モンスター



 天井を突き破ったソレは、先端が手のような形をした触手だった。

 赤黒い不吉な色彩のソレは、大穴の空いた天井を這い回り、根を張った植物のように壁という壁にこべりつく。

 どんな異能なのかは、頓野にも見当がつかない。だがその触手を構成する物質は知っている。

『死の世界』の物質。人間を否応なく死へと誘惑するソレが、まるで意思を持った動物のような挙動で、古びたこのアパートごと喰らい尽くさんばかりに覆い尽くす。


「雲村くん。十成ちゃんに連絡して。私、こいつを食い止めとくから」


「異能じゃない俺がいると足手まといだね。オーケイ、任せた」


 雲村はそそくさと逃げ、部屋の中で犬飼と頓野が対峙する。

 頓野はすぐに、かつてエリート外科医がかけていた眼鏡を装着して、犬飼の身体を分析する。


「アアア、ウウウ……?」


 犬飼──らしき化け物は、蛇のように首をもたげながら、瞳孔の開いた瞳で睨む。真っ二つに割れた腕は、いつの間にか元通りになっていた。

 まず目についたのは、全身を汚染する死の気配。そして、それを上回る生命力だった。

『死の世界』の物質を操る異能そのものは、そこまで珍しくはない。しかしこれだけの量の物質を操れる異能は、この世に存在しない。普通の人間がこれだけのモノをその身に宿せば、まず間違いなく即死である。

 つまり──これは最早、人のわざを越えている。


「これが人体実験の成果……? 冗談じゃないわよ。こんなの人間じゃない」


 頓野は眼鏡を外して、また別のものを装着する。

 軍人が射撃訓練の際に使用する、防弾も兼ねたサングラス。つけた途端、全身の、今まで使う機会のなかった神経が研ぎ澄まされ、別世界が頓野の中に広がる。

 動体視力と、射撃の命中精度を著しく向上させるこのサングラスは、同時に体力を前借りするように浪費していき、能力解除時に強い反動フィードバックが生じる。

 だが、今は未知のモンスターが相手だ。うれいてる場合じゃない。


「犬飼君、意識ある? 私の事わかる?」


 念の為に声かけしてみると、犬飼は目を見開いて、


「あああああ……!? アアア、ウウウ……うるさ、いいいぃ……!!」


 と、笑いながら苦しみを訴えた。

 あまりの異様さに息を呑んだ。一歩後退すると、犬飼は二歩進んで更に距離を縮める。

 ガキガキと関節を鳴らしながら、顔に走った青筋が赤黒く膨れ上がる。


「うるさ、いいいぃぃ、ぃぃ……くる、しいいぃ……!!」


 いつの間にか頓野は壁際まで追い込まれた。

 うめき、叫び、わめきながら……犬飼はカチリ、と電池の切れたように止まり──


「オマエ、ころせば、なおるうううぅ……!!」


 右手に赤黒い触手をまとった次の瞬間、頓野の頬をかすめて、何かが通過した。


「──ッッッ!?」


 息を呑む声さえ、掻き消される。

 頬が熱い。ショートヘアの先端が炙られて、プスプスと煙を立てている。すぐ真横に空いた穴は木を巻き込んで燃え広がり、外の長閑のどかな住宅街が丸見えだ。

 犬飼の異能、『KOMBATコンバット』。炎と氷を意のままにに操る、単純明快な能力。

 だがその威力たるや、もはや異能の域を超えている。

 もしこの一撃が顔面に命中していれば、彼女の頭は間違いなく一瞬で溶け、跡形もなく消えていた。


「あああ、アアああぁぁァァ……!?」


 左腕を構えて、第二撃を放とうとする。

 つかさず頓野は犬飼の両脚の間をスライディングで通り抜けて、彼の背後に回る。

 犬飼は反応が出遅れ、振り向こうとする。

 頓野は立ち上がりざまに、躊躇ちゅうちょなく回し蹴りを叩き込んだ。

 頸椎けいついに、素足がめり込む。だがそれでも犬飼はびくりともせず、むしろ首から這い出た赤黒い触手が、彼女の右脚を即座に締め上げた。


「うわっ、今の一撃が効かないって嘘でしょ!?」


 意表をいた不意打ちですら怯まず、それどころか対処してくる犬飼に気圧された頓野は、片足立ちのまま身動きが取れない。

 犬飼の首から伸びた触手は、そのまま握力を強めて、彼女の脚を握り潰そうとする。


「ああもう、ほんっと、舐めんな、このっ……!!」


 頓野は首を蹴った時、丁度かかとが犬飼の肩に乗っていたのを利用して、左脚だけで飛び跳ねる。

 そのまま、犬飼の首に巻きつき、太腿ふとももで喉を圧迫した。


「ンングッ……!?」


 気道を塞がれ、犬飼は思うように息ができなくなる。どれほど異常な破壊力を持ったモンスターだろうと、呼吸ができないのでは、無力も同然だ。

 徐々に犬飼が脱力し、足首にしがみつく触手も弱っていく。

 それを好奇と見極めた頓野は、そのまま絞め落として意識を奪おうとする。この機を逃せば次はないと、焦りが先走った。


「アアアアアアアアァァァァ!!」


 咆哮。犬飼は手から氷柱つららを精製し、それを頓野の太腿に突き刺した。


「あああぁっ……!?」


 鋭い先端が、筋肉を容易たやすく貫通し、その奥にある大腿骨だいたいこつまで達する。

 そのまま、ぐりぐりと動かされる。筋肉と神経が引き裂かれ、頓野はたちまち脚を離して床に転げ落ちる。


「ああっ、痛い、はぁ、はぁ……ほんっとに、アンタ……!」


 畳を赤く染めながら、激痛にのたうち回る。それでも顔だけは犬飼を向いたままだ。

 壁に空いた穴から拡がった火の手は、いつの間にか大きくなっていた。犬飼はそれを面白そうに眺めて、更に両手から火を放射し、部屋中をもれなく焼き尽くす。木が焼け落ち、落下する音が隣室からも聞こえる。


「ハァ、ハァ……」


 今度は頓野の意識も朦朧もうろうとしてきた。空気を満たす一酸化炭素と二酸化炭素が、彼女の呼吸を蝕む。出血で、鉄分が足りなくなっていき、気分が悪くなる。

 このままでは犬飼に殺されるか、その前に失血死、窒息死するかだ。絶望の三択に、しかし希望の四択目は中々見出せない。

 見渡すと、人影や叫び、肉や髪の毛の焼ける独特の臭気もない。どうやら雲村や真龍まろん達は全員逃げ切れたようだ。後は自分と、犬飼だけ。


「あああ、ァァァァ……ウルさいぃ、うるさいいぃぃぃ!!」


 炎がやかましいのか、何度も炎に向けて氷のつぶてをぶつけたり、冷却して消火したりを繰り返すが、今更拡がった火の手は収まらない。このまま全焼するまで、燃え続けるしかない。

 いよいよ、頓野も意識が怪しくなってきた。寒暖の感覚も薄れて、頭の中にあの世からの調べが流れる。

 そして意識が落ちようとするその時。


 ────────────!!


 不愉快な音響が、眠りかけた頓野を叩き起こした。

 聞いた事のない、人の不安を煽るような騒音だった。それはアパートの中に留まらず──否、違う。そもそも音自体、外から聴こえている。


「ッッ……アアアアああぁアアあぁァァァァ!?」


 死に際の人間ですら叩き起こすほどの大音量を、聴覚が敏感になっているらしい犬飼が耐えられる筈もない。頭を抱えながらジタバタと暴れ、四方八方に触手を伸ばし、部屋中に八つ当たりする。


「……PERペル……SONAソナ


 コートの内ポケットから、かつて海上自衛隊員がつけていたサングラスを取り、顔に押し付ける。『激痛への耐性』がついたお陰で意識は少しだけマシになり、すぐにストッキングを脱いで、患部に巻きつけ、止血する。

 脚の調子を確認しつつ、気合いで立ち上がる。そのまま苦悶する犬飼を尻目に、頓野はまだ火の手が辛うじて回っていない入り口へと、足を引きずりながら進む。


 歩きながら、頓野はようやく騒音の正体に思い至る。

 国民保護サイレン。他国からの核ミサイル攻撃や大災害等、国家に未曾有の危機が迫ってようやく発せされる、緊急の警報。

 不愉快なのも、うるさいのも道理である。こんな音を街中で鳴らせば、熟睡中の老人でさえ一発で目が覚める。

 しかし、一体何があったのか……そこまで考える余裕はなく、頓野はドアノブに震える手をかける。


「……ころせば、なおるううぅぅ!!」


 犬飼は触手を伸ばし、頓野の首に巻きつけてきた。


「んんっ………!?」


 負傷した脚で抵抗できるはずもなく、そのまま部屋の真ん中まで引きり戻される。途中でガラス片やささくれにぶつかり、一瞬で腕が切り傷まみれになる。

 触手が全身に巻きつき、犬飼の眼前に生贄のようにぶら下げられる。


「オマエ、ころせば……なお、るぅぅ……そう、!!」


「言っ……!? んぐっ!」


 思わず問いただそうとして、喉を絞められる。

 。つまり誰かから命令された──そこで思考が途切れる。呼吸が止まり、酸欠になり、視界が灰色にぼやける。

 一度は逃げ切ったものの、二度目はないだろう。そう諦念を懐きながら、首を染める力は強まる。

 そして、ゴキリ、と鈍い音を耳にした時には、頓野の意識は闇の中へと消えた。

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