探偵に明日はない
池袋の街の上を、オレンジの夕陽が覆いかぶさっていた。サンシャイン通りのビルの陰が、街全体をストライプ柄に仕切っている。肌を刺すような冬風が、十成の革ジャンの
結局諦めきれずに、街中を洗い回った。『mercy』の店長にも掛け合ったが、いつも通りの笑顔で肩をすくめ、言外に「余計な面倒ごとを俺に振るな」と告げられた。
無駄だと知ってても、どうしても探すのを止められなかった。それでも、時間さえ潰せればよかった。考える時間さえないぐらいに忙しくしていれば、少しは気が晴れると思っていたが、それはただの先送りでしかない。
煮え切らないまま、十成は西池袋二丁目へと戻っていた。身体から、何か大事なものが抜け落ちていて、重心が定まらない。
薄暗くなった住宅街を歩きながら、十成は事務所のあるビルへと着いた。
そして、門前で脚が止まった。
「?」
勝手知ったる事務所の前で、背筋が凍るのを覚えた。
景色や音、臭いに異常はない。しかし二階の事務所へと続く階段は、明らかに剣呑とした気を放っている。
考えるまでもなく、同族の気配。
「
迷わず、十成は異能の名を口走った。身体を地面に潜り込ませて、壁を伝い、事務所のビルに中へと、水中を泳ぐ魚のようにコンクリート内を走っていく。
NEIGHBORの発動中は、嗅覚や視覚ではなく、直感で今いる場所を見極めている。方位磁針が常に北を指差すように、第六感で自分の位置を把握しているのだ。
事務所の天井まで移動したのを感覚で確認すると、そこから飛び降りた。来客机に土足で着地する羽目になった。
斜めに差し込む夕陽が、部屋に佇む不審者の存在を示していた。オレンジ色に照らされた横顔に、十成は見覚えがあった。
「岸風か」
呟くと、その三白眼をジロリと、銃を突きつけるように向けた。
岸風は箱から
「全面禁煙だ。吸うなら外でどうぞ」
「そうカッカすんじゃねえ。窓開けりゃいいんだろ、ったく」
岸風は
「ックソ……まあいい。今日はお前に話があって来た。犬飼氷実の元舎弟としてじゃなく、ファングの
岸風は
「今日はアンタに依頼があってここまで脚を運んできた」
岸風はスカジャンのポケットからスマホを取り出して、その画面を十成に、突きつけるように見せつけた。
そこに映し出されていたのは、両手両足を枷で固定された犬飼氷実の写真だった。
「……」
予想はしていた。だが覚悟まではできていただろうか。十成にはわからなかった。
岸風はその写真を突きつけながら、要件を述べた。
「先週うちの運送を邪魔した件について、お前とお話がてら、
超然とした態度で、岸風は十成に二択を迫る。ファングに尻尾を振るのか、犬飼を見殺しにするのか。
選択の余地はないと、岸風はたかを括っていた。犬飼が組織から追い出された後で、何度か隣人倶楽部を訪ねて犬飼や十成と話していた岸風は、十成が犬飼に情を移している事ぐらいは知っていた。
「フッ」
しかし、十成はその脅しに、嘲笑で返した。
十成は来客椅子から立ち上がり、ゆったりとした足取りで岸風へと歩を進める。その眼孔に、心の隙間を見透かされているような気がして、岸風は思わず身構えた。
「つまり君は、犬飼の命を突きつけて、僕をファング側に引き込もうって
十成は岸風の座るデスクの前まで、朧げな足取りで辿り着く。岸風は何故か、今、自分に逃げ場がないような気持ちになった。
そして十成は、決定的な一言を──今の岸風にとっての禁句を吐いた。
「その策には乗れないな。今の君に、犬飼氷実は殺せない」
今の自分に、犬飼は殺せない。
その言葉を聞いた瞬間、こめかみに青筋が浮かび上がるのを抑えてられなくなった。
岸風はデスクから立ち上がり、三白眼を無闇にギラつかせて
「俺に殺せないだと……? バカァ言え。その程度の覚悟もしねえでここに来たとでも思ってるのか」
「その反応が何よりの証拠だよ、岸風誦。君は僕に、囚われの犬飼を見せびらかして脅しに来たんじゃない。君は僕を脅す名目で、犬飼を死なせない為に僕に仲間入りするよう頼みに来たんだ。違うか?」
「言い掛かりも大概にしやがれ、十成綾我。なんなら今ここで、犬飼氷実の命を終わらせてやってもいいんだぜ?」
岸風はスマホの中にいる犬飼を、再び突きつけた。血塗れの両手を縛られて、狩られた獣のような犬飼の姿が十成の視界に広がる。
「やってみろ。誰も君の指示には従わない」
「テメエ、舐めやがって……!」
岸風はデスクを蹴り、無駄な音を鳴らした。
岸風は肩を震わせながら、それでも理性的な部分で、どちらを選ぶかを考えていた。
犬飼を使った交渉の権限は、今は自分にある。それは魔壁の命令で、彼の言葉は絶対である。今ここで『殺せ』と命令すれば、その通りに動く筈なのだ。
一瞬の
『はい、俺です』
「殺せ! 犬飼氷実を殺すんだ!」
『……そ、それは』
電話越しの声が、急に
「俺の指示が聞けねえのか。十成が応じない以上、犬飼は用済みだ。だから殺せっつってんだ!!」
『……』
戸惑った声も、やがて聞こえなくなる。十成はいつの間にか席に座り直して缶コーヒーを啜り、
まるで自分だけが状況を理解していないような気になり、岸風は怒りよりも戸惑いを覚え始めた。まるで十成の出まかせが本当だと告げるように、全ての情報が岸風にとって不鮮明だった。
やがて、状況に居た
『犬飼氷実は殺せません。魔壁さんに、俺がドヤされますから」
岸風の掌から、スマホがするりと落下して、机の上で乾いた音を立てながら踊った。
岸風は、掌を無為に見つめる。手汗でしっとりと濡れている。自身の臆病さを
「だから言っただろ。君に犬飼は殺せない」
十成が自身の背後に、亡霊のように立ち竦んでいるのに、岸風はそこで気がついた。
夕陽は既に遠く臨む街の中へと沈み、空は半ば以上が
「それは君が犬飼に情移りしているからじゃない。どうせお前が上から指示されたのは『交渉』だけで、犬飼を殺す許可までは得てないだろうと思ったからね」
十成の推理は、岸風の耳を通り過ぎている。今彼が思い出しているのは、魔壁の指示の内容だった。
──抑えた後の犬飼の処遇は、貴様に任せる……やれるか。
──やれるか……と言っている。俺の言葉はわかるな。
一瞬不服そうに顔を歪めたのは、岸風も覚えていた。
つまり、あの時既に魔壁は、人質の始末の権限を与えないつもりだったというのか。
岸風は怒りと動揺で震える肩を抑えながら、深呼吸した。理由が腑に落ちたお陰なのか、頭に登っていた血が徐々に冷えていくのを感じる。こういう時、すぐに冷静に戻れるのが岸風と犬飼の違うところだった。
「……そういう事かよ、クソッタレ。そりゃそうか。すぐにカッとなるような奴に人質の生死を
己を冷笑するような笑みを浮かべる。十成に敵意を向けるのも馬鹿馬鹿しくなっていた。
結局、十成の言った通り。自分は十成を脅すふりをして、犬飼を見殺しにしないでくれ、と、彼に助けを求めていたに過ぎない。
「それで、どうするつもりなんだ。岸風」
十成は事務所の部屋の灯りを増やした。蛍光灯の無機質な光が二人を包み込む。それから岸風の前に缶コーヒーを置いて、また来客用の椅子に座り直した。こんな手狭な部屋を行ったり来たりと忙しい奴だ。
「ここまで赤っ恥かかされて、今更どうするつもりもクソもねえよ」
岸風は素直に渡された缶コーヒーのタブを倒して、湯気のたつそれを喉に流した。味は気にしなかった。とにかく身体が温まる感覚が、岸風は嫌いじゃなかった。
岸風は缶コーヒーを机の上に置き、十成と向き直った。十成の顔にあった死神じみた
「魔壁は三日以内に交渉が成立しなけりゃ、犬飼の兄貴は問答無用で殺すっつってた。お前こそどうするつもりだ」
「君が居所を吐いてくれれば話は早いんだけど」
「言ってくれるな。俺らみたいなのでも、守秘義務ってもんがある。それにお前が知った所で無駄だ」
岸風は皮肉な笑みを浮かべて断言する。諦めを含んだ笑みだった。
「無駄? どういう意味だ」
「自分で考えな。ともかく、残りは三日だけだ。それまでに俺らの居場所を掴むか、俺らに媚びるか。どっちかを選ばなきゃ……犬飼の兄貴の命はないと思え」
岸風は最後の言葉を強調して、事務所のドアに手をかけた。逃げるような足取りで、そのまま部屋を後にしようとした。
「待ちな」
背後から不意に肩を掴まれる。心臓まで握られているような錯覚を覚えて、岸風はひやりとした。
岸風は振り
十成の方には振り向かなかった。どんな表情であれ、皮肉を顔に浮かべているに違いなかった。
「僕はどんな手段を使ってでも犬飼をこっち側に引き摺り戻す。それこそ死んでも」
「それがどうした」
「君も早いうちに決めた方がいい。犬飼を殺すか、救うか。どちらかの覚悟を」
肩にかかる握力が、心なしか一段と強くなる気がした。
心臓、心の深奥まで指がめり込んでくる。同時に、己の中にある矛盾が暴かれる。
何故かそんなイメージが脳裏をよぎり、岸風は今度こそ十成の腕を引き離した。
「余計なお世話だ、陰湿野郎」
岸風は逃げるようにして、事務所のドアを乱暴に閉じた。
通りを曲がり、彼の姿が消えたのを確認して、十成は急いで携帯の画面を開き、地図を表示した。
そこにはしっかりと、岸風の肩に
「これで居場所が割れればいいけど……」
そう呟きながら、その期待値は彼の中では低かった。位置情報を完全に遮断するようなものを使われれば役立たないし、岸風は「知ったところで無駄」とも話していた。監禁場所を掴めても、それだけでは意味がないかもしれない。
いっそのこと岸風の体内にGPSを仕込めれば話は早いのだが、NEIGHBORの能力では、生きている生物の体内までは干渉できない。死体ならともかく、人間の中身に直接手を突っ込んだりは不可能なのだ。
十成は腕を組んで、今後どうするべきかを考えた。何気なく鏡を覗き込むと、いつも通りに彼女が笑っていた。自分が初めて殺した人の無言の笑顔が、鏡越しに十成を射抜いていた。
今のお前に、誰も救えない。そう告げられている気がして、十成は自分の頬を二度叩いた。鏡に写った亡霊は、姿を眩ましていた。
自分に、誰かを救う権利はあるのだろうか。
何度も繰り返した自問が脳裏に去来し、十成は考えるのをやめて眠りについた。
夢を見ることもなく、ただ眠気に身を委ねて、十成は闇の世界へと意識を放り投げた。
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