フック


 浪川はビニール傘の取っ手部分を、人を指差すように突きつけたまま立ちすくんでいた。

 殺気は、もう感じない。彼が壁に追突して昏倒こんとうしたのをそれだけで確認して、ようやく浪川は安堵した。


「……ったく、まさか異能コレを使わされるとは思わんかったわ」


 呟いて、浪川は傘を乱暴に放り投げた。GETゲットを使ったのはかなり久しかったので、身体が無意味に緊張していたのを覚えて、まだまだ自分は未熟だと悟った。

 GETの原理は極めて単純である。己の視界に、の物体を重ねて、それを引っ張ることで、遠くにある対象物を手元に引き寄せるという能力。

 有り体に言えば、使い勝手の悪いサイコキネシスだ。

 浪川は犬飼の意図を見極めると、咄嗟に傘の先端を持ち、取手部分──握りやすいようにU字に歪曲されたその部分を、迫る犬飼に重ねて、少しだけ彼を引っ張った。その結果として、浪川の顎を目がけて放たれた飛び蹴りは、僅かに軌道がズレたのだ。


「何、見とんねん。仕事せえや」


「え? う、うぃす!」


 呆然ぼうぜんとして始終を眺めていた男達が、我に帰ったように頷き、犬飼へと殺到した。浪川は道に落とした小型拳銃を拾い、それをズボンのベルトに挿した。汚れたセーターの上から、男から受け取ったジャージを羽織る。


「痛っ」


 歩こうとして、前のめりになりかけた。脚に氷柱が刺さったせいで、思うように動かない。止血こそしてるものの、下手に動けば傷口が開きそうだった。

 このまま街を歩いていたら、怪しまれるだろう。


「しゃーない。帰りもこれにしたるわ」


 浪川は目線を上げて、雑居ビルの手摺てすりを視界に収める。

 そして、そこに傘の持ち手、フック状の部分を重ねて、引っ張った。

 次の瞬間、浪川の身体がふわりと浮き立ち、何かに導かれるように屋上へと跳躍していく。そのまま、音もなく屋上に着地した。

 GETゲットは相手を引き寄せるだけではなく、逆に対象物の方へ自分自身を引き寄せる事も可能である。

 任務を終えた暗殺者は、雑居ビルの屋上を軽やかに駆けながら、夕闇の中へと紛れて、消える。

 現場には、まるで最初から誰も居なかったかのような、奇妙な静寂が流れていた。



   ──────────◇◇◇──────────




「ハァ、ハァ……!!」


 角を曲がり、小道をい、大通りを駆けずり回る。

 それを何度繰り返したかは、もう覚えていない。十成は背筋を這う悪寒を必死に振り払うようにして、池袋の街を走り回っていた。

 NEIGHBORネイバーで壁をすり抜けながら道を探しても、犬飼の姿はどこにもなかった。何度も異能を行使しているうちに、徐々に内側に冷たい『死』が溜まっていき、吐き気を催す。

 不快感に耐え切れず、十成は路地の汚い壁に背を預けて、大きく呼吸をした。生きた外気を取り込み、内臓に生命を思い出させる。

 NEIGHBORネイバーは自由の効く能力だが、代償として燃費が悪い。がむしゃらに使うと、身体が『死の世界』側へと引き摺られて、意識が戻ってこれなくなる。


「……ふう」


 心音が耳にやかましい。肺が全身に酸素を供給して、今、生きていると実感させる。


「ねぇ、もしかして期待してたんですか? 今の自分なら誰かを護れるかもしれないって」


 聴き慣れた声がして、十成は頭を振った。自分の中にあるえた悪臭が、過去の記憶を呼び覚ます


「違う……僕はただ」


「あのね、十成さん。力ってそんなに便利なものじゃないんですよ? 化学光線を浴びて明日からスーパーヒーローって訳にはいかないじゃないですか、実際問題。うだつの上がらない人がヒーローになったって、そう都合よく生まれ変われる訳ないじゃないですか。人殺しは、何をしても人殺しにしかならないんです」


「違う……うるさい……うるさい、出てけ、うるさい!!」


 叫んで、十成は壁に頭を叩きつけた。頭の奥を揺さぶって、必死に魔の声を掻き出そうとする。

 硬い衝撃が、脳を揺らした。頭蓋骨がひしゃげかねない程に、壁面に額を擦り付け、血が滲む。

 気がつけば、声は聞こえなくなっていた。聞こえるのは自分の嗚咽おえつと、室外機の無機質な排気音だけだった。


「……何してんだろ、こんな時に」


 十成は無理に自嘲の笑みを浮かべて、壁を眺めた。額からこぼれた鮮血がへばりついている。

 そして、十成はそこで初めて壁の違和感に気がついた。


「弾痕?」


 壁を鋭角に穿うがったその跡を、彼は一目でそう判断した。

 ヤクザの抗争でもあったのか。あり得ない。単なる発砲事件だったら、とっくに警察が出動し、大騒ぎになっている筈だ。

 つまり、これは水面下で行われた暗殺の痕跡。

 十成は路地を走り回った。人気ひとけはない。ただ薬莢特有の、乾いた残り香が漂っている。さっきまでここで激戦が繰り広げられていたのは間違いない。

 たどり着いたのは、数坪もない空き地だった。

 弾痕と残り香以外の痕跡は、何一つなかった。まるで最初からそこには何もないかのように、四方をビルの背に囲まれたそこは、完全な無だった。

 その、あまりにも人工的な無を前にして──ここで何が起きたのか、全て悟ってしまった。


「……ッ」


 胃から、何かが競り上がってくる。必死に栓をして、堪えた。

 何もかも思い通りに行く筈がないと、心のどこかでわかっていた。

 何が間違いだったのか、どうすればよかったのか。意味のない問答がぐるぐると駆け巡り、希望を貪っていく。


「お、綾我ちゃんみーっけ。おっすー!」


 と、癪に障るぐらい無駄に明るい挨拶が、背後から聞こえてきた。

 瞬時に意識を切り替え、背後を向いて構える。

 立っていたのは、情報屋の暁夜あけよ奏多かなただった。黒のダッフルコートを着込んで、相変わらず男か女かもわからないような中性的な美貌で微笑みかけていたが、十成が構えると一点、両手を前に出してアワアワと震える。


「ちょ、ちょっとストップストップ! もーそんなカッコよく身構えないでよ、僕が悪者みたいで話しづらいじゃん?」


「……悪いけど、今気分じゃないんだ。仕事の都合なら、明日にでも事務所に来てくれ」


 構えを崩さないまま、努めて無感情に呟いたものの、語気に不快感が滲むのを抑えられなかった。

 暁夜は十成の顔を覗き込みながら、不敵な笑みを浮かべた。


「わかった、わかったよ。じゃあここからは僕の独り言だから、テキトーに受け流して聴いてね?」

 

「……」


「まず一つ、犬飼氷実ひーちゃんは間違いなくここで倒されました。誰がったのかは……ま、想像つくよね。銃で異能を殺すなら、浪川海砂なみかわみさより優れた殺し屋はいないしね」


 暁夜は無邪気な子供らしくフラフラと歩きながら勝手に喋りだした。

 その程度のことは、十成もわかっている。


「そして二つ。ひーちゃん、実は生きてます」


「……え?」


 十成は項垂うなだれた顔を、わずかに起き上がらせた。


「生きてる、だって?」


 それはあり得ない。ファングには犬飼を生捕りにする利点なんてどこにもない筈だ。

 彼を人質に取られて困るのは、十成だけ。そして十成は、ファングの稼業に関する詳細は知らないのだ。


「……ちょっと解せないな。犬飼はもう組織とは縁を切ってる。口封じに殺すならまだしも、生かすことになんの意味がある?」


「ほんと、焦ってるとアタマ硬くなっちゃうよねー綾我ちゃんは。そんなんだからすぐファングに出し抜かれちゃうんだよー?」


 満面の笑顔で毒突きながら、暁夜はズボンのポケットに数本刺し込まれたスティックキャンディを一本引っこ抜き、封を解く。カラフルな色が混ざりあった、歪な柄の飴だった。


「ファングが用があるのは、綾我ちゃんじゃなくて僕だよ。僕がファングの事を調べてるのが、向こうにもバレちゃったみたいでさ。てへへ♡」


「犬飼が巻き込まれたのは、この間、君の仕事に一枚噛んだのが原因って事か」


 この間の仕事とは、言うまでもなくAWAKEの運び屋の掃討、及び拷問だった。


「ご明察。そんなこんなで、僕の周りに居た情報提供者おてつだいさんも、みーんなドロンしちゃたんだよね。さみしー」


 しくしく、ぴえんと泣く動作をしながら、その小動物じみた瞳を向けてくる。案外画になっているというのが腹立たしい。


「へえ、そりゃ賢明だな。現に僕も、君に関わったせいでこうなってるし」


「そんな事言わないでよー。もう綾我ちゃんぐらいしか頼れる相手がいないんだってー!」


 小柄な体躯をジタバタさせながら、暁夜は抗議する。


「という訳で、隣人倶楽部の優秀な探偵さんにお願い! 僕と一緒に、ファングの謎に迫るお手伝いをして下さい! あ、依頼料は言い値でOKっす」


 口調こそふざけているが、暁夜の目付きは蛇のように十成を捕らえて離さない。暁夜もこれでいて、自分の地位が危ぶまれている現状に必死だとわかる。

 しかし、十成はその依頼を承諾できなかった。


「さっきも言ったけど今は無理だ。……人の命がかかってる。こっちにも一日考える時間をくれ」


 犬飼が生きているのかどうか、まだ断定するのは早い。それに生きていたとして、ファングの手にある以上、彼らと直接交渉した方が得かもしれないとも打算していた。

 暁夜は鉄のような無表情を見せた後、すぐに顔を綻ばせた。取ってつけたような、ハリボテの笑顔。


「そっか。じゃあ仕方ないから、一日だけ待ってあげる。 あ、言っとくけど、ファングがひーちゃんをそう長い間生かしてると思わない方がいいよ、綾我ちゃん。判断はお早めに、ね⭐︎」


 蠱惑なウインクを決めて、暁夜は裏路地から駆けていった。すぐにその背中を追ってみたが、通りに出た途端、その姿は霧のように姿を消していた。


「……昔っから逃げ足だけは速いんだよな、アイツ」


 言いながら、十成はポケットに手を突っ込んで、暁夜からこっそりと盗んだスティックキャンディを舐めた。ココアとミルクの味が喧嘩して、無駄に甘ったるかった。

 ファングか、暁夜。自分はどちらに付くべきだろうか。

 帰り道の十成は、終始それだけを考えていた。

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