繋がる点と点
大股歩きで岸風の前から消えた少女は、真っ直ぐ家に帰らず、ただ
街の中にある熱気──というよりは、冷たい隙間風のような殺気、と呼ぶべきだろうか。とにかくそれが肌に痛い。いつも通りに見える池袋の街が、どこか物々しさを醸し出しているのは、単なる気のせいには思えなかった。
まだ、時折誰かに後を追われているような感覚がある。他人の視線が、
兄には、何も打ち明けなかった。兄は、自分がファングの幹部である事実を隠している。だから自分も、それを知ってる事を隠さないと、なんだか一方的でフェアじゃない気がしていた。
「嘘つき」
小声で自虐して、路肩の石を蹴っ飛ばした。コロコロと小気味よく転がりながら、側溝に落ち、虚しい音が鳴る。
フェアじゃないなんて、ただ自分を欺く為だけの
自分の心配は、あまりしていない。自分の身に何が起ころうと、自分の責任だ。
だが、兄は違う。
── 俺の知り合いが、近々この街でかなりヤバい事が起こるっつってんだ。多分、半グレが動き出すとかなんとか。
その言葉に、嘘っぽさはなかった。
言わずもがな、ファングを中心とした事件なのだろう。そして岸風は、今はファングの中枢にいる。ファングが何か悪事を仕掛けるとして、岸風はきっと無関係でも無責任でもいられない。
「あ……」
不安の芽を踏み潰すように、ただ池袋の街を歩いて、歩いて、歩き回って──気がつけば、彼女は西池袋の二丁目に立っていた。
駅からも近い都会のど真ん中なのに、どこか喧騒から切り離された閑静な雰囲気が好きだった。ちょっと離れたからといって治安が特別いい訳じゃないのに、ここに立ってると何故か落ち着ける。
足は勝手に進み、小さなビルの前に立つ。陽の光で色褪せたポスターと、窓に張り出された文字。
「なんの用?」
急に背後から声をかけられ、思わずハッとした。少女は
特にそれには言及せず、突然現れた男──十成綾我は、担当直入に突きつける。
「
そう言われて、美春──隣人倶楽部の常連の女子高生であり、以前ファングの構成員に尾行されていた少女は、ずっと秘密にしてた本名を言い当てられて顔を強張らせた。
だが十成は、そんな彼女を責めも慰めもせず、自分の事務所の入り口を親指で指す。
「話は中で聞くよ。ここじゃ寒い」
「え……? あ、はい」
有無を言わせない圧力を感じて、彼女は
十成はドアノブに一瞬だけ
お茶請けと緑茶をすぐに用意して、十成は自販機で買ったコーヒーを流し込む。
不意に美春は椅子から立ち上がり、ガバッと頭を下げた。
「本当にごめんなさい……! 騙すつもりはなかったんです。ただ、お兄ちゃん……私の兄が、たまにこの事務所にお邪魔してるのを見かけて、それで、普段兄はどんな人と接してるんだろうって気になって、それで」
「いや、立ち聞きしてた僕の方が悪いよ。ごめん」
フォローしながら、十成は美春が岸風誦の妹である事実が何を意味しているのかを考えた。
そもそも美春は、兄の岸風誦がここに通っているの発見し、釣られるように隣人倶楽部の常連となった。当然ながら、岸風本人は知る
問題は、彼女がファングに尾行されていたという一点に絞られる。あの時、十成と犬飼を引き離す為に美春を狙ったのが、単なる偶然とは思えない。
「あ、あの、十成さん」
美春は黙考する十成の顔を覗き込む。十成はコーヒーカップを置いて、客ウケのいい笑顔を貼りつける。
「ごめん、考え事。それで、何か話したい事があるんでしょ?」
努めて明るく振る舞ってみたものの、美春の反応は芳しくない。無理強いするつもりはないが、十成としても彼女がどこまでファングの謎に足を踏み込んでしまっているのか、隣人として不安だった。美春の口も、今か今かと話すタイミングを伺っているが、どうしても言葉が出てこない。
「ご、ごめんなさい、
「以前、君をストーキングしてた男。彼はファングの構成員だった」
美春は息を飲み、十成を見上げる。しかしその表情に動揺はあっても、驚愕はない。薄々、勘付いていたようだ。
「全部を打ち明ける必要はない。けど、君が兄、岸風誦についてどこまで知っているのか、それだけでも教えて欲しい」
美春はしばらくの沈黙の後、お茶請けに入ったどら焼きの袋を解き、ゆっくりと嚥下しながら話し始める。
「
「いつもはすぐ帰ってくるのに、その日は何日も帰ってこなかったんです。心配だからこの辺の繁華街とか、探して回ってたんです。そしたら、ギンッギラの金髪で! 眉毛剃って! ピアスもバッチバチに開けた見たことないお兄ちゃんが路上でたむろしてて! 私、あんな真面目だったお兄ちゃんが思いっきりヤンキーファッションしてるのが面白くって、すごく笑っちゃって」
「……岸風誦も君に敵わないだろうね」
どうも天真爛漫というより、無邪気さが度を越している印象を美春からは受ける。ここまで天然な妹を持てば、岸風も心配になるだろう。
美春は二つ目のどら焼きには手を出さず、ゆっくりとお茶を啜る。
「ずずっ……それ以来、ずっとお兄ちゃんに家に帰るよう説得してるんです。あんまり心配はしてませんでした。たまに喧嘩でもしたのか、ちょっと怪我してる時もあるんですけど、ホラ、お兄ちゃん喧嘩強いじゃないですか」
「……そうだね」
「はい、だからこれまではただ、お兄ちゃんがいつか帰ってくるって信じて、私はちょくちょくお兄ちゃんと会いながら、その日を待てばいいって思ってたんです。けど……」
再び美春の晴れやかな顔色が曇る。
「最近になって、なんだかお兄ちゃんの様子がヘンなんです。私が以前、その……ちょっと怖い人と揉めた時に兄が仲裁してくれたんですけど、それ以来、ずっと思い詰めたような顔してて。今まであんな顔、見たことなくて、私どうしたらいいのかわからなくなって」
ちょっと怖い人と揉めた時とは、言うまでもなくシルバーバレットの構成員にレイプされかけて、その構成員が殺された事件の話だろう。しかし、彼女は岸風が殺した事は知らないみたいだ。
美春はまた言葉に詰まり、間を誤魔化すように二つ目のどら焼きを取り、ゆっくり噛んで食べる。それで覚悟が決まったのか、彼女は更に深く、切り込んできた。
「私、隣人倶楽部がただの探偵事務所じゃないって、なんとなくわかってました。この間、この事務所の前にヤンキーっぽい人達がたむろしたり、無理に中に入ろうとしてたりで、ひょっとしてそういう人達から恨まれるような仕事してるのかなって……」
十成は肯定も否定もせず、ただ頷いて先を促す。美春はそれに後押しされたように、今度は真正面から十成を睨む。
「十成さん。お願いです……もし、もしも可能でしたら、私の兄を、守ってくれませんか」
美春は涙目になりそうなのを
「お兄ちゃん、ああ見えて臆病なんです。街がどんどんヘンになっていって、きっと一番怖いのは、ずっと一人で戦ってるお兄ちゃんなんです。だから……私でできる事なら、なんでも手伝いますから、だから……」
額を机に押し付けんばかりに身を屈めて、家族の命を保障して欲しいと懇願する。先刻までの底抜けた明るさは、ある意味で彼女の心の鎧だったのだと納得しながら、十成は空っぽになったコーヒーカップを机に戻して、
「今、百円持ってる?」
と、今思いついたような口振りで訊ねる。
美春は、あまりにも場違いな問いに、何を言っているのかわからず、沈黙してしまう。
「百円。丁度コーヒーがなくなっちゃったし、そこの自販機で買おうと思って」
もう一度言われて、美春は疑問を拭えないながらも、百円を慌てて財布から引っ張り、十成に手渡す。
十成は満足気にそれを受け取ると、見せつけるようにその小銭を机の上に押し付け、告げる。
「これで今から、君は僕の依頼人だ。結果は約束できないけど、岸風の命をこの街の脅威から守れるよう、最善は尽くす。君の安全も保証する。ここでの話も、他言はしない」
それは契約の締結を示す宣誓だった。
たった百円で、依頼を受ける。そう告げられて、美春はますます困惑した。
「……いいんですか?」
喜ぶべきなのか、跳ね
十成は何食わぬ顔で頷き、百円をポケットに忍ばせる。
「丁度、岸風の知り合いからも同じような依頼を請けたばかりでね。そっちで依頼料の元は取れる。心配しなくていいよ」
「そ、そうじゃなくて、その……それでも本当にいいんですか? たったの百円で」
「
優しく微笑み、いつも通りに空になったお茶を注ぐ。
いつもの雑談や、お悩み相談の時と同じ空気、同じ態度。ただそれだけなのに、美春の胸中に暖かいものが溢れかえる。
「ほんとうに、ごめん、なさい……ありがとうございます」
いつも通りの対応をされただけなのに泣いてしまう自分が恥ずかしくて、真っ赤な顔をカーディガンの袖で覆い隠す。それでも止まらず、
「ちょっと外の空気吸ってくる。しばらく
美春が泣き止むまで、少し部屋を離れようと思った。
彼女は笑顔で頷き、十成も笑顔で返しながら、一旦事務所のドアを開けようとして──すぐに、スマホに着信が入った。
非通知設定。トバシの携帯をいつくか持っている暁夜か、雲村かのどちらかだろう。通話ボタンを押して耳に当てると、雲村の低い声が耳に届いた。
「もしもし?」
『十成さん、今すぐにカムバック!! 今ちょっと犬飼が……ああ、クソっ!』
電話越しに聞こえる異音。
木材が
これは──炎と、氷の音。
「……まさか」
『とにかくビジー! あああッ!?』
断末魔のような声を最後に、通話は断ち切られた。
十成の全身に、恐怖が絡みつく。冷や汗が一筋、頬を伝った。
「……やられた」
美春が不思議そうに見上げる。汗を拭いながら、十成はスマホをポケットに乱暴に突っ込み、事務所を飛び出す。
「と、十成さん!?」
「ごめん、急いで帰ってて! 急用ができた!」
呼び止める声も無視して、事務所の駐輪場に置いたバイクにイグニッションキーを挿して跨り、ヘルメットもつけずに一気に加速した。
全身を吹き付ける冷気に身を削りながら、一心不乱にエンジンを吹かせ、その姿はすぐに住宅街から消え去った。
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