探偵に明日はない


 池袋の街の上を、オレンジの夕陽が覆いかぶさっていた。サンシャイン通りのビルの陰が、街全体をストライプ柄に仕切っている。肌を刺すような冬風が、十成の革ジャンのえりから忍び寄った。

 結局諦めきれずに、街中を洗い回った。『mercy』の店長にも掛け合ったが、いつも通りの笑顔で肩をすくめ、言外に「余計な面倒ごとを俺に振るな」と告げられた。

 無駄だと知ってても、どうしても探すのを止められなかった。それでも、時間さえ潰せればよかった。考える時間さえないぐらいに忙しくしていれば、少しは気が晴れると思っていたが、それはただの先送りでしかない。

 煮え切らないまま、十成は西池袋二丁目へと戻っていた。身体から、何か大事なものが抜け落ちていて、重心が定まらない。

 薄暗くなった住宅街を歩きながら、十成は事務所のあるビルへと着いた。

 そして、門前で脚が止まった。


「?」


 勝手知ったる事務所の前で、背筋が凍るのを覚えた。

 景色や音、臭いに異常はない。しかし二階の事務所へと続く階段は、明らかに剣呑とした気を放っている。

 考えるまでもなく、同族の気配。


NEIGHBORネイバー


 迷わず、十成は異能の名を口走った。身体を地面に潜り込ませて、壁を伝い、事務所のビルに中へと、水中を泳ぐ魚のようにコンクリート内を走っていく。

 NEIGHBORの発動中は、嗅覚や視覚ではなく、直感で今いる場所を見極めている。方位磁針が常に北を指差すように、第六感で自分の位置を把握しているのだ。

 事務所の天井まで移動したのを感覚で確認すると、そこから飛び降りた。来客机に土足で着地する羽目になった。

 斜めに差し込む夕陽が、部屋に佇む不審者の存在を示していた。オレンジ色に照らされた横顔に、十成は見覚えがあった。


「岸風か」


 呟くと、その三白眼をジロリと、銃を突きつけるように向けた。

 岸風は箱から煙草タバコを取り出して、勝手に一服し始めた。ふう、と深い溜息を吐くと、煙が上がる。


「全面禁煙だ。吸うなら外でどうぞ」


「そうカッカすんじゃねえ。窓開けりゃいいんだろ、ったく」


 岸風は気怠けだるそうに事務所の窓を開けて、二度目の煙を吐き出した。しかし風向きのせいで全て部屋に戻ってしまい、舌打ちをしてすぐ閉めた。カッコつけようとして全くついてないのだけは、十成にもバレバレだった。


「ックソ……まあいい。今日はお前に話があって来た。犬飼氷実の元舎弟としてじゃなく、ファングの舎弟頭しゃていがしらとしてな」


 岸風は煙草タバコを律儀に携帯灰皿に押し当てた後、十成のデスクに許可もなく腰掛けた。まるで自分がこの場を取り仕切っているとでも言いたげな面構えで、元の持ち主を睨みつける。


「今日はアンタに依頼があってここまで脚を運んできた」


 岸風はスカジャンのポケットからスマホを取り出して、その画面を十成に、突きつけるように見せつけた。

 そこに映し出されていたのは、両手両足を枷で固定された犬飼氷実の写真だった。


「……」


 予想はしていた。だが覚悟まではできていただろうか。十成にはわからなかった。

 岸風はその写真を突きつけながら、要件を述べた。


「先週うちの運送を邪魔した件について、お前とお話がてら、暁夜奏多あけよかなたの処遇をめぐって取引をしたい、と魔壁ボスからの御達おたっしだ。断ったらどうなるかぐらいは……考えなくてもわかんだろ」


 超然とした態度で、岸風は十成に二択を迫る。ファングに尻尾を振るのか、犬飼を見殺しにするのか。

 選択の余地はないと、岸風はたかを括っていた。犬飼が組織から追い出された後で、何度か隣人倶楽部を訪ねて犬飼や十成と話していた岸風は、十成が犬飼に情を移している事ぐらいは知っていた。


「フッ」


 しかし、十成はその脅しに、嘲笑で返した。

 十成は来客椅子から立ち上がり、ゆったりとした足取りで岸風へと歩を進める。その眼孔に、心の隙間を見透かされているような気がして、岸風は思わず身構えた。


「つまり君は、犬飼の命を突きつけて、僕をファング側に引き込もうって算段ハラでここに来てる訳だ」


 十成は岸風の座るデスクの前まで、朧げな足取りで辿り着く。岸風は何故か、今、自分に逃げ場がないような気持ちになった。

 そして十成は、決定的な一言を──今の岸風にとっての禁句を吐いた。


「その策には乗れないな。今の君に、犬飼氷実は殺せない」


 今の自分に、犬飼は殺せない。

 その言葉を聞いた瞬間、こめかみに青筋が浮かび上がるのを抑えてられなくなった。

 岸風はデスクから立ち上がり、三白眼を無闇にギラつかせて威嚇いかくした。


「俺に殺せないだと……? バカァ言え。その程度の覚悟もしねえでここに来たとでも思ってるのか」


「その反応が何よりの証拠だよ、岸風誦。君は僕に、囚われの犬飼を見せびらかして脅しに来たんじゃない。君は僕を脅す名目で、犬飼を死なせない為に僕に仲間入りするよう頼みに来たんだ。違うか?」


「言い掛かりも大概にしやがれ、十成綾我。なんなら今ここで、犬飼氷実の命を終わらせてやってもいいんだぜ?」


 岸風はスマホの中にいる犬飼を、再び突きつけた。血塗れの両手を縛られて、狩られた獣のような犬飼の姿が十成の視界に広がる。


「やってみろ。誰も君の指示には従わない」


「テメエ、舐めやがって……!」


 岸風はデスクを蹴り、無駄な音を鳴らした。

 岸風は肩を震わせながら、それでも理性的な部分で、どちらを選ぶかを考えていた。

 犬飼を使った交渉の権限は、今は自分にある。それは魔壁の命令で、彼の言葉は絶対である。今ここで『殺せ』と命令すれば、その通りに動く筈なのだ。

 一瞬の躊躇ちゅうちょの後、岸風は決断した。電話をかけると、すぐに部下の声が耳に届いた。


『はい、俺です』


「殺せ! 犬飼氷実を殺すんだ!」


『……そ、それは』


 電話越しの声が、急にどもった。この期に及んで度胸がないのか。苛立ちながら、更に強く怒鳴った。


「俺の指示が聞けねえのか。十成が応じない以上、犬飼は用済みだ。だから殺せっつってんだ!!」


『……』


 戸惑った声も、やがて聞こえなくなる。十成はいつの間にか席に座り直して缶コーヒーを啜り、激昂げきこうする岸風をつまらなげに観察していた。

 まるで自分だけが状況を理解していないような気になり、岸風は怒りよりも戸惑いを覚え始めた。まるで十成の出まかせが本当だと告げるように、全ての情報が岸風にとって不鮮明だった。

 やがて、状況に居たたまれなくなったのか、スピーカーから申し訳なさそうな部下の声が鳴る。


『犬飼氷実は殺せません。さんに、俺がドヤされますから」


 岸風の掌から、スマホがするりと落下して、机の上で乾いた音を立てながら踊った。

 岸風は、掌を無為に見つめる。手汗でしっとりと濡れている。自身の臆病さをわらっているようだった。


「だから言っただろ。君に犬飼は殺せない」


 十成が自身の背後に、亡霊のように立ち竦んでいるのに、岸風はそこで気がついた。

 夕陽は既に遠く臨む街の中へと沈み、空は半ば以上が藍色あいいろに染まりつつあった。電灯の光が、十成の眼窩がんかと輪郭だけを照らしている。


「それは君が犬飼に情移りしているからじゃない。どうせお前が上から指示されたのは『交渉』だけで、犬飼を殺す許可までは得てないだろうと思ったからね」


 十成の推理は、岸風の耳を通り過ぎている。今彼が思い出しているのは、魔壁の指示の内容だった。

 ──抑えた後の犬飼の処遇は、貴様に任せる……やれるか。

 ──やれるか……と言っている。俺の言葉はわかるな。

 一瞬不服そうに顔を歪めたのは、岸風も覚えていた。

 つまり、あの時既に魔壁は、人質の始末の権限を与えないつもりだったというのか。

 岸風は怒りと動揺で震える肩を抑えながら、深呼吸した。理由が腑に落ちたお陰なのか、頭に登っていた血が徐々に冷えていくのを感じる。こういう時、すぐに冷静に戻れるのが岸風と犬飼の違うところだった。


「……そういう事かよ、クソッタレ。そりゃそうか。すぐにカッとなるような奴に人質の生死をゆだねる程、魔壁もアホじゃねえって訳だ」


 己を冷笑するような笑みを浮かべる。十成に敵意を向けるのも馬鹿馬鹿しくなっていた。

 結局、十成の言った通り。自分は十成を脅すふりをして、犬飼を見殺しにしないでくれ、と、彼に助けを求めていたに過ぎない。


「それで、どうするつもりなんだ。岸風」


 十成は事務所の部屋の灯りを増やした。蛍光灯の無機質な光が二人を包み込む。それから岸風の前に缶コーヒーを置いて、また来客用の椅子に座り直した。こんな手狭な部屋を行ったり来たりと忙しい奴だ。


「ここまで赤っ恥かかされて、今更どうするつもりもクソもねえよ」


 岸風は素直に渡された缶コーヒーのタブを倒して、湯気のたつそれを喉に流した。味は気にしなかった。とにかく身体が温まる感覚が、岸風は嫌いじゃなかった。

 岸風は缶コーヒーを机の上に置き、十成と向き直った。十成の顔にあった死神じみたかげりは、今は鳴りを潜めている。


「魔壁は三日以内に交渉が成立しなけりゃ、犬飼の兄貴は問答無用で殺すっつってた。お前こそどうするつもりだ」


「君が居所を吐いてくれれば話は早いんだけど」


「言ってくれるな。俺らみたいなのでも、守秘義務ってもんがある。それにお前が知った所で無駄だ」


 岸風は皮肉な笑みを浮かべて断言する。諦めを含んだ笑みだった。


「無駄? どういう意味だ」


「自分で考えな。ともかく、残りは三日だけだ。それまでに俺らの居場所を掴むか、俺らに媚びるか。どっちかを選ばなきゃ……犬飼の兄貴の命はないと思え」


 岸風は最後の言葉を強調して、事務所のドアに手をかけた。逃げるような足取りで、そのまま部屋を後にしようとした。


「待ちな」


 背後から不意に肩を掴まれる。心臓まで握られているような錯覚を覚えて、岸風はひやりとした。

 岸風は振りほどこうとしたが、十成は頑なに掴んだまま離さない。仕方なく岸風は「なんだよ、今更」と、要件を聞いた。

 十成の方には振り向かなかった。どんな表情であれ、皮肉を顔に浮かべているに違いなかった。


「僕はどんな手段を使ってでも犬飼をこっち側に引き摺り戻す。それこそ死んでも」


「それがどうした」


「君も早いうちに決めた方がいい。犬飼を殺すか、救うか。どちらかの覚悟を」


 肩にかかる握力が、心なしか一段と強くなる気がした。

 心臓、心の深奥まで指がめり込んでくる。同時に、己の中にある矛盾が暴かれる。

 何故かそんなイメージが脳裏をよぎり、岸風は今度こそ十成の腕を引き離した。


「余計なお世話だ、陰湿野郎」


 岸風は逃げるようにして、事務所のドアを乱暴に閉じた。

 通りを曲がり、彼の姿が消えたのを確認して、十成は急いで携帯の画面を開き、地図を表示した。

 そこにはしっかりと、岸風の肩にNEIGHIBORネイバーでスカジャンに潜り込ませたGPSが起動していた。


「これで居場所が割れればいいけど……」


 そう呟きながら、その期待値は彼の中では低かった。位置情報を完全に遮断するようなものを使われれば役立たないし、岸風は「知ったところで無駄」とも話していた。監禁場所を掴めても、それだけでは意味がないかもしれない。

 いっそのこと岸風の体内にGPSを仕込めれば話は早いのだが、NEIGHBORの能力では、生きている生物の体内までは干渉できない。死体ならともかく、人間の中身に直接手を突っ込んだりは不可能なのだ。

 十成は腕を組んで、今後どうするべきかを考えた。何気なく鏡を覗き込むと、いつも通りに彼女が笑っていた。自分が初めて殺した人の無言の笑顔が、鏡越しに十成を射抜いていた。

 今のお前に、誰も救えない。そう告げられている気がして、十成は自分の頬を二度叩いた。鏡に写った亡霊は、姿を眩ましていた。

 自分に、誰かを救う権利はあるのだろうか。

 何度も繰り返した自問が脳裏に去来し、十成は考えるのをやめて眠りについた。

 夢を見ることもなく、ただ眠気に身を委ねて、十成は闇の世界へと意識を放り投げた。



 

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