近づいていく、真実
「……」
全身を貫く冷気に震えながら、犬飼はぼんやりと部屋を見つめる。天井からぶら下がる電球の光輪が、目に優しい。
肌が不自然に湿っていて、犬飼は今自分が寝ている布団の上を見る。氷が飛び散り、その下の床は水浸しだった。お陰でさっきまでの灼熱地獄が嘘のように、身体中が冷え切っている。
「だーめ、まだ動くの禁止」
腰を上げようとして、優しい手に遮られた。ピンク色のラインが入ったキュートなナース服に身を包んだ童顔の女性が、不安気に犬飼を見つめていた。
「……
馴れない敬語で挨拶すると、糸世はうんうんと頷いて犬飼に掛け布団を掛け直す。水を吸った布団の重みが襲ってきて、寒さで鳥肌が立つ。
「これ、誰がやったんすか」
布団の上の氷を指差して訊ねると、「ああ、さっき十成くんが入ってきて、急に氷水ぶっかけてどっか行っちゃった」と関心薄そうに答える。今朝の意趣返しなのは間違いない。
犬飼は、ふと今までの記憶を思い出した。
首筋に
ギリギリまで自分を食い止めていた、雲村とその仲間達。
そして、頓野黄黎──
「……殺したのか」
「ん?」
「俺……まさか殺しちまったのか」
あの時の感触が、確かな記憶としてじわじわと蘇ってくる。
人間の命。それが、まるで卵でも握り潰すように崩れたあの瞬間。
しかし犬飼のそんな不安をよそに、糸世はあっけらかんと答える。
「頓野ちゃんのこと? あの
「え……でも、首」
「もう少し遅れてたら、確かに死んでたねー。まぁ、十成さんが一回殺したお陰で
間延びした声で言い、コーヒーを啜る。
頓野の生存を知っても、しかし犬飼は喜ぶ気にはなれなかった。
暴力で誰かを傷つけた試しは、一度や二度ではない。だが命を奪ったあの感触は、生まれて初めて味わうものだった。
願わくばもう二度と、同じ想いをしたくない。そう思いながら、ベッドから重い腰を起こすと、糸世が慌てる。
「うわっ!? ちょっとストップ、そこまで! まだ目が覚めたばかりなんだから安静にしなさいってばー!」
「……十成に聞かなきゃならねェ事が色々ある」
「だから、すぐに呼んでくるから! もう、どうして男の子ってのはこう無茶を……」
「聞かなきゃならない事って何?」
ドアの方を向くと、いつの間にか立ち聞きしてた十成が腕を組んで立っていた。
犬飼は千鳥足で向かおうとするが、途中でくずおれる。糸世は「だからもー、面倒だなー」と言いながら肩を貸して、またベッドに放り込む。
「ハァ、ハァ……オイ、十成。俺の質問に答えろ。いいな」
「僕からも聞きたい事がある」
「俺が優先に決まってんだろ、クソが……この状況はなんだ。俺はさっきまで何してたんだ」
十成は犬飼の身に起こっていた現象について解説した。
全身から即死レベルの『死の世界』の物質が溢れて、その状態で生きていた事。
聴覚が異様に鋭敏になって、苦しんでいた事。
そして、何故かその苦しみを、『目の前の人間を殺せば治る』と思っていた事。
「……耳か」
「心当たりがあるのか?」
犬飼は未だモヤのかかった記憶の中から、必死にその時の感情を
「そういや……ずっと誰かが囁いてた気がすんな」
「誰か?」
「誰かまでは覚えてねェよ。ただ、『殺せ』って言ってたのは覚えてる。それと……」
犬飼は、それよりも更に前の記憶を
「多分、あん時の感覚に似てんだ。俺がファングに人体実験された時。あん時も、なんかこうグワーって『死』が自分の中に流れ込んでくるっつーか……いや逆かも。生きてるって感じがブワーって」
「どっちなのかハッキリしろ」
「うっせぇな黙ってろカス。とにかく、すげぇ急に生きてんのか死んでんのかわからねぇのが入ってくるんだよ……なんか、自分の中身が抜け落ちて、別のに変わってる感覚」
「その感覚、多分間違ってないよー。かなりの量の『死の世界』の物質が、君の血中から検出された。普通の人間なら致死量のそれらを受け止めながら生きてたって事は、それ相応の生命力──つまり、『死の世界』の物質に対抗する為の免疫力も身についてたってワケ」
糸世の補足説明で、犬飼はやっと腑に落ちる。『死の世界』の物質を受け入れるだけの器を作り出す事こそが、きっとファングの人体実験の目的だったのだろう。
だが、そんなものを産み出して何がしたいのかは、一切の見当がつかない。同じような個体を量産して、悪の秘密結社よろしく兵器にでも転用するのだろうか。
「ともかく、今のでハッキリした事がある」
急に切り出した十成に、犬飼は顔を向ける。
「お前を暴走するよう仕向けた犯人は、宮崎か魔壁だ。僕らが殺されて得をする連中はファング以外にいないし、仮にコレが僕らの居場所を割り出す為のものだとしたら、
「ああ? どういう事だよ」
「お前が化け物になって暴走したのは、岸風と交戦して、ラットパークの隠れ家に逃げた後だ。この状況で、ファングは何がしたいと思う?」
「そりゃ、俺らを探し出してもう一回ぶっ殺しにいくに決まってんだろ……あ?」
「そう。僕らの居場所を探り当てる為に、あちこちに人員を送り、網を張り巡らせる。その状態で、もしも僕らが大きな騒ぎを起こせば、居場所はすぐにバレる」
その大きな騒ぎこそが、犬飼の暴走だとしたら。あくまで推論だが、犬飼は不思議と納得しながら、自然と十成の次の言葉に耳を傾けていた。
「君の聴覚が鋭敏になっていたのは、指示を送る為だ。遠くにいる『君を操っていた誰か』の言葉が、直接耳に届くようにね。そして君はその術中にまんまとハマり、そいつの指示のもと、頓野達に襲いかかった」
「……要するに、場所割る為だけに俺は人を殺しかけたって話かよ。ッハハ、アホくさ」
いざネタバラシをされてしまうと、あまりのくだらなさに失笑してしまう。
「って事はアレか。魔壁はいつだって俺をラジコンみたいに動かして、どこに居るのかも筒抜けって訳か。それで、どうするよ。それがマジなら、俺ら詰みじゃん」
「今こうしてラットパークの隠れ家にいる間だって危険だ。またいつファングが次の手を打ってくるか想定できない以上、僕らは池袋どころか、この国にいる限り逃げ道はない。つまり──」
十成はそれ以上言う必要はないとばかりに、口角を上げる。
逃げる道はない。それは逆に言えば、もう逃げなくてもいいという意味でもある。
何か、二人の間によくない雰囲気が流れてるのを察した糸世は、視点をキョロキョロさせる。
「え……待って、十成さん。もしかして!?」
「明日、僕らはここを引き上げる。ここから先は別行動でやらせてもらうよ」
それだけ言い残して、十成は部屋を出て行った。後ろから抗議の声が聞こえた気がするが、あまり相手にはしなかった。
マンションの廊下を歩きながら、十成は自分にあてがわれた部屋へ向かう。都内でも比較的高級の部類に入るそこは、さっきのアパートよりは過ごしやすそうだ。
リビングを通り、まだ新築の臭いが抜けないベッドルームまで歩く。革ジャンもジーンズも脱がずに布団に背中を放り出すと、一気に全身が疲労を思い出す。
「……抜け落ちる、か」
ぼんやり天井を眺めながらも、どうしても引っ掛かっているあの言葉が、眠るのを許してくれない。
犬飼は暴走してた際の心理状況を振り返って、確かにこう証言していた。
── 自分の中身が抜け落ちて、別のに変わってる感覚。
自分の中身が抜け落ちる。
自分の中に異物が侵入して、意識が乗っ取られる感覚。
それは、十成にも経験のあるものだった。
秘書の
ハンドルを握っている最中に、不意に前後不覚になったかのように放心して、理性が溶かされ、身体が一向に言うことを聞かなくなる、あの感覚。
アレは、まるで他人に自我を侵害され、全てを乗っ取られたかのような感覚、としか言い表しようがない。
「僕は」
何者なんだ? そう言いかけた。
もしも自分が犬飼と同じ人体実験で作られた異能だと仮定すれば……だが、しかし──反証を重ねていく度、どこまでも謎は深まっていくだけだ。
やがて思考するのが面倒になってきた。まだなんの根拠も、物証もないのだ。堂々巡りをする思考を打ち切り、十成はベッドの柔らかさに身を委ねる。
どうせ、ファングは叩けば叩くほどホコリが出る。真実が明らかになるまで、今はただ前に進めばいい。
そう割り切って目を閉じている内に、十成の意識は徐々に薄れていく。
明日への英気を養うべく、今はただ睡眠だけに気を向けて、すぐに意識は途絶えた。
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