仮面(ペルソナ)


 現場に到着してすぐ、十成はこのビルから漂うえた悪臭に眉根を寄せた。

 否、違う。正確には臭いじゃない。

 異能となり、死の気配に過敏になった十成には、このビルの中から放たれる瘴気しょうきを悪臭のように感じてしまうのだ。

 不吉で溢れかえった魔境。そこに在るだけで人を遠ざけるけがれの温床。異能の自分でさえこの拒否反応なら、一般人が近寄らないのも納得である。


「で、どうする? 二人で行動するか、一人ずつか」


「うーん、普通は一人ずつで行ったりしないけど……十成ちゃん、まだ私を疑ってたりする?」


「敵意は感じないが、それだけじゃ信じる材料にはならない」


 頓野は「疑り深いなぁ、探偵仲間なのに」と言いながら、寂しそうに指先を弄っている。思春期の女子高生みたいで、それを三十路の女がやっていると思うと溜息が出る。


「別にいいじゃない、一緒に行こ? もうセックスもした仲なんだし、今更デートするのに照れちゃってどうすんのよ。それに戦う時は一人でも味方が多い方がいいじゃん」


「味方、ね……」


 胡散臭いと、無碍むげには出来なかった。どこかで彼女の明け透けな性分を気に入っているからかもしれない。

 しかし、もし戦いに巻き込まれた時に、彼女をかばいながら戦える自信はない。自分の身は自分で守るのが、探偵の鉄則である。


「正面から入れば、間違いなく中にいる連中にバレる。だから君はビルの裏手にある窓から入ってくれ。僕はビル内にNEIGHBORネイバーで潜り込んで、最上階からビルの中を探索する。戦う為に潜入するんじゃないんだ。だったら二手に分かれた方が効率がいいと思うけど、どう?」


「あ、その手があったか」


 頓野はポンと手を打つ。どの道、異能に遭遇したとして、十成なら頓野の助けを借りなくとも自力で脱出できる。それは彼女も同じだろう。お互い、単独行動の方がいい。

 こうして十成はビルの最上部の十階から、頓野は一階から。それぞれビル内を調査する事となった。



   ──────────◇◇◇──────────




 頓野は一つ一つの部屋を慎重に調べている。

 ホームレスやチンピラが普段から使っているのか、カップ麺のゴミや煙草の吸い殻といった、生活感のあるものが散らばっている。中にはもう使われなくなった子供用おもちゃや箪笥などの粗大ゴミもある。近づくだけでも恐ろしい場所だというのに、事もあろうに侵入して不法投棄する輩がいるのも不思議である。

 一通り部屋を見回している最中、頓野は違和感を覚えた。


「ん……?」


 ドアノブに温もりがある。多分、ついさっきまで誰かが触っていた。

 頓野は息を殺して背を低くする。辺りに警戒を敷きながら、ポケットの中からサングラスを取り、装着した。


PERSONAペルソナ


 異能の名を口にした瞬間、姿

 消えたのではない。異能の効果で頓野黄黎という存在が視覚、嗅覚で他人から認識できなくなっただけである。そこに存在はするものの、誰も触覚や音以外で知覚できない状態である。

 つまり今、頓野の存在を認識できるのは本人だけ。

 まるで光の反射を利用して己を隠蔽いんぺいするステルス戦闘機のように自分を隠しながら、頓野は音を立てずにドアを開く。触れた痕跡があるという事は、この部屋の中に人がいるという事だ。

 しかし、その光景は頓野の予想を裏切るものだった。


「ここ、さっき調べた……?」


 子供向けのおもちゃや家具が、そのまま残っている。

 誰かが触れた痕跡があるのも当たり前だ。そもそも頓野は、ついさっきこのドアノブに触れていたのだから。

 部屋を勘違いした? そんな初歩的なミスは犯していない。ビルの間取りは把握している。

 何かがおかしい。頓野自身にも測れない事象が、漂っている。冷や汗をかいているのを自覚した頓野は、一旦切り上げて状況整理をしようとして、


「ねえ、お姉ちゃん、誰?」


 透き通る無邪気なささやき。

 それが自分に向けて言われたものだと判断するよりも早く、頓野はタンスの影に身を潜めた。入り口から死角になる位置だ。

 おかしい。今、頓野はPERSONAペルソナの能力で姿を消している。他人から知覚される筈はない。それなのに声の主は、と、頓野の性別まで見破っている。

 部屋のドアが開いて軋む。

 とす。とす。静かに、着実に近づいてくる。


「ねえ、誰なの? どこ?」


 声の主は人形を踏みつけながら、タンスの方へと近づいてくる。

 慎重さのかけらもない無遠慮な足音。しかしその割には静かで、当人の体重の軽さを窺わせる。滑舌は頼りない。女児とも、変声期前の男児とも取れる。

 一瞬、頭を出して確認する。やはり少女。六〜八歳前後、無地のワンピースを纏っただけの細い身体は、この寒空の下では余りにも心許こころもとないだろう。

 少女が、一瞬こちらを向く。


「誰?」


 少女の眼はしっかりと、不可視の頓野を捉えていた。


「……」


 疑問よりも警戒心が勝っているのか、少女はじっとこちらを見据えたまま動かない。まるで人間から逃げる前の野良猫のように、何度も「誰?」と、同じフレーズを繰り返す。

 不安で仕方がない。しかしそれを言葉で表現するには、少女は幼すぎる。ここは大人である自分が率先して彼女を導いてあげなければならないのだろう。敵愾心てきがいしんがないのなら、口はきけるかもしれない。


「えーと、ごめん、ちょっと待ってくれる?」


 サングラスを外して、異能を解除する。少女に、自分は安全な大人だと思わせるには、どの眼鏡を使えばいいのかと考えていたら、視界の隅にピエロのお面が落ちているのを発見した。

 お祭りの屋台で並んでいる、プラスチック製の安物。だが、これがいいのかもしれない。


 PERSONAペルソナ、と一言呟きながら、それを被る。そして少女の前に戯けながらその姿を現した。


「ふっふっふ……よくお姉さんを発見できたね、褒めてあげようお嬢さん」


 コメディ映画じみた軽快な足取りで少女の前に移動して、頓野はその辺にある汚れたボールを三つ拾ってジャグリングをしてみせる。そして一気に三個のボールを頭上に投げて、落ちていた帽子を拾い、全てその中に収めた。

 瞬く間に披露された見事な曲芸に、少女はもう疑いの目を向けるのも忘れて没頭していた。


「うわあ……お姉ちゃん、すごい!」


「ハハッ、でしょ? 今の芸は私を発見した人にしか披露してあげないんだ。だからお嬢ちゃんは特別」


「とくべつ? やった!」


 少女は喜んで頓野に抱きついた。どうやら完全に味方に引きこめたらしい。

 今の曲芸は、頓野の技術ではない。PERSONAペルソナの効果によって発現した、ピエロのお面にまつわる能力である。

 頓野の異能、PERSONAペルソナは、被った帽子や眼鏡、仮面などのアクセサリーの種類によって、それに伴い様々な技術や能力がその身に宿るという少々変則的なものである。

 先刻のサングラスは、かつて公安の捜査官が使っていたもので、かけると周囲から存在を探知されなくなる。今のピエロのお面は、恐らく前の持ち主が子供を楽しませるのが好きだったのだろう。ジャグリングやフラフープといった様々なパフォーマンスが、なんの練習もしてない頓野でも自在にこなせるようになる。

 このように、以前の持ち主の特性に応じて能力が変化する。頓野はこのPERSONAペルソナを臨機応変に使いこなしながら、数多の修羅場を潜り抜けてきた実績がある。

 すっかり頓野を気に入った少女は、そのお腹に頭をスリスリさせる。


「どう? お嬢ちゃんが望むならもーっといっぱい芸を披露してあげる」


「ほんと!?」


「うん。でも条件が一つだけあるんだ」


「何!?」


「お姉ちゃん、実はここに来るの初めてなんだ。だからここがどういう場所なのか教えてくれるかな?」


 少女の口に浮かんでいた微笑が固くなり、目を泳がせる。どうしようか悩んでいるところに、更にもう一押し。


「約束するよ。お姉さんは誰にも言わない。だからあなたも、お姉さんの芸の事はみんなにナイショにできるかな? そうしたらお姉さん、いーっぱい色んなもの見せてあげるよ?」


 少女は「うー」と言いながら悩んだ挙句、やがてコクリと首を縦に動かした。前の持ち主も好人物だったのだろう。かなり強引な交渉でも滞りなく締結まで持っていけた。


「お姉ちゃん、ウソつかない?」


「うん。約束してあげる。だからこのビルの中、案内してくれるかな?」


「わかった」


 少女は不安気に頓野の指を掴みながら、先導する。頓野はピエロの笑顔の下で無表情を湛えながら、少女の背を眺める。

 この少女は、一体何者なのか。死臭のする廃墟に当然のように居座り、透明化した頓野さえ見破った。

 まるでホラー映画に出てくる事故物件の幽霊──と、馬鹿馬鹿しい想像が膨らみそうになる。

 十成に連絡しようとしたが、携帯は圏外。このビルには、自分の想像以上に得体の知れない何かが眠っているのかもしれない。

 それを心の片隅に留めながら、頓野は無邪気な少女と手を繋いで散歩を始めた。

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