Chapter3 -鼠の楽園-
黒
満月が二つに歪んでいた。
視界に写るものが、黒く染まっていく。外が暗いからとかではない。目に映る全ての色彩が、黒に喰らわれている。
指先に力が入らない。記憶が信号みたいに点滅して、胃の奥から黒いものが押し寄せてくる。
何がどうなっているのか、
どこで何を間違えた? 誰にも悟られないように立ち回ったつもりだった。それとも自分がスパイだと承知の上で、今まで泳がされていたのか? それとも……──
思考を打ち砕いたのは、脳を揺さぶる振動。車が大きく揺れて、コーヒーが宙返りする。アクセルを踏み込む脚には、もう
繰り返される轟音が、理性を削ぎ落としていく。さっきまで耳にやかましかったクラクションも悲鳴も、いつしか遠くぼんやりとしたものになり、聞こえなくなっていった。
それでも、自分がどうなってるかさえわからない状況で──
──ああ、死ぬ。
そう思った瞬間、歪んだ景色が回転して、
彼は自分の脳が潰れる音を聞いた。
──────────◇◇◇──────────
「ねえ、起きてください……もう、起きてってば」
聞き覚えのある声で起こされ、目を開く。
一目で分かったのは、景色が反転しているという事だった。──曇天の昼空。真っ逆さまの
声のした助手席の方を向く。顔の半分を紅色に染めた女が、破れたシートに座っていた。頭が窪み、目が
自分が、彼女の顔を忘れたいという無意識の欲求から、こうなっているのか。
それでもその顔を見て、彼女だと分かってしまう自分は、やはり過去から逃げられないのだろう。
「ねえ、また殺すんですか? それとももう殺した後?」
お決まりのシチュエーションで、お決まりの質問。何度も見慣れた光景を、シカトする。聴こえないふりをしていれば問題ない。
「ねえ、聞いてます? どうして自分に人を救えるって思ったんですか? もしも二人、助けなければいけない人が居たとしてですよ? 誰か一人を助ければ、助けられなかったもう一人はどうなるのかって、少しも考えなかったんですか?」
沈黙という返事を、しかし無視して彼女は続ける。
「無視したって無駄ですよ。私、いつでも見てますから。あなたがまた人を殺すところ、ずーっと私が見届けてますから。私、信じてます。一度私の事を殺したあなたなら、またいつでも他の人を殺せるって」
ふと、違和感を覚えた。彼女の表情がいつもとは違う。普段はまるで餌を待つ動物のような目が、今日は
気になって、自分の顔に指を当ててみる。真っ逆さまになった車体の中で、重力に反して頬を涙が伝っていた。
初めてだった。この白昼夢の中で、涙を流した経験は今までない。そんな戸惑いはお構いなしに、雫は頬を流れる。
真っ黒なそれは、何故か胸の奥をぎゅうっと締めつけてくる。
身に覚えのない罪悪感が、ひんやりと背筋を這う。
動かなきゃ。
動けば、忘れられる。
そうだ。何でもいいから、仕事をしよう。仕事がなければ探しに行こう。もしくはまたお悩み相談でもするか。それと犬飼は……。
そこで、思い出した。
犬飼はファングに────
「逃げられませんよ」
とっとと車から出ようとすると、彼女が
「自分がもう逃げられないって、わかってますよね。それでもまだ先に進もうとするのは、人を守るという『正義』を盾にして、現実を見ようとしないからです。世界で一番人を殺している凶器は、銃でもナイフでもなく、『正義』なんですよ」
うるさい。ただの幻が現実を問うな。ただの幻が正義を語るな。
聞いてない、聴こえない。
そう言い聞かせでも、もうこの世に存在しない彼女の声はより鮮明に響く。
「今なら引き返せるって思ってるんですよね? まだ私を殺した罪を償って、やり直せるって思ってるんですよね? でも残念ですね。もう貴方は戻れない。だってあなたは」
ドアを蹴り開け、外に転がる。ひび割れたアスファルトで肌を擦りむく。黒い水溜まりでびしょ濡れになりながら這う。
少しでも遠くへ。
一歩でも先へ。
そして──ふと、目先に人が立っているのに気がついた。
真っ黒な
その瞳を覗き見て、
「◼️◼️◼️◼️なんですから」
漆黒が視界を覆い尽くし、全てが暗黒に堕ちた。
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