犬飼氷実という男
喉が焼けて、乾燥する。
目が乾いて、蒸発する。
鼻が爛れて、炎症する。
耳が燻られ、化膿する。
身体が、ずっと熱に
痛い、熱い、助けて、死にたくない。
もう使い物にならない喉で叫んでみるが、パチパチ鳴る火の音に捩じ伏せられるだけだった。
呼吸ができない。苦しい。なのに……死ねない。
生きてるって、こんなに苦しいのか。
久々に自分の『死の世界』に浸りながら、俺の乾き切った瞳は、黒煙の遥か
そこで──煙の向こうに投影された、俺の記憶を眺める。
初めて、死を覚悟した瞬間に、俺の時間が舞い戻る。
──────────◇◇◇──────────
ファングを退いて、一ヶ月が経過してた。
相変わらず池袋の街は、一歩でも曲がる角を間違えりゃすぐにグレーゾーンが大口開けて待ち構えてやがる。だがそれでも、この街は以前と変わらず平穏だった。
シルバーバレットの大将、
「あーあ、やるコトなくなっちまった」
冬の曇天に吐き捨てて、俺はぶらぶらとアテもなく練り歩く。
居場所なんて、元々なかった。リーダーなんてガラじゃないのは、俺自身が一番よくわかってる。
ただ、あるべき形に戻っただけ。それで納得して、俺は今日も働き口探しに
また、いつものホームレスに焼き芋でも分けて貰おうかと思って、悪臭の立ち込める路地に入り、
気がつくと、空を眺めてた。
「は?」
まず驚いた。
同時に、滑稽すぎて笑いそうになった。
しばらく本気の喧嘩をしないだけで、こんなに鈍感になっちまってるのか。やっぱ習慣を
俺は顔を蹴り上げられて、空を仰ぎながらぶっ倒れた。
顎先が、今まで感じた事がないぐらい痺れてる。殴られるってこんな感触なのか。こんな音が、俺の中からするのか。
倒れたまま視線をやる。俺の周りを囲んでいたのは、ファングとシルバーバレットのガキ共と、シルバーバレットの頭領、
「よぉ、犬飼。今頃はどっか遠くで隠居してると思ってたんだがよぉ……こんなところでホームレス相手に乞食かよ。世知辛い世の中だな、ああ?」
手に持った金属バットで頬をぐりぐりと押しながら、心底愉快そうに笑っている。
自分が今から何をされるのかは、容易に想像がついた。そりゃそうだ。自分トコの仲間が一人殺されて、ただ俺がファングを辞めるだけじゃ納得できねぇ奴らもいる。
今となっては、住所不定無職の、喧嘩しか能のないガキ。そんなの一匹殺したぐらいで、誰も文句は言わねぇ。
そこから先は、暴力の嵐だった。
金属バット。拳。足。釘。剃刀。ペンチ。ハンマー──一人一人が、
俺はただ、喉が
命乞いすらした。本気で殺されると思ったからだ。
一方的に暴力を振るった事はあるが、その逆はなかった。だからこの暴力の嵐が、どこまで続くのか、わからなかった。それが怖くて、ただひたすら死にたくないと叫んでいた。
「そんじゃあ、そろそろ締め括りといこうじゃねぇか」
そう言って森坂は、メッキが剥がれて真っ赤になったバットを目の前で揺らした。
ああ、マジで殺される。そう思い込んでいた。
今ならわかる。アイツらに殺意はない。こんな都会のど真ん中で死体が上がれば大騒ぎだ。そうなれば、警察だって黙っちゃいない。
だが、初めて暴力を一方的に振るわれた俺には、それもわからない。
だから、森坂がバットを大きく天に突き上げた瞬間──もう終わる、と思って。
「待ちやがれ、森坂」
と、ソイツを制したのは、ずっと
森坂はおもちゃを横取りされたように不貞腐れ、舌打ちをする。
「んだよ、岸風。今になって道徳ぶるつもりじゃねェよな?」
「……」
「勘弁しろよ。こいつはお前らの敵だぞ? 誰のせいでファングが泥を被る羽目になったんだ? わかんだろ?」
他の連中もそうだそうだと声を上げ、やがてブーイングが一つのグルーブみたいになる。こいつら、誰も岸風が犯人だなんて思ってねェんだろうな。
だが、その真ん中にいる岸風はそれを意に介さず、森坂の手からバットをふんだくって、一言。
「ああ、その通りだ。だから俺にやらせろ」
岸風のその宣言が、一瞬皆を黙らせた。数秒後に、より大きな
森坂も全くの予想外だったんだろうか。「は?」と顔をマヌケに強張らせたが、すぐに吹き出した。
「ハハハハッ……!! ああ、そうだったな。いいぜ岸風。元弟分として、ちゃんと兄貴を
特になんの疑問も抱かなかった森坂は、潔く下がる。
必然、岸風は俺と真正面から向かい合う。
「……フッ」
何故か、俺はその時笑ってた。
なんで笑ったのか、未だに思い出せない。
ただ、多分俺は吹っ切れたんだと思う。
岸風に殺されるなら、それもいい。
名前も知らないクズに殺されるぐらいなら、仲間に殺された方がまだ甲斐があるってモンだと割り切って……俺は目を閉じた。
死ぬ訳ないのに、マヌケにも死ぬ覚悟を決めた俺を見下ろしていた顔。
いつも通りの
バットを振り下ろす前。最後に呟いた言葉だけが、今でも鼓膜にこべりついている。
「すみません、兄貴」
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