契り


 頓野の住居を兼ねた事務所は、都営池袋線から一駅の椎名町駅から歩いてすぐにあった。

 薄汚れた白亜の壁は所々ひび割れており、表にぶら下がった『一昌いちまさハイム』の文字にも年季が入っている。1LDKと、この手の住居としてはかなり広い部類だが、人を寄せつけない幽玄な佇まいがある。


「事故物件なの。何人も自殺者が出てる。古いけど広いし、家賃も安かったからここにしたのよ」


 開けるや否や、頓野は足早に靴を脱ぐ。十成にも促すが、彼は顔をしかめる。


「どうしたの? 早く上がりなって」


「あ、いや……足の置き場どこ?」


 玄関には仕事用の資料と思しきものが摩天楼まてんろうのように積み上げられており、更に洋服やゴミ袋が四方八方に散らばっている。一見しただけではどこにも足を踏み込む余地がないのだが、頓野は勝手知ったる様子で踏み越えていく。

 とりあえず、彼女の足跡を追うようにして、十成も部屋の中へと入っていく。部屋干しされた服からは生乾きの悪臭が漂い、リビングルームまで向かう途中の道は新聞の切り抜き記事などが紐でぶら下げられていた。『不審死』『自殺』『事故』という不穏な見出しばかりだ。


「ごめんね、なんか狭くて。でもこういう場所の方が安心するんだ。ほら、くつろいで」


 汚れた部屋の隅のベッドに追いやられて、十成は露骨なため息を吐く。


「それで、何から


 話そうか?」と続く筈だった言葉を封じたのは、柔らかな感触だった。

 艶っぽい温もりに唇を阻まれ、香水の香りが突き抜ける。そのまま甘い味のする舌で絡めとられ、静かな屋内で粘っこい音がゆっくりと響く。

 十成は拒みも受け入れもせず、しばらく彼女に口を好きにさせた。数分経って二人の唇が離れ、銀色の糸が引く。


「んっ、ぷはっ……どう? その気になった?」


「何のつもり?」


 頓野は肩を上下させ、その頬を紅くしていた。十成は口付けされる直前と変わらず、無を見据えた瞳のままだった。


「私、探偵なのに人を見る目がないからさ。相手がどういう人なのか知るにはコレが一番手っ取り早いってワケ」


 頓野はそのままベッドに座る十成に覆い被さり、キスをしながらコートを脱ぎ始める。舌を差し込み、二人の身体は狭いベッドの中に沈み、数回の交わりを果たした。

 スマホのタイマーが鳴る。一時間が経過していた。頓野はそれを止めて、もう十成に興味を失ったかのように後始末を始めた。さっきまで頬を上気させながら必死に貪っていたのが嘘のようだった。


「ほんとビックリした。ヤってる最中に一言も声を上げない人、私初めて見た」


「……つまらなかった?」


「ううん、いいの。おかげで十成ちゃんが何者なのか、なんとなくわかったし」


 服を着替え直した頓野は、ベッドのすぐそばにあるパソコンの前で作業を始める。今の行為で自分の何がわかったのか、十成にはわからない。行為の中で彼女を理解しようとも思わなかった。彼女の心が鋼鉄の仮面のようなもので覆われている気がして、それ以上深入りしようとも思わなかった。

 その後、二人は互いにファングに関して情報交換した。しかしどちらも似たり寄ったりのものしか持っていない。


「それで、アンタは犬飼氷実が監禁されている建物を特定したいってワケでしょ?」


 十成は首肯した。


「私も仕事で探しているんだ、廃ビル。ほら、コレ読んで」


 頓野はパソコンから目を逸らさずに、資料を投げ渡す。今彼女が取り扱っている依頼の調書らしい。

 依頼人、地元の高校に通う十七歳の女子高生。

 内容、『身内の行方調査』。

 捜査対象は依頼人の三つ上の兄『安城敏郎あんじょうとしろう』。

 一年前の深夜コンビニに出掛けてから帰ってきておらず、警察も探しているという。


「警察でも見つけられないのに探偵に頼んでくるってのはどういう事?」


「その依頼人の女の子、情報屋の友達が私に仲介してきたの。私なら見つけられるんじゃないかって」


 話を聞き流しながらページをめくってみると、彼女の調査はかなり念密なものだった。近隣の住民や警察、裏社会関係者への聞き込みは勿論のこと、街の監視カメラのハッキング映像や、本来警察でしか持ち得ない捜査資料やデータなども記載されている。


「それで色々データを絞り込んでみた結果、彼がいると思しき場所は……ここ」


 頓野がグーグルマップを拡大させる。池袋内にある、高度経済成長の名残を思わせる十階建てのビル。しかし建設途中でバブルが弾けて会社が倒産したのか、無機質なコンクリートの壁と骨格を晒したまま、そのビルは一人寂しく突っ立っていた。


「──これは」


「ね、写真越しでもわかるでしょ? 池袋の真ん中、こんだけ目立つ場所に建ってる廃ビルなのに、この周囲だけ異常に人通りが少ない。まるで夜中に薄暗い夜道を避けるように、みんな無意識に気味悪がってこのビルを視界に入れるのを拒んでるのよ」


 頓野は汗ばんだ肌を十成の首元に近づけて、一緒に画面を眺めている。香水と汗が化学反応を起こして、気品のある香りを十成の鼻に届けたが、今の十成は池袋の街に眠っていた謎の廃屋しか眼中にない。

 頓野は更にストリートビューを動かして、ビルの周辺を検索する。十成にとっても見覚えのある店が幾つか並んでいた。角度は違うが、確かに犬飼が監禁された廃ビル周辺と比べても似ている気がした。


「その安城敏郎が監禁されてる確証はあるのか?」


「ここに敏郎君らしき人物が運ばれる姿を、情報屋の監視カメラが捉えてたの。しかも失踪当日」


 もしファングが何かしらの理由でここを拠点の一つにしているのなら、犬飼もここで監禁されてる可能性が高い。つまり頓野としては、『犬飼を救う代わりに自分の仕事を手伝え』という意味だろう。


「住民が避けてるのは、多分そういう雰囲気を感じ取ってるからなんでしょうね。半グレの溜まり場なんて、そりゃ近づきたくないのが当たり前だもの」


「で、いつ出発する?」


「今すぐ」


「作戦は?」


「ま、現地でテキトーに」


 軽く受け流して、頓野は道具をまとめて準備をする。コートは新しいのに着替えて、変装用なのか、伊達眼鏡やサングラスを無造作にバッグに放り投げた。


「ボサっとしないの。置いてくよ十成ちゃん」


 暁夜はそそくさと玄関まで駆け抜ける。十成も地雷原を歩くように抜き足差し足で道を探りながら進むが、面倒になり、NEIGHBORネイバーで床の中に潜り込み、玄関前まで瞬間移動した。


「おー、噂通り。でも下からにゅるって出るのはキモいからやめよっか」


「こっちの勝手だろ。ほら行くよ」


 二人はそのまま駐車場へと向かった。

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