あの日


 岸風と過ごす日々は、犬飼にとっては新鮮そのものだった。

 自分の人生の中で、友達らしい友達も、仲間らしい仲間もいなかった。そんなものは中学で止まっている。犬飼氷実の中の時間は、父親を半殺しにした日から一秒も針が進んでいない。

 岸風や、その仲間達に「兄貴」「氷実の兄ちゃん」と慕われるまでには、そう時間はかからなかった。跳ね除けようと思えばやれたのに、初めて受ける尊敬の念への対処法がわからず、ただなし崩し的に受け入れる他なかった。

 牙を抜かれた獣は、こんな気分なんだろう。そう思いながら、初めての舎弟達に喧嘩での勝ち方や逃げ方を教えて、逆に舎弟からは、それ以外の何もかもを教わった。

 人との接し方。仲間の作り方。他人の気持ちの慮り方。笑い方。泣き方。怒り方。

 集団の中で生きる人間が当たり前のように身につける処世術や感情を、犬飼は一歩遅れて学んだ。それでも、弟分達は犬飼を軽蔑せず、むしろ面白がってくれた。それもなんだか面映おもはゆかった。

 弟分の喧嘩に駆り出されては、それを鎮める日々を繰り返した。やがて、拳に頼らず仲裁する術も覚え、弟分が増えるにつれ、それぞれの対応をちゃんと考えたり、積極的に面倒を見るようになった。

 やがて、犬飼と岸風達が率いる『臥龍独尊』──改め『ファング』は、池袋内で大きなネットワークを形成するようになった。

 抗争の火種になりうる危険なギャングを先手を打って叩きのめしたり、冷戦中のカラーギャング同士の間に、第三者として仲裁に入ったりなどをして、東京の裏と表を隔てるグレーゾーン。その境界線に張られたセーフティネットとして、『ファング』は静かに、着実にグレーゾーンの社会を牛耳っていく。

 だからこそ、その情報はいち早く犬飼の耳に届いた。

 

「……なんでこっちの縄張りでシルバーバレットの連中が殺されてんだよ」


 電話越しに、当時ファングの情報担当だった雲村から告げられた。

 ファングにも、敵対するカラーギャングはいる。

 銀の弾丸シルバーバレット──当時池袋内でファングと勢力を二分させていた組織であり、様々な抗争の火種を抱えていた、カラーギャング界隈の火薬庫とも言える武闘派集団だった。

 ファングはこれまで仲裁という形で、シルバーバレットのけしかけた抗争を未然に防いでいた。それ故に、シルバーバレットにとっては目の敵なのだ。

 そのシルバーバレットの構成員が、ファングの仲間が取り仕切るバーの裏手で、死体として発見された。


『犬飼の兄貴、こりゃソー、ビジーに解決しなきゃならない。間違いなく、シルバーバレットとファングの全面戦争を煽ろうとしてる奴の差し向けた罠だ』


「どこのどいつが得すんだよ、俺らを煽って」


『今色々と調べてる……けど、先に言っておこう。少なくともこの殺人そのものは、俺らの身内がやった可能性が高い。ここのバーをファングがケツ持ってるって知ってる人間は、限られてる』


「……ファングの中に裏切り者が居るってか」


『あくまでポシビリティー、可能性の話さ。けど、注意した方がいい。俺も出来るだけ時間稼ぎはするが、警察も動いた以上、いつまでも情報は隠匿できない。そっちもシルバーバレットのボスとどう交渉するか、台本を練っておいた方がいいね』


「腹くくれってか……マジだりぃ」


『それはお互い様。じゃ、グッバイ』


 電話が切れ、犬飼は公園のベンチで頭を掻きむしった。

 字面だけ見れば、雲村は余裕そうだが、電話越しでも声のトーンに弱音が紛れ込んでいるのが、痛いほど伝わってきた。

 シルバーバレットの頭領である森坂羊三もりさかようみから連絡が入ったのは、すぐ翌日だった。犬飼は『原因をこっちでも探っている』で無理矢理押し切り、情報を調べ続けた。

 その日、ある一報が犬飼の耳に入り、彼は臨時で岸風を呼び出した。

 サンシャインビルの中にある、完全予約制、全個室の焼肉専門店。そこで犬飼と岸風は二人、一対一サシで向かい合っていた。


「……急に呼び出してなんですか。兄貴」


 声がやけに狼狽うろたえている。唐突に呼ばれて動揺してるだけには思えなかった。

 犬飼は、静かに岸風の前にスマホを横たえて、動画を再生した。


「全部正直に言え。ここでの対話はオフレコだ」


 流れる映像を眺めて、岸風は何も言えなかった。

 雲村がハッキングした監視カメラ映像に収められていたのは、岸風が暴漢に襲われかけた女性を助け、その暴漢を、怒りのままにただ一方的に蹂躙じゅうりんする一部始終だった。

 襲われた相手、そして場所は、言うまでもなかった。


「……どうしようもなかったんです」


「ああ、確かにな。女が犯されそうになったのを助けたまでは真っ当だ。だが──


「妹なんです。俺の」


 その一言で、続く犬飼の言葉は断ち切られた。

 返す言葉が見当たらなくなった犬飼に替わって、岸風は饒舌じょうぜつに語る。早く吐き出して楽になりたいとばかりにまくしたてる。


「俺がグレて家から勘当されても、ずっと俺のこと心配して、いつもメールくれたり、仕送りなんかもしてくれた妹なんです。それがこの間、一度話がしたいって」


「それで……会いに行ったらシルバーバレットの構成員が手ェ出してたって所か」


「相手がシルバーバレットだって知ってたら、俺もここまでしなかったっす。けど妹が目の前で服を剥ぎ取られて、口に布まで詰められて……そんなの目の前で見せられちゃ、理性なんかフッ飛びますよ」


 映像には、怒り狂った岸風の凶行が収められている。暴漢の顔を歪むまで殴り、睾丸こうがんが潰れるのではないかとばかりに蹴り続け、見るに見かねた妹に止められる形でようやくその暴力は止まった。そのまま岸風は、まだ恐怖で足腰を震わせた妹の肩を持ちながら、現場を去っていった。


「それで、殺しちまったのか」


「殺した……そうなんすかね? まともに覚えていません。ただ、手加減だけはしなかったのは確かです」


 岸風は涙目で懺悔を終えると、座敷の上で頭を床に擦り付けた。


「本当に、本当にすみません! 俺、警察サツに出頭します! 全部俺一人の責任ですから、これ以上、皆の迷惑には──


「お前一人自首して何も変わんねぇよ」


 犬飼が冷淡に告げた言葉を、岸風は絶望の眼差しで受け止めていた。

 シルバーバレットのボスは、これをきっかけに宣戦布告してきてもおかしくはない。動機や状況なんて関係ない。『ファングがシルバーバレットのメンバーを殺した』という事実は、それだけで導火線に火をつけるには充分すぎる理由だ。その後はもう、目も当てられない惨劇が巻き起こるだけだ。


「じゃあ俺、どうすれば」


 岸風は蒼白の顔のまま、項垂れたままだった。運ばれた料理に口をつけた時も、変わらず何もない虚空を見据えたままだった。

 犬飼はこんがり焼いた肉を噛みながら、脳を死に物狂いで働かせて、どうすれば戦争は回避できるかだけに思考を費やした。

 雲村は警察が介入した以上、隠蔽はできないと告げた。監視カメラそのものの映像は細工できるかもしれないが、死体についた指紋や血痕で、簡単に犯人は特定される。当然そうなれば、全面衝突は免れない。

 ──それならば。と、犬飼はなんの躊躇ためらいもなく、頭に思い浮かんだ案を口にした。


「おい、岸風」


 岸風は虚な瞳のまま、「……はい」と、魂の抜け落ちた返事をした。



「…………は?」


 だが、その意味不明な一言で、岸風は再び顔を上げた。目前には、さっきまでも変わらない、いつも通りの犬飼の姿があった。

 だからこそ、その言葉の含みが、すぐには理解できなかった。


「そいつは俺が殺した事にする。そうすりゃ、シルバーバレットとの戦争は避けられんだろ」


「ちょ、ちょっと待ってください、兄貴、なに変なコト言ってるんすか。犬飼の兄貴が殺した事にするって……それじゃあ」


「行きずりで喧嘩ふっかけられて、つい頭に来てボコしたら殺しちまった──こんな所か。ま、台本は後で雲村に考えてもらうとして……」


「それだけは勘弁してください!!」


 気がつけば、岸風は犬飼の両肩を鷲掴みにしていた。

 自分の不始末で、自分が罰せられるのはいい。殺されたって文句は言えない。

 だが、その罪を何故、ファングの頭領トップである犬飼が全て濡れ衣として背負わなければならないのか。組織のトップが、敵対組織の構成員を殺した。それでは火種は消えるどころか、より燃え上がる一方だ。


「兄貴、それだけは駄目です……! 俺の殺しの責任を、どうして兄貴が!? そ、そもそも兄貴がやったって事になったら、それこそタダじゃ済まないっすよ!!」


「逆だよ、岸風」


「逆?」


「ああ、今シルバーバレットのボスが欲しいのは誰のクビだ? お前じゃねぇ、俺だ。アイツらが戦争を躊躇ためらうぐらいの対価ってなると、後はもうそれしかねェだろ?」


 犬飼の説明を何度も噛み砕いて、それでようやく犬飼の妥協案の意味がわかった。

 仮にこれを岸風の責任にして、彼をクビにしたところで、シルバーバレット側の怒りは治らない。こんな小僧一人を除名したところで、ケジメとしては不十分すぎる。

 だが、ファングのリーダーである犬飼が全責任を負ってその座を降りるとなれば、話は変わる。どっちもファングがシルバーバレットに弓を引いた事実に変わりはないが、犬飼の失落でファングが弱体化するなら、彼らにとっても悪い話じゃない。

 それでも、岸風にはまだ納得いかない点があった。


「でも、それじゃあ兄貴が殺した事にしなくてもいいじゃないですか。俺が殺して、兄貴がその責任を負うって形にも……」


「お前が殺したって認めてみろ。シルバーバレットはお前を見つけて、人間なんて呼べねぇ肉塊にしちまう。アイツら手段選ばなねぇぞ、お前の妹も100%狙われる」


 犬飼は、相変わらず焼肉を美味そうに口に放り込んでいく。

 己が思慮の浅さに、背筋に悪寒が走った。妹を護る為に殺したのに、自分が責任の一端でも被れば、妹すら生きていけなくなるのだ。

 家族を守り、同時にファングとシルバーバレットの全面戦争を先送りにさせるには、今はもう、それしか手の打ち用がない。それでもどうにかできないかと、岸風は言葉を探す。


「……犬飼の兄貴にだって、護るべき家族がいるんじゃないんですか」


 足りない知恵を絞り、ようやく出てきた説得がそれだった。

 だが、犬飼は鼻で笑い、一蹴する。


「んなモンいねぇよ、バーカ」


「え?」


「家族なんていねぇ。お前と違って、俺には失うモノがねぇ。ファング以外はな」


 言い切られて、今度こそ岸風は轟沈した。

 犬飼は変わらないペースで最後の肉を食べ、伝票を手に会計へと向かう途中で──硬直したままの岸風に背を向けたまま、呼びかけた。


「なぁ、岸風」


「……なんですか?」


「俺が責任負ったとして、それでも連中が喧嘩ふっかけてくる可能性はゼロじゃねぇ。その辺の面倒ごとは頼むぜ」


 面倒ごとを頼む、その一言が何を意味しているのかは、犬飼と長い間一緒に過ごした岸風にはすぐにわかった。


岸風誦きしかぜよみ──ファングのリーダーはお前に任せる。無理だとか、器じゃねぇとか、甘ったれた口叩くんじゃねぇぞ。それが今の自分テメェにできる唯一のあがないだ」


 犬飼は耳にぶら下げた、牙の形をしたピアスを外し、卓上に置いた。

 岸風が呼び止めようとした頃には、犬飼は嵐のように消えていった。

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