贖罪のエンドロール【3】
◆
その日の学校はひどく退屈だった。授業の内容もあまりわからなかったし、昨日友人と約束した店巡りも向こうの都合によっておじゃんになったし。
放課後になって特にやることのなかった帰宅部の俺は、グラウンドを走っている運動部の様子をぼけっと眺めてから校門を出た。
住宅街の中を歩いていると、ちょうど目の前に夕日が見えた。動脈血みたいに赤く輝いていて、あたりの人々に一日の終わりを知らせている。なんだかここの風景だけ切り取るとドラマのワンシーンのようだが、人がいないせいでちょっと寂しく感じる。ドラマにせよ映画にせよ、こういう景色には登場人物が必要だ。
そんなことを考えながら歩いていると、電柱のあたりに人影がいるのを見つけた。ここからではよく見えないが、長い髪を夕風になびかせている様子から推測すれば女性だろうか。
「…………ん?」
ふと、違和感が脳にこびりついた。あの姿にはどことなく見覚えがある。でもそんなのはおかしい。彼女に見覚えがあるはずがない。普段ここの通りにはあんな女性はいなかったし、おそらく遠出かなんかでこの住宅街を訪れただけだ。そんな赤の他人を僕が知っているはずがない。
僕はなんとなくこの先へ進みたくなかった。でも残念ながら僕の家はちょうど女性が立っている方角にあるため、どうしても彼女の横を通らなければならない。しょうがないのでいつもみたいに頭をうなだれてささっと横を通り過ぎようとした。
刹那――。
「ナギくん」
心臓を思いっきり握られたような感覚。言葉が耳から入って脳に到達する前に全身全霊で否定される。今ここでその声が聞こえるはずがない。彼女は一か月前に死んだはずだ。じゃあいま僕の隣に立っているのは幽霊?
「ナギくんってば」
2回目の呼ぶ声。さっきので終わっていればまだ僕の頭がおかしくなっただけだと結論付けることもできたが、こうなってはいよいよ意味が分からなくなってくる。
僕は立ち止まって、そっと首を横に向ける。目に飛び込んできたのはしっとりとした黒髪と、クラスの男子から評判だったスタイルのいい体。そして僕のことをじっと見つめるその瞳は――。
「…………ぁ」
完全に、結城加乃のものだった。
「もう、ナギくんひどいよ。私のことを無視するなんて」
「いや、いやいやいや。おかしい。こんなことが起きていいはずがない」
完全に怖気づいた体勢のままバッと数歩くらい距離を取って、女のシルエットをじっと眺めてみる。でもどれだけ舐めまわすように見たところで、彼女の存在は依然として電柱の近くにあり続けた。僕が存在を認知した瞬間にマジックのように消えたりはしなかった。
「……お前、本物か?」
「本物って?」
「僕の知っている結城加乃は一か月前に死んだ。だから加乃がここにいるはずがない。お前は何者なんだ」
「私は結城加乃だよ」
彼女の言葉に一瞬クラっとした。見た目も同じで名前も同じ。ドッペルゲンガーどころか正真正銘本人だと主張しているのだ。この女は。
「……じゃあ、僕と加乃しか知らないこと」
「え?」
「僕と加乃しか知り得ないことを3つ、挙げてくれ」
僕が言うと彼女はうーん、とこめかみに指を当てて思案する。考える様子まで生前の彼女と一致していて非常に気味が悪かった。
やがて、彼女が思いついたとばかりに指をぴんと立てた。
「まず1つ目。私とナギくんの初デートは東京ディズニーランド」
「…………」
「そして2つ目。ナギくんは背中にほくろがある」
「……知ってたのか、それ」
「だって恋人だし」
そう言って自慢げな顔をする。
「最後に3つ目。私とナギくんはこれまでに15回、キスをしました」
「……いや、15回じゃない。5回だ」
「え?」
と、驚いた顔をする女。ここまで正確に言い当ててきたのにどうしてキスの回数を間違えるのだろうか。僕と加乃はこれまでに5回しかキスしたことがない。だから15回というのは少し盛りすぎなような気が――。
「だって、私が死んだとき、ナギくんいっぱいキスしてくれたもん」
「……………………は?」
思考が止まる。こいつはいったい何を言っているんだ。
「私のことを抱きかかえながら10回キスしてくれたから、それも込みで15回」
「……ま、待った。私が死んだときっていうのは」
「だから、私が車にひかれた時だよ。どう? これで信じてくれた?」
「……い、や。信じるも何も」
そんなの、あの場で『生きていた』俺にしかわからないことじゃないか。というか僕でさえ加乃に何回キスしたかなんて覚えていないというのに、どうして彼女がそのことを知っているんだ。
彼女はにんまりと笑みを浮かべながら、一歩一歩近づいてきた。そのたびに黒髪が揺れて、あの日の彼女を彷彿とさせる。
「改めて。私は結城加乃。地元の高校に通う17歳の高校生で、ナギくんとは3年ほど恋人関係にありました」
「…………ぁ、ああ」
「1か月前のあの日、私は車にひかれてこの世を去ったけど、この度なんと幽霊として復活することが決定しました」
わー、と言いながらぱちぱちと手をたたく女。こっちとしては相手が何を言っているのかわからないから、ただぼーっと立ち尽くすことしかできない。
……彼女が幽霊として復活。そんなのドラマや映画でしか見たことないぞ。こんな突拍子もないことをいきなり言われてはいそうですかと受け入れられる人間がいるはずがない。
「じゃ、じゃあ、仮にお前が幽霊だとして、なんでこのタイミングで復活したんだ」
「ん? ああ、それなんだけどね。実はわたしにもよく分からないの」
「はい?」
「ずっと私の意識は底の見えない真っ暗闇の中に沈んでいたんだけど、何かがきっかけで急に視界に光がさしてね? 気づいたらこの場所に立ってたの」
「なるほど。そりゃまた随分と好都合な話だな」
「……まだ、信じてくれないの?」
「当たり前だ。なぜなら僕の結城加乃は既に死んでいるからな」
「私も結城加乃だよ?」
「じゃあ本物だと証明できるのか」
「だから、それはさっきの――」
「いや違う。僕が聞きたいのはそうじゃない。さっきまでの話を聞く限り、お前は本当に加乃の記憶を持っているようだが、それだけじゃまだ信じるに値しない」
「じゃあ、いったい何が足りないの?」
「……お前が、僕の作り出した幻覚だっていう線が、まだ残っている」
「…………っ」
そう。普通に考えて死んだ人間が幽霊として復活するわけがない。もしそんなことが可能なら各地で死者が復活しまくって世界は大混乱に陥っているはずだ。もし何か特殊な条件が必要なのだとしても、加乃がそれの第一人者というのは少し考えにくい。
だから、僕は最初に僕を疑った。これは僕の見ている幻覚なのだと。結局彼女は死んでいて、これは僕が作り出した『甘え』に過ぎないのだと。
「お前は本当に『加乃』なのか? 僕が愛していた彼女なのか?」
「…………」
聞くと、彼女は口をつぐんで視線を少しだけそらした。何か言いたくないことでもあるかのように意図的に僕を視界に入れないようにしているようだった。
「それは……」
ぽつりとつぶやく。あまりにも小さい声だったから危うく聞き逃しそうになった。
「それは、わからない」
「…………」
「でも、私は本当に結城加乃なんだよ。これだけは絶対に言える。私は結城加乃。ナギくんが愛した『加乃』じゃないかもしれないけど、私の存在は事実なんだよ」
ますます訳が分からなくなってくる。もし彼女が『本物』の結城加乃で幽霊になって僕の目の前に現れたとしたら、まずその理由がよくわからない。どうしてこのタイミングで復活したんだ。
そして、仮に彼女が僕の生み出した『偽物』の加乃だとしたら、それはそれで奇妙な話だ。確かに人間は場合によっては幻覚症状が現れることもあるが、僕は今のところ精神に異常はないし、何か危険な薬に手を出したこともない。だから、いきなり幻覚を見る理由がないのだ。
……でも、僕は今のところ、彼女が『幻覚』でないという線を強く願っている。なぜなら、彼女が僕の幻覚であるということは、すなわち僕が自分自身に『贖罪』の機会を与えたことになるからだ。
僕はどうにもならない正真正銘の意気地なしだから、こうやってまやかしの彼女を作り上げて、それに謝ることで一か月前の愚行をなかったことにしようとしているのかもしれない。
でも、そんなことをしたところで何になる。そんなの自分が犯した過去のあやまちから目を背けようとしているだけじゃないか。
僕のしたことは到底許されることではない。それを自分の妄想の中で解決したことにして手を引こうとするなんて、それこそ本当のクズ野郎だ。加乃に申し訳が立たないどころの話ではない。
……だから、僕は彼女が『幻覚』ではないことを強く願っている。
僕はまだそこまで落ちぶれてはいない。さっさとこの呪縛から解放されたいだなんて思っていない。
そう、自分に言い聞かせたかった。
「……そこまで、私のことが信じられないなら」
ふと、さっきまで黙り込んでいた彼女が口を開いた。
続いてこちらの目の奥をじっと見据えると、はっきりとした声色で告げる。
「今日、ナギくんは私と一緒に過ごすこと」
「……は、はい?」
「そこでナギくんに示してみせるよ。もしかしたら私が『本物』の結城加乃かもしれないっていうことを」
言って、女は僕の腕に抱き着いてきた。幽霊なのにちゃんと実体はあるようで、彼女のシャンプーの匂いとか体の柔らかさは生前の加乃そっくりだった。
心なしかドキドキしながら見下ろすと、こちらを見上げている女と目が合う。彼女の澄んだ瞳は見つめているとその中に吸い込まれてしまいそうになる。これまで何度も見つめてきた目の奥の銀河は、幽霊だとしても幻覚だとしても、めちゃくちゃに再現度が高かった。
「じゃあ、ひとまず帰ろっか。ナギくん」
「……あ、ああ」
そのまま腕を組んで帰路に就く。途中で学校の生徒にも何人か出くわしたが、彼らは腕を組んでいる僕たちに気づいていないようだった。どうやら彼女のことが見えているのは僕だけらしい。
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