自殺行為
殴った感触は、人によって異なる。
痩せた人間を殴れば骨で指が痛いし、肥えた相手を殴れば、皮が厚いだけ手応えはある。喧嘩慣れしてない奴は脆い音、慣れてる奴は芯の硬い音が鳴る。
今俺を殴っているコイツは、どんな音を聞いているんだろう。
真っ暗闇の中で、犬飼はまるで自分が殴られていることを他人事のように感じながら、考えていた。
「ハァ、ハァ……よお、気分はどうだこの裏切り者!」
右のこめかみに衝撃が走り、脳がぐわんと揺れる。
「テメエがあの時、喧嘩相手のガキをぶっ殺してなきゃ、今頃こんな惨めな目に遭ってねえよなぁ!? そこんとこどう思ってんのか教えてくれよ、なぁ、犬飼の兄貴よォ!」
今度は左のこめかみ。頭の振動が重なって、逆に冴え渡る。
今、自分を殴っている宮崎はどんな顔をしているのか。麻袋を被せられたままだが、大体はわかる。仮にも数年一緒のグループにいた仲間だったのだ。
「ぜえ……ああクソ、なんとか言えやクソがあァ!!」
勢いよく麻袋が脱がされ、傷で
「っせぇな豚野郎。喋るサンドバックが欲しけりゃ
「どっちが上か弁えろ、クズがあぁ!!」
今度は胸を蹴飛ばされ、縛られた椅子ごと後ろに転がる。手首に力を入れて手錠を凍らせようと試みるも、やはり出来ない。怪我してるからという訳ではなく、まるで瓶に栓をされているような感覚。能力を完全に封じ込める技術を用いた、異能専用の拘束具。
これだけの技術を、単なる半グレのファングが持てる筈がない。人間を異能にするAWAKEといい、これといい、今のファングにはそれ相応の後ろ盾があると考えていいだろう。
犬飼の銀髪を掴み、宮崎は自分の顔に近づける。キツい香水が気持ち悪い。
「ホントはここで血祭りに上げたっていいんだ。けどそうはしねえ。今、テメエは誰の裁量で生かされてると思ってる?」
「……」
宮崎は口端をニッと吊り上げて、
「いいか? お前が生きてるのは俺のお陰なんだよ。だったら俺に義理立ての一つぐらいするのが社会人の礼儀って奴だろ? それともテメエは義理立てすら碌にできねえ、ただのガキなのか? ああ?」
「……」
反論しようと思ったが、特に言うべき言葉も見当たらない。それをおちょくってると勘違いした宮崎が、また椅子を立て直して一発見舞った。
鼻の骨が歪む音。ああ、こんな音なのか。と、犬飼は勝手に自分の身体から鳴る音のしょぼさに落胆した。
「テメエ、いい加減に──ッッ!?」
近づいてきた宮崎の顔面に、犬飼はなんの前触れもなく、思い切り己の頭頂部を叩き込んだ。
完全に不意を突かれた宮崎は白眼を剥きながら、床に
「んんんんっ……んむ!?」
「あー、やっぱテメエの鼻の方がいい音鳴るじゃねえか、宮崎。つか、そんな痛がるなよ。骨は折ってねえぞ」
宮崎は虚栄心をへし折られた怒りで、逆上寸前だった。無様に血を垂れ流したまま、犬飼の胸ぐらに掴みかかる。
「よっぽど死にてえのか!? ここで今すぐ脳みそぶち撒けてやってもいいんだぜ、ああ!?」
「やれよ。先にテメエの頭が飛ぶぞ」
「このクソ野郎……!!」
宮崎は震える指を必死で押さえ込みながら、ジャケットの懐に指を入れる。
ロシア製の拳銃、トカレフ。薄闇の電球を浴びて鈍く光る銃身が、その口を犬飼に向ける。浪川に銃口を向けられた時に比べれば、これっぽっちの恐怖もない。
「だったら望み通りにしてやらァ、この人殺しがアアァ!!」
ハンマーを上げ、銃口が額に強く押し付けられる。
そして、引き金を引き絞り、
「いい加減にするのはテメエの方だぜ、宮崎」
宮崎は跳ねるようにして振り向き、すぐ拳銃を仕舞う。
「岸風……勝手に入って来やがるとはどういう了見だ」
「勝手なのはお互い様だろ。魔壁さんの指示で生かすように言われてんだ。破ったらどうなるかぐらい分かんだろうが」
岸風は金属に変化した人差し指を突きつける。指の形が、ドアの鍵の形をしていた。
岸風の異能、
岸風は指を元の状態に戻し、宮崎の肩に手を置く。
「犬飼氷実を殺そうとしてたのは黙ってやる。さっさと元の仕事に戻りな」
「……チッ。随分上から物を言うじゃねえか。テメエもコイツを殺そうとしたのに、よくいうぜ」
宮崎は捨て台詞を吐いて、ジャケットの裾で鼻血を拭いながら部屋を後にする。
岸風に
必然、部屋は岸風と犬飼の二人きりになる。
「……ふあぁ〜あ」
岸風にとって犬飼の姿を見るのは久々でもない。定期的に隣人倶楽部に様子見に行ってたが、今の自分に会う資格はないと思い、直接会話する事はなかった。こうして話すのは、彼がファングを離れてから実に二年ぶりだった。
だというのに犬飼は顔を血塗れにしながらも、相変わらず緊張感のない面持ちで
「なんで割り込んだんだよ岸風。もうちょっとでこのクソみてえな世の中からグッバイできたのにさー」
「アンタに死なれちゃ、ファングは十成と交渉できないんすよ。アンタが生きている事が重要なんです」
「十成の野郎に仮を作らせるぐらいなら死んだ方がマシっつってんだよ。あーあ、さっさと人生リセマラしてぇ」
犬飼は何気なく喋っているが、本気で死を覚悟して宮崎を挑発していたのは、仲裁した岸風の目からも明らかだった。交渉を決裂させる事で十成をファングに抱き込ませない為だったのか、宮崎を失脚させる為かは不明だが、どちらに転んでもファングにとっては美味しくないのは間違いない。そこにファングへの明確な敵意があるのだけは確かだ。
岸風はポケットから
「ったく、ファングも変わっちまったよなぁ。俺が居ねえ間に腐るところまで腐り果ててこのザマかよ」
岸風は煙草を吸いながら、薄暗い照明に立ち昇る煙を眺める。
「俺だってこうしたくはなかったんです。けど、もとよりファングはそこらじゃ生きていけないような跳ねっ返りばかりでした。俺だってそうです」
「だから跳ねっ返りのクソどもを
魔壁の名前を切り出した途端、急に岸風は押し黙ってしまった。
犬飼は周囲を一通り見回す。四方をコンクリートで覆われた小部屋には監視カメラはない。しかし、それでも蛇の腹の中にいるような居心地の悪さが否めない。どうにもこの部屋は、普通の空間じゃないらしい。
何者かに監視されていると考えていいだろう。犬飼は話を切り替える。
「あの女の殺し屋から聞いたぜ。お前が俺の命を預かってるんだってな」
「……」
「見ねえ間に偉くなったじゃねえか、おお? 俺が居た頃は殺しなんて死んでもやらねえって面してたお前が、変わっちまうモンだな」
フッと鼻で笑い飛ばしながら言う。鼻血が垂れて、服に赤いシミを残した。岸風は眉を
「こんな腐った組織で成り上がるには、こっちもそれなりに腐る必要があるんですよ」
「そんで行き着く先はクズ溜めの王様ってか。それで何か変えたつもりか?」
「変えるには、力を示して上にのぼるしかない。そう教えてくれたのはアンタだ。だから俺は俺なりのやり方でファングで成り上がってみせる。そして……」
「ファングを元に戻すってか? それが出来んのかよ。魔壁にビビってる今のお前に」
「俺は!!」
吠える。吠えながら、岸風は犬飼の
二人にしか聞こえない距離で、囁くように独白する。
「もう、どうしようもないんです。どうすれば変わるのかなんてわからない。けどもう後には引けないんですよ……アンタから預かった
犬飼は特に同情も侮蔑もせず、いつも通りのペースで答える。
「そっか。迷惑押し付けちまったな、岸風」
「……」
岸風は際限なく
「待てよ岸風」
ドアに手をかけたのを見計らったように、犬飼が声をかけてきた。
「妹、元気してっか?」
岸風は一言も返さず、部屋を出て行った。だが、それで犬飼は充分だった。顔色を鑑みるに、身内を失ったような悲壮感はない。
だが反面、どこか犬飼が組織を抜けた件とは別の罪悪感を抱え込んでいるような目もしていた。しかしそれがどんな感情なのか、犬飼にもわからない。
それとは別に、もう一つ不安がある。
部屋を後にする時の、宮崎の意味深な笑み。どう自分を料理しようか考えている下卑た笑顔。アレが、単に拷問を企んでいる顔にも思えなかったが──
「座して待てってか……マジ暇」
犬飼は項垂れながら、刻一刻と時を待つ。
今できる事は、それだけだった。
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