音がする

 頓野と連絡を取ろうとしたが、画面端には圏外の二文字。ビル内全体に妨害電波ジャミングのようなものが敷かれているのかもしれない。

 十成はため息を吐きながら、足元に転がっている物体を見やる。

 土気色の肌。やつれた頬。無理矢理開かせた乾いた瞳は、全開の瞳孔で虚空を眺めている。

 この空間が死の気配で溢れかえっているのも道理である。何せこのビルの正体はなのだ。腐乱臭がないのは、徹底的な消臭が行き渡っているからなのだろうが、ここまで不吉なオーラが建物から溢れかえっている時点で無意味だろう。


「慣れないな、こういうの。──NEIGHBORネイバー


 十成は吐き気をなんとか飲み込みながら、そっとその額に指をかざして呟く。するとそのまま、水面に指を浸すように、死体に指が入り込んでいく。

 NEIGHBORは壁や地面等の非生物には干渉できる反面、生物の中に入る事は不可能。つまり指がすんなり入るという事は、これは正真正銘の死体である。

 そのまま指で水をかき混ぜるように体内をまさぐるが、気になるものはない。皮膚の感触からして、死後一週間も経っておらず、年齢は三十後半。上下ともにジャージで、服の中には何も入っていない。

 手を調べると、爪が掌に食い込み、茶色の血が滲んでいた。死因までは推定できないが、死の直前、相当な苦痛に見舞われたのは間違いないだろう。


「それにしても不可解だな。何だってこんな場所に死体なんか隠している?」


 死体を処理するなら、もっと相応しい場所や手段はいくらでもある。いくら人の寄らない場所とはいえ、都会のど真ん中に死体を遺棄するのはリスクが高すぎるし、ファングもそこまで知恵が回らない筈がない。

 十成は今一度ドアのほうを振り返る。門戸には小さく十字が刻まれており、遺体を包んだシュラフも隠すでもなく、丁寧に整然されていた。中の死体も、皆一様に目を閉じ、安らかな顔をしている。

 まるで誰かが、弔いを込めて彼らの亡骸を安置しているようだった。

 だがこれ以上ここに居ても、何も収穫はないだろう。そう判断して、十成は一旦死体を元の場所に戻し、手を合わせる。お休みのところを失礼しました、と独り言ちる。


「ねぇ、そろそろ来るよ。十成さん」


 急に誰かが喋った。

 耳元ではない。自分の頭の中にいる矢崎美穂やさきみほの幻影が、勝手に喋っているだけだ。

 誰か、来る。

 彼女の警告から数秒遅れて、空気振動が耳をかすめた。十成の脳内にいる亡霊は、時に十成本人よりも異状にさとい。


 ごん、ごん、ごん。


 ごん、ごん、ごん。


 プレス機が分厚い鉄板をくり抜くような重厚な低音が、遠く、廊下から微かに響いてくる。

 音は、徐々に大きくなってくる。それが十成には、足を鳴らしながら迫る巨人を連想させた。


「馬鹿馬鹿しい……人間の出せる音じゃないだろ、こんなの」


 しかし何かが迫っているのは明白。十成はすぐにNEIGHBORネイバーで建物を貫いている柱の中に潜り込み、まるで柱をエレベーター代わりにするように、スルスルと下の階へと降りていった。

 すると、柱の中を落下するように降りていく最中。不意にごおお、と大きく建物が揺れて、十成の潜っている柱にひびが入った。


「!」


 十成は急いで柱から抜け出し、勢いのままその階のフロアに転がる。

 NEIGHBORネイバーで潜入した物体が破壊されると、そのまま自身にもダメージが入る。今のまま柱を下っていたら、ひび割れに巻き込まれて十成の身体も真っ二つになっていただろう。

 十成はそんな自分の生命の危機を、相変わらず他人事のように考察しながら、自分がどこにいるのか確認する。

 階数は五階。ここのフロアには特に怪しいものもなく、ただ打ちっ放しのコンクリートの壁と柱が乱立しているだけだった。


 ごん、ごん、ごん、ごん、ごん。


 音は、着実に十成を捕捉して追いかけている。向こうも自分の居場所を察知しているという事は、同じ異能だろう。しかもここまで正確に探知できる異能は、様々な異能と干戈かんかを交えた十成でさえも片手で数える程しか知らない。


 おおおおおおおおおおおおおおおん。


 船の汽笛か、もしくは重機の軋みのような反響。

 しかしその音に十成が連想したのは、怪物の雄叫びだった。

 来る。


「……」


 怪物が、壁を打ち破り、部屋の中に入り込んでくる。



 ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん。



 おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん。



 音が、気迫が、壁の向こうから、真正面から迫ってくる。

 十成は即座に勝利を諦めていた。柱を砕くほどの膂力りょりょくといい、執拗に追跡する探知力といい、明らかに常軌を逸している存在だ。

 だからギリギリまで引きつけて、相手の注意を引く。革ジャンの中には灰の溜まった灰皿や胡椒といった、目眩しの道具はいくらでもある。それらを駆使して足止めし、早急にここから立ち去るのが吉だ。そもそもこの建物自体、どうもファングの関連施設とも思えない趣だ。『犬飼の救出』が目的の十成にとって、ここはもう用済みである。



 ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん。



 おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん。



 迫る。地面が揺れる。

 すぐそこまで、戦慄きのような叫び声が聞こえる。



 ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん。



 おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん。



 汗が喉を伝い、身体に必要以上の力が入るのを抑え込む。

 そして、叫び声が壁のすぐ向こうまで来た瞬間。


「──っ!?」


 瞬間、景色が暗転した。

 まるで体内にある方位磁針が、急にその針先を狂わせたように、十成の感覚が狂い悶える。

 建物が変わったのか。違う。

 変わったのは自分か。違う。

 変わったのではなく、戻された。

 元からおかしいとは思っていたのだ。建物に入ってからずっと感じていた、どこか異常な空間。同じ場所を何度もループする錯覚。エッシャーの騙し絵に自分自身が迷い込んだような矛盾。

 つまり──十成の方向感覚は、この建物の中に入った瞬間から狂っていた。

 それが今、不意に元に戻った。

 つまり、怪物は正面からではない。




「いやーほんとに馬鹿ですねー。さっきからずーっと後ろにいますよ、十成さん」




 背後から来る気配……それを今の今まで、正面から来ていると勘違いしていた。



 「────────!!」



 十成が振り返り、後方へと飛び退くのと同時。

 漆黒の怪物はその巨大な拳を、眼前の全てを粉砕せんと振り下ろす。


 

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