向けられる怒り


 時間は、十成が襲撃される数分前までさかのぼる。


「ここ、よく来るんだ?」


「うん」


「どうして?」


「……寂しいから」


 少女は目線を逸らしながら、呟いた。

 頓野は少女と二人で階段を上がりながら、彼女の興味をこっちに向けさせるべく、気さくに話しかけていた。

 流石にそう易々と心を開いてはくれないが、しっかりと頓野の話は聞いてくれている。ピエロのお面のお陰で、そこまで嫌われてはいないのだろう。


「そうなんだ。お父さんとお母さんは?」


「きらい」


 即答だった。何か嫌な思い出があるのか、露骨にそっぽを向いて頬を膨らませる。


「ごめんごめん。ヤなこと聞いちゃったね」


「……ううん、いいよ」


「ありがと。ごめんごめん、私ばかり話しちゃったね。あなたは何か……」


「あなたじゃなくて、まろん」


「まろん?」


「うん、まろん」


 まろんと名乗った少女は、まるでそれ自体がお近づきの印とでも言うようにニカっと笑う。今までで一番屈託のない、快活な笑みだった。


「まろんちゃんって言うんだ。なんて書くの?」


「真っすぐに、りゅうって書いて、真龍まろん


 女の子にしては随分といかつい名前。即答するぐらいには嫌いな両親。薄汚れたワンピースの裾から垣間見える傷。家庭環境は、想像にかたくない。

 しかしこの年齢で両親をハッキリ嫌いと言えるのは、かなり精神的に自立していると言える。被虐待児の多くは、家庭での親からの仕打ちを、苦しみ、憎みながらもどこかで『当たり前』だと受け入れてしまい、相応の年齢になるまではそれを疑問視できない子供も多い。

 つまり真龍には──両親の過ちを教えてくれた第三者が側にいるという事になる。


真龍まろんちゃんはさ、ここがどういう場所か知ってるの?」


「お姉ちゃん、知らないの?」


「うん、全然」


「じゃあ、なんで?」


「私、こういう建物が好きでさ。狭くて落ち着くから、よく巡ってるんだ」


 狭い場所が好きというのは嘘ではない。真龍も特に疑わなかったのか、少し悩むような可愛らしい仕草をして「……内緒だよ? お姉ちゃん」と真顔になり、秘密を暴露した。


「ここね、どこにも行く場所がない人たちが住んでるの。どうしてもここじゃなきゃダメって人が」


「うんうん」


「私もそうなの。お父さんとお母さんに変なところ連れてかれて……よくわかんないけど、とにかくころれるって思ったから、にげたんだけど、ダメだった」


 歩く度、真龍の瞳が徐々に潤んでいく。先導しながら、頓野の掌をぎゅっと掴んだ。

 細い指の、儚い握力。それが痛々しく指に馴染む。


「すごくいたかった。こわかった。でも、それよりも、かなしかった。今までは、助けてって言ったら、だれか来てくれたのに、だれも来てくれなかった。お父さんもお母さんも、みんなみんな、私のことわすれたんだって思って、すごくかなしかった」


 気づけば真龍は立ち止まって、その場にうずくまっていた。白いコンクリートの床に、黒く大きな染みがボタボタと増えていく。


「だから……にげようって思った。だれか助けてくれるって思って、にげた。にげてにげてにげて……ここに来た」


 頓野は真龍と同じ目線になるようしゃがみ、ヒクヒクと引き攣る背中を優しく撫ぜる。背中に見える青痣を刺激しないように、小鳥を愛でるような手つきで。


「……ここは、真龍ちゃんみたいに行き場のない子達が集まって暮らしてるの?」


 真龍は腫れた顔をこくこくと振った。

 頓野は背中を撫でる手を頭に回して、その胸に抱き締める。赤いコートが、真龍のなみだを静かに受け止めた。

 心から少女の苦悩を労わる反面、理性は冷酷に現状を整理し、分析する。

 都内のど真ん中にある、はぐれ者達の拠り所。ここに誘拐されたという、安城敏郎あんじょうとしろう。人を寄せ付けない臭気によって守られているこの空間に人を集めて、何をやるのか。

 一つ思い浮かぶのは、ファングによる危険ドラッグ、AWAKEアウェイクを用いた人体実験。

 AWAKEを摂取した人間は、徐々に内臓が黒く変色し死んでいく。しかしその中には、能力を発現させて生き返る人物が一定数居ると言われている。

 以前より不思議だった。吸ったら高確率で死ぬようなドラッグを、どうしてそう簡単に流通させられるのか。きっとファングは、邪魔者には『致死率の高いAWAKE』を無理矢理吸飲させて殺害し、仲間に引き込みたい相手には『安全なAWAKE』を与えることで異能を発現させて、仲間に引き入れている、というのが頓野の推測。

 そのAWAKEの致死率をうまくコントロールする為の臨床試験として、身寄りのない一般人を誘拐してここに監禁していると考えれば、説明はつく。ここは、その為の実験が繰り広げられている施設。

 つまり、この少女もいずれは……。



 おおおおおおおおん



 不意に建物が揺れて、上階から不吉な音が響く。

 違う。音ではない。声だ。怪物のような叫び声を発する何者かが、自身の真上で暴れているのが頓野にもわかった。


「ねえ真龍ちゃん、今のは……」


「ひどい、お姉ちゃん」


 真龍は頓野の手を叩いて、彼女を拒絶した。さっきまで涙で潤んでいた瞳は、それが嘘だったように乾いており、その奥にある感情が読めない。


「真龍ちゃん?」


「お姉ちゃん、うそついた。お姉ちゃんいがいにも、人がいる。じゃなきゃがあばれたりしないもん」


「あの子?」


 真龍は説明は不要とばかりに、肩を突き飛ばす。


「いい。お姉ちゃんがそうするなら、ようしゃしない」


 真龍の目の色が変わり、両手をパン! と叩く。

 その瞬間──頓野の世界が瞬時に暗転した。


「っ……!?」


 困惑のあまり叫び出しそうになるのを堪えて、頓野は暗闇に目を凝らす。

 否、正確には、これは暗闇ではない。フラッシュを浴びた時に残る光の残像のように、景色の残像が視界を覆っていたのだ。

 慌てて振り返ると、今度は足元から転げ落ちる。

 ぐらぐら揺れる。

 脳髄が沸騰して煮えたぎる。

 身体がふわっと浮いたり、ずん、と沈んだりする。

 眩暈めまいが止まらない。

 ノイズがうるさい。

 景色が歪んでいる。

 回っている。

 吐き気がする。


「むだだよ、お姉ちゃん。ここは私の庭。ここにいる人は、だれも私から逃げられない」


 凡ゆる感覚規管が狂っていくのを感じながら、頓野は真龍の正体を理解した。

 つまり、このビルそのものが、

 ビルの中、その周囲にいる人間の平衡感覚に干渉し、思いのままに無意識をコントロールする能力。

 それを応用して、彼女はこのビルに侵入する者達を跳ね除けていたのだ。

 だから誰もビルには近づかなかった。無意識のうちに、ビルに足を運ばないように仕向けられていたからだ。頓野が先刻、誤って同じ部屋を調べてたのも、その異能の効果で、方向を見失ったからだろう。


「っ……!!」


 頓野はぬかるみを歩くように階段を降りて、踊り場まで転がる。逃げようと思っても、足がもつれてどうにもならない。サングラスを探るが、指が震えて掴めない。

 コツコツ、と、少女が階段を降りてくる。


「これだから外の人はしんじられない。私たちをたすけたいって、口だけ。ほんとうにたすけてほしい時に、私たちのことなんて見向きもしなかったくせに」


 真龍の手には小さな、それでも子供の手には大きいナイフが握られている。

 一段、また一段。それが死までの秒読みのように聞こえる。指が震えて、サングラスが掴めなくなる。まるでクレーンゲームのアームのようにかするだけだ。


 一段。


 爪に引っかかり、引き寄せる。ゆっくりと、離さないように。


 一段。


 もう、二段しかない。爪で引っかけたそれを持ち上げる。当然、床に落下する。


 一段。


 急いで、そのサングラスを拾おうとして──頓野の手首が踏みにじられた。


「ううっ!」


 華奢な手首がガリガリと、靴とコンクリートの板挟みに悶える。子供ながらに容赦ない関節責めに、頓野は苦痛の息を洩らした。


「お姉ちゃんうそついた。私、からたのまれてる」


 頓野は荒い呼吸のまま答えない。お兄ちゃんが誰なのか言及もしない。


「ここに入ってきたのがてきだったら、さいあく、ころしていいって」


 口を真一文字に結んだまま、小さなナイフを振り上げる。大きさなんて関係ない。ナイフだろうが、鉛筆だろうが、頸動脈さえ刺せるのならなんでも殺人の道具になり得る。


「いいよね、お姉ちゃん、さいあくだから」


 そうして少女がナイフを振り上げ、その首を──



PERSONAペルソナッ……!」



 頓野が掠れ声で、最後の余力を振り絞って呟く。

 次の瞬間、頓野は空いた左手で、先程拾ったピエロの仮面を被り、能力を発現した。


「あ……」


 ピエロの仮面に『他人に好印象を抱かせる』効果があるのは、実証済みだった。そして真龍は、好意を抱いた相手を刺せるような非情な子供ではない。

 真龍は、自分がやろうとしていたことの残酷さを思い知り、ショックで手に持っていたナイフを落とした。

 その拍子に、踏んづけていた脚の力も緩めてしまう。頓野はそのまま顔ピエロの仮面を外し、急いでサングラス──有名F1レーサーが昔愛用していたという、プレミアム品──をかける。

 全身に痺れが走り、胸がドクン、と一際強い鼓動を刻む。常に強いGに曝されながらも、自分の走る方向と速度を見失わないF1レーサー特有の感覚器官の強さがその身に宿り、全身が一気に軽くなる。


「ごめんね、真龍ちゃん。仕事だから」


 頓野は軽やかな身のこなしで、そのまま階段を手すりに尻を乗せ滑り降りていく。少女は一歩出遅れて頓野を追いかけるが、気づいた頃には見失ってしまった。


「…………────ッ!!」


 少女は諸目に涙を浮かばせながら地団駄を踏んだ。

 裏切られた。また、大人に嘘をつかれた。

 自分には何も言わずに、勝手に自分を売った両親と、彼女は同じことをした。

 やり場のない感情で地面を蹴りつけながら、少女は遂に決心する。

 頓野だけは許さない。絶対に生かして返さない。自分を裏切った代償として、死ぬよりも恐ろしい目に遭わせてやる。

 少女は壁を思い切り殴りながら、宣言するように叫ぶ。


Qきゅー……ぜんぶぐちゃぐちゃにしちゃえ!」


 

 その怒りに応えるように、彼女の能力がより強くビル全体に作用する。

 このビルを蝕む害虫を、まとめて駆除する為に。

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