と彼女の体に境界線なんてものは存在しておらず、彼女の心臓の音がやけに生々しく伝わってきた。
それと同時にシトラス系のさわやかな香りが鼻腔を通り抜けていく。本当は避けたかったのに、結局彼女の要素を余すところなくすべて堪能することになってしまう。
布団の中は彼女の甘い吐息で満たされて、頭がおかしくなってしまいそうだ。
「……このまま、ずっと離さないから」
「…………」
「だってわたし、ナギくんに認めさせるんだもん。本当にわたしは存在するんだってこと、証明するんだもん」
こつん、と彼女の頭が背中に当たる。
「そのためには、これがきっと効果的……なんでしょ?」
「…………」
「こうすれば、ナギくんは私のことを認めてくれるんでしょ?」
わざとなのか無意識なのか、女は自分の体をぐりぐりと押し付けてくる。まるで自身の存在をアピールしているかのように。
布団の中でくっついてくる彼女は怖いくらいにリアルだ。見た目も性格も挙動も仕草もすべてが生前の彼女と一致しているし、誰よりも加乃と触れ合っていた時間の長い僕がそのように感じてしまうのが何よりの証拠だ。
……そこまでして君は、僕に認めさせたいのか。匂いや体温でいつかの自分を想起させて、いつまでも僕に忘れさせないようにしたいのか。
「……忘れるわけが、ないだろう」
「?」
彼女が死んだのは僕の責任だ。あのとき加乃の手を離さなければ、彼女は死なずに済んだはずなんだ。そしていま、こんな底意地の悪い猜疑心などを抱かずに、心の底から安心して彼女を愛してあげられたはずなんだ。
……全部、悪いのは僕なんだ。それを忘れようだなんて思ったことは、彼女が死んでからの一か月間、一回たりとも思ったことがない。
「ふああ。ちょっとわたし、眠くなってきちゃったかも」
「……そうか」
「ね、ナギくん。最後はキミのほうから抱きしめて」
「え……?」
「わたし、まだナギくんにぎゅーってしてもらってない」
女……加乃は、こちらに向かって両手を広げる。そこにはなんでも包み込んであげられそうな包容力が垣間見えた。
「ほら。ナギくん。ぎゅーってして」
「…………」
「ぎゅーだよ、ぎゅー。昔はよくやってたでしょ?」
「…………」
「…………っ」
「…………」
「……もう、いいじゃん」
加乃の声色が変わった。甘ったるい砂糖菓子のような声から、氷菓子のような冷気を帯びた声に変化する。
「この際、私が本物の結城加乃であろうとナギくんの幻覚だろうと、どっちでもいいじゃん」
そう言って俺の手を取る。
数秒後には、じんわりとした温かさが手のひらに伝わった。
彼女が自分の頬に押し当てたのだ。
「いまナギくんの目の前にいる結城加乃が、ナギくんのハグを欲しがってる。ただそれだけの話だよ。別に本物だろうと偽物だろうと、関係ない」
「…………」
「もしかしたら、私を抱きしめたことで得られた温かさとか柔らかさは、すべて虚構かもしれない。時間が経てば何も残らない、意味のないものかもしれない」
「…………」
「だけど、いまはそれでいいじゃん」
心が、融ける。
「ナギくんの心、もう壊れかけてるじゃん」
心が、解ける。
「心に空いた穴を、偽物でもなんでもいいから、埋めてあげないと」
心が、溶けていく。
「そうじゃないと、取り返しのつかないことになっちゃうよ」
気づけば、僕の両腕は彼女のことをがっちりとホールドしていた。温かい。柔らかい。温かい。柔らかい。ずっと手に入れたかった感触が洪水のように脳へ流れ込んでくる。
僕が欲しかった感触。彼女から与えられるものではなく、僕の意思でつかみ取った感触。一か月前のあの日、もしかしたらもっと簡単に得ることができていたかもしれない感触。
「…………ごめん」
その優しさにほだされて、いつの間にか口をついて出たのは謝罪の言葉。僕があれだけ禁句にしていたはずのセリフ。このままだと僕は『本物』か『偽物』かもわからないような不安定な存在に罪を告白してしまうことになる。
それじゃダメだ。それだとダメなんだ。ここで彼女に謝ったところで僕の心に刻みつけられた罪の意識から解放されるわけではない。むしろ逃げようとしている。そんなクズ野郎になった覚えはない。
「…………ごめん」
口を閉じてくれ。僕がそのセリフを言う権利はない。口を閉じろ。
「…………ごめん」
頼むから、もうこれ以上僕を苦しませないでくれ。情けない僕のままで居たくはないんだ。
だから、口を閉じてくれッ……!
「…………ごめん」
どれだけ強く念じても、僕の口が閉じることはない。
これまで貯めてきた心の中の想いをすべて吐露するように、何回も何回も何回も謝罪の言葉を口にする。
「…………ごめん」
気づけば、もう取り返しのつかないことになっていた。
「…………いいよ」
「…………ぁ」
終わった。
「私は、キミのことを許してあげる」
もう、何もかもが終わってしまった。
「怖かったんだよね。辛かったんだよね。苦しかったんだよね。でも、もう大丈夫だよ。私はあなたのことを許すから」
彼女の言葉が、よく聞こえない。
顔も、よく見えない。
綺麗な唇から漏れる言葉はすべて脆くて。
どこかを突けばすぐに瓦解しそうなほどに弱くて。
「…………ぁ、あ、あああ、ぁぁぁああぁああ」
気が遠くなるほど、僕の首を絞めつける。
「……って、ちょっと!? ナギくん!?」
いつの間にか、僕は布団から抜け出して家の外へと駆け出していた。
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