贖罪のエンドロール【2】
◆
いま思えばそれは、神様の手違いにしか見えなかった。僕たちが時おり文字を書き損じるように、神様がうっかり間違って誰かの生死を決めてしまったようにしか思えなかった。
だから、その対象が僕の彼女だと知ったとき、僕は猛烈に神様のことを恨んだ。でもそれと同時に、神様を恨んだところで現実が変わるわけではないことを感じ始めてもいた。思えばこのころから、僕はこの事故に対して客観的な視点を持つようになってしまったのかもしれない。
「…………ぇ?」
そう。あまりにも突然の出来事で、脳が理解する前にすべてが終わってしまっていた。こんなの現実味を感じられなくて当然だろう。今この瞬間にいきなり宇宙空間へ放り出されたとしたら、誰だってきっと馬鹿みたいに口をぽかんと開けながら死んでいくに決まっている。
それくらい、僕にとってはすべてがフィクションのようだった。頭がおかしくなりすぎて映画のエンドロールが見えそうになったほどだ。
「加乃……?」
何回も聴いて擦り切れてしまったCDみたいな声を出す。よろよろと一歩踏み出すと、足の裏にねっとりとした感触が残る。
あえてそれを確かめないようにしながら、僕は道路の真ん中で横たわっている彼女に近寄る。絶対に下は見ない。見たら何かが終わってしまう。溺れかけてつかみ取った藁が切れてしまう。
そうなったら僕は、きっと自分が許せなくなって、彼女にちゃんとした謝罪の言葉すらかけられずにこの場から逃げ出してしまうに違いない。
それは嫌だ。そんな情けないことをするくらいだったら今ここで首を切って死んだほうがマシだ。
「加乃、大丈夫だよな……? まだ、息してるよな……?」
ぴちゃん、ぴちゃんと足元で何かが跳ねている。綺麗な赤色だ。まるで熟れたリンゴの色素をそのまま水に移し替えたような鮮やかさがある。今の僕にとってはその鮮やかさが、むしろ目に毒だった。
「加乃? なあ、聞こえているなら返事をしてくれ。なあ、加乃」
膝をついて彼女を抱きかかえる。その体は綿のように軽い。風でも吹いたら飛んで行ってしまいそうだ。
「――! ――――っ!」
何やら後ろの方から声が聞こえる。もしかしてすぐそばに停まっているトラックの運転手だろうか。迷惑をかけてごめんなさい、と謝ろうとしたが思うように口が動かない。加乃の手を引いて運転手に頭を下げようとしても、考えたように体が動いてくれない。
幸いにも大きなケガはなかったから、大丈夫ですよ。とりあえず事故が起こったのは事実なので、警察を呼んで事情説明だけしてもいいですか?
大丈夫です。彼女はかすり傷くらいで済んでいるので、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。ちゃんと僕が警察に説明しますから。
「加乃、もう一回だけでいいから喋ってくれないか……?」
血が流れているって? ああ、このくらいなら軽く止血してばんそうこうでも貼れば治りますよ。な? 加乃。
「……あ、ああ、ああああぁぁぁあああぁ」
あれ、どうしたんだい? もしかして体が動かないのか? それとも急に強い衝撃をくらって腰が抜けちゃったとか? まったく、加乃は昔から臆病だなあ。しょうがないから僕がおんぶしてあげるよ。
「あああああぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁああッ!!!!!!」
ほら、面倒なことはさっさと終わらせて、早く家に帰ろう。
◆
ちょうど1か月前の今日。僕の彼女である結城加乃は死んだ。17歳というあまりにも若すぎる年齢でこの世を去った。
彼女の夢は医者になることだった。女医になって病気で苦しんでいる多くの人を救ってあげるのが彼女の夢だった。
だけど、結局彼女がその夢を叶えることはできなかった。トラックにはねられた時点で即死だったから、病院に運ばれて間髪入れずに死亡宣告をされ、そのまま加乃の両親の意向により火葬と相成った。生前の彼女にとって夢の職場であった病院にはちょっとの間しか居ることはできなかった。本当に皮肉な話だ。
あの日、僕と彼女は家に帰る途中だった。両親が遅くまで家に帰ってこないのをいいことに、加乃との家デートを目論んでいた。所詮は僕も年頃の男子高校生だから、家デートをきっかけに彼女と色々なことをしたいな、という下卑た考えも引き連れて、ルンルン気分で帰路についていた。
そして、彼女がふと小道から大通りに出たとき、頭の後ろで火花が散ったような感覚がしたのを今でも覚えている。あれはきっと神様がくれた最初で最後のチャンスだったのだろう。
けたたましいクラクション。続いて耳障りなブレーキ音。両方の音から導き出される最悪の結末。ドラマや映画で何度も見た光景。僕の頭の中では、ある物語の主要キャラが車に撥ね飛ばされて死亡するシーンが、延々とフラッシュバックしていた。
今でも不思議なのだが、この時の僕は自分でも怖くなるほどに冷静だった。現在進行形で加乃が命の危機に晒されていることをきちんと理解していたし、何より手を伸ばして彼女の服の裾をつかんで引き寄せることだってできた。
そう、与えられた時間はあまりにも多かったのだ。とっさの事故から身を守るにはあまりにも長すぎる猶予。そのせいで僕の思考には変な歪みができてしまったのかもしれない。
「ッ、加乃、あぶな――」
ほとんど無意識で伸ばした手。大通りに体が出ている彼女を引き戻すべく、全体重をかけて前のめりになる。こっちの方が倒れるときの加速を利用してさらに早く彼女を助けられるかもしれない、と考えたからだ。
やがて、俺の湿った手は無事に細い腕をつかんだ。でもそれと同時に重心を傾けたせいで僕の体も大通りに出てしまっていた。
……あ、死んだ。
無意識のうちに思った。これはもう助からない。どうあがいたってこのまま僕たちは車にはねられて死ぬ。人間って意外とあっさり死ぬんだな、と無我の境地に片足を突っ込みそうになった。
でも、どうやらそれには及ばなかったようだ。なぜなら僕は無意識に手を離して、自分の体を丸め込んでいたから。
――刹那。ゴンッ、と鈍い音がしてトラックが止まる。「嬢ちゃん大丈夫か!」とひっきりなしに叫ぶ声が聞こえる。僕はダンゴムシみたいに体を丸めた状態で、1分ほど地面に転がっていた。
心臓はさっきからバクバクとものすごい勢いで稼働しており、全身が心臓になったかのようだった。続いて襲ってくるのは不安と疑問。さっきの鈍い音は何なのだろうか。加乃は果たして大丈夫なのだろうか。トラックの運転手が顔面蒼白な様子を見ると、かなりひどい状態になっているのだろうか。
「……あ……れ……?」
おかしい。数秒前に自分の取った行動が思い出せない。どんなに頭をひねっても肝心な部分にモザイクがかかって、うまく記憶を復元することができない。
「な……んで、思い出せ……ない……」
彼女が大通りに出たところで、横からものすごいスピードの車が迫っていたことは覚えている。そして彼女を助けるべく思いっきり手を伸ばしたことも覚えている。間一髪で彼女の腕をつかんだことも覚えている。
……で、そのあとは? 手を伸ばして腕をつかんだあと、僕はいったい何をした?
冷たいコンクリートの上でうずくまりながら、何もつかんでいない両手を握ったり開いたりする。
おかしい。この手は確かに彼女をつかんでいたはずなのに。おかしい。何もつかんでいないのはおかしい。彼女が僕の胸の中にいないのはおかしい。そっと目を開けて、鈴を転がしたような声で僕を呼ぶ彼女はどこにいる?
「キミ! キミもケガはないか!?」
大通りの方から先ほどの運転手の声が聞こえる。このとき僕はどんな言葉を返したのかはもう覚えていない。だけど同時に目に飛び込んできた光景だけは忘れたくても忘れられなかった。
道路の真ん中に転がっている死体。長い黒髪が放射線状に広がっている。紙くずみたいにクシャクシャになっていて、初めはそれが人間だったと説明したところで大して説得力もなさそうだと思った。そして気づいた。よく見ればそれは僕の彼女――結城加乃であるということを。
「…………ぇ?」
真実が喉の奥からせりあがってくる。歯止めのかかっていた思考が一気に開通して、過去の記憶が雪崩のように押し寄せてくる。
かすかにつかんだ彼女の柔らかい腕。そして心が落ち着くシトラス系のシャンプーの香り。続いて目が眩むほどの車の光が飛び込んできて、気づけば僕の手から彼女のぬくもりが消えていた。
……認めたくない。僕がそんなクソ野郎だったことを認めたくはない。あれだけ彼女のことを愛していた自分をすべてひっくり返すようなことだけは、決してしたくない。僕は彼女を愛していた。彼女のためなら命を捨てる覚悟だってあった。
あった、けれど。
「加乃……?」
どうやらその覚悟も、結局は何の役にも立たなかったようだ。僕は彼女を見殺しにしたのだ。せっかく彼女の腕をつかんだのに、自分が死ぬのが怖くなってパッと手を離した。所詮僕は彼女のことをそれくらいのものだとしか捉えていなかった。
「加乃、大丈夫だよな……? まだ、息してるよな……?」
道路に広がった赤い海を渡る。下を向けばそこに映っているのは自分の顔。自分を殺したのはコイツです、と遠回しに彼女に言われているようだった。
「加乃? なあ、聞こえているなら返事をしてくれ。なあ、加乃」
半ば倒れこむように膝をつく。そのまま華奢な彼女の肩を抱くと、今になってシトラスのさわやかな香りが鼻腔をついた。僕がその匂いを堪能するには、ちょっとばかり時間が遅すぎた。
彼女の体は柔らかかった。もしかしたら今夜、僕が触れることになっていたかもしれない柔肌。彼女もそういうことには興味があったみたいだから、多分こっちがリードすればいけていたと思う。そう考えると余計に自分があの時とった行動の説明がつけられなくなってくる。
自分の気持ちと行動の乖離が激しすぎて、頭がパンクしそうになる。僕は今日、彼女を抱くつもりじゃなかったのか。あれだけ好きだった彼女のすべてを手に入れたんだから、思う存分それを楽しむつもりじゃなかったのか。
考えれば考えるほど、思考は迷宮の出口からほど遠いところへ彷徨っていく。
「救急車! 救急車を呼ぶから介抱してくれっ!」
運転手のおじさんがそう叫びながら加乃に近寄ってくる。でも僕はその頼みを断った。だってもう、彼女の体は冷たくなり始めている。
そもそも、いまの僕には介抱なんてしてやれるほど冷静な思考は残っていなかった。
……ナギくん。
「…………っ!?」
幻聴、だろうか。聞こえるはずのない声が聞こえたような気がする。僕は急いで彼女の口元に耳を当てたが、何も聞こえてこない。
いま、僕のことを呼んだのか? 彼女が?
加乃の口は依然として閉じたままだ。
でもさっき、僕のことを呼んだよな? 幻聴なんかじゃないよな?
「加乃、もう一回だけでいいから喋ってくれないか……?」
聞いてみるけれど、もう彼女の声は聞こえない。本当に彼女は死んでしまった。最後に僕の名前を呼んで。何の未練もない安らかな顔をして。
こんな時でも彼女の唇は綺麗で美しくて、つい見とれてしまう。初めて彼女とキスをした日の記憶が掘り起こされて、胸が締め付けられる。このまま彼女と別れてしまうのはとてもじゃないが耐えられない。僕は彼女の小さな顎に手を添えると、ゆっくりと口付けた。
柔らかい唇の感触に脳が侵される。そのまま加乃を構成するすべての要素を自分に取り込みたくて、何度も何度もキスをした。そのたびに息苦しさと激しい痛みが僕を襲う。
「…………っ、はぁ」
口を離すと、僕の頬にそっと優しく手が添えられた。その手は温かくて柔らかくて綺麗で、すっと肌になじんだ。
「……あ、ああ、ああああぁぁぁあああぁ」
自然と涙があふれる。さっきのが僕の幻覚だったとしても、もう一度。泡沫の手を取って自分の頬に押し付ける。その感覚が僕にとってはとても懐かしくて、いとおしくて、かけがえのない――。
「あああああぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁああッ!!!!!!」
――守るべき、ものだった。
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