迷路

 通り一つ曲がる。

 そこに、大口を開けた魔物が待ち構えている。

 浪川は、そんな幻惑を頭から振り払いながら、裏路地を縫うようにしてしていた。

 彼女の行動は、紛れもなく逃亡だった。


「痛いもんは……痛いなぁ」


 暗殺者は、らしくもない弱音を吐いた。

 咄嗟とっさに機転を効かせて、傘を犬飼の腹部に押し当てて足止めはできた。だがそれだけだった。

 浪川は太腿から漏れる血を、サバイバルナイフで引き裂いたローブで止血していた。

 犬飼に大きく蹴り飛ばされた際に、散らばった氷の破片の一部が突き刺さっていた。しかも運悪く、それは腱を傷つけた。

 必然、彼女の足取りは鉛を入れたように重々しくなる。

 迷宮のような路地裏一帯は、ファングの半グレ達によって人払いがされていた。掩護えんごが来ないのは、邪魔だから介入してくるなと釘を刺したからだった。それだけ大口を叩いてこのザマだから、我ながら情けないと自嘲する。

 深傷ふかでを負ったものの、仕事を諦めるつもりは毛頭なかった。今を逃せば、次いつ捕まえられるかわからない上に、真っ向勝負では勝ち筋はない。

 ドアや非常階段はいくらでもある。ピッキングしてどこかに潜み、十八番おはこの不意打ちで仕留めるか。それとも──


「……ッ!」


 全身が粟立つ。

 僅かな空気の変化を察した皮膚が警告したのだ。


 ──来る。


 そう思うよりも早く、浪川は反射的に物陰へと身を転がせた。

 彼女の寄りかかっていた壁が大破したのは、そのすぐ後だった。


 






「ふぅ、スッキリした……っておい居ねえじゃんか」


 セメントの粉塵とガスの黒煙の中に、その痩躯そうくは超然と佇んでいた。焦げた悪臭を振り払いながら、犬飼は全神経を総動員して周囲を警戒する。

 不可思議な動き。

 血の臭気。

 空気の乱れ。

 異音──

 五感で感じるそのどれもが、そこにはもう誰もいないと告げていた。

 血の臭いを頼りにこの場所までやってきた。無論、普通に近づいたら即座に射殺なり何なりされるので──十成のNEIGHBORネイバーを模して、壁を突き破ってド派手に参上した次第なのだが、それがあだとなったらしい。


「んだよ、隠れんぼしやがって。ガキの遊びで喧嘩してんじゃねんだよこっちは」


 しかし、さっきまで確実にここに気配はあった。ここからすぐに離れられる筈はないのだ。

 犬飼は氷の溶けかけた左手をもう一度凍らせて、狭い路地を無防備に散策した。慢心や油断ではない。手負いの暗殺者が、無理に標的を追いかける道理が見当たらないだけだ。

 肩に担いだビニール傘でゴミ箱や居酒屋の勝手口などを突っつく。中に人が居る気配は、ない。


「あー……え、これ消えたんか? マジで?」


 自分の感覚が間違っているとは思いたくないが、完全に気配を消せるのならば、こっちが不利なのは明白だ。最初も、彼女が背後で銃口を押しつけてきたのに全く気が付かなかった。


「んー、でもこの辺に居る筈なんだよなー。どーこ行ったんだアイツ」


 そこより遠くにある訳がないのに、見当たらない。まるで住み慣れた自室でスマホを紛失した時と似たような気分になり、変な焦りが押し上げてくる。

 どこかに潜んでいるのは確かで、それっぽい息遣いは、感じなくもない。しかしその出所でどころはどこからなのか特定できない。犬飼はキョロキョロと四方を見回した。

 そして──その息遣いは突如、殺気を伴って迫った。


「……うおっ!?」


 予想外の方角──頭上からやってくるソレに、犬飼は思わず身構えたが、間に合わなかった。

 浪川は犬飼の上に飛び乗り、蛇のように脚を首に巻きつけて地面に押し倒した。そしてそのまま、彼の右手首を、まだ弾の余っていた小型拳銃で、ゼロ距離で撃ち抜いた。


「がッッ……ッッ!?」


 絶叫を、浪川は即座に封じた。犬飼の口に、拾ってきた雑巾を押し込んで黙らせたのだ。

 浪川は弾が底をついた小型拳銃で後頭部を殴打しながら、腰の力で勢いよく犬飼を地面に叩き伏せる。そのままローブの切れ端で犬飼の足首を乱暴に縛りつけた。普段なら能力を使って反撃できるが、痛みに気を取られている今の犬飼には、それもできない。すぐに手早く両足首をタオルで固定された。

 犬飼は四肢の自由を完全に奪われた。力が入らない以上、能力も使えない。


「んんん──ッ!! ンンン!!」


 地面に芋虫のように蹲りながら、犬飼は怒声を吐こうと必死にもがいていたが、全ては口に詰め込まれたタオルに封じられた。浪川は構わずにスマホを取り出し、人払いをしている構成員に短い連絡をして、電話を切った。


「……ふう」


 一息吐くと、全身に汗が張り付いているという事実に初めて気がついた。引き金を搾る手に汗が滲む経験ですら、ここ最近はなかった。犬飼氷実を捕縛する中で、全身が常に緊張していたのを実感して、柄にもなく安堵していた。


「ホンマ……手間ァかけさせてくれるわ。クソ野郎」


 転がった犬飼を一瞥して、勝利宣言じみた無駄口を叩く。そんな態度を取る事は、自分でも珍しいと思った。

 浪川は手持ちの結束バンドで念の為犬飼の腕を拘束し、喉に突っ込んでいたタオルも引っ張った。タオルを呑み込んで窒息自殺を計られてしまっては、元も子もない。それにここでは、誰も犬飼を助けには来ない。


「んぷはぁ! はぁ、はぁ、はあぁぁ……」


 喘ぎながら、獰猛な目付きで浪川を見上げる。

 恐怖と興奮で開いた瞳孔。それが浪川には、瀕死の狼を想起させた。

 浪川は投げた小型拳銃を拾うと、道に転がったコンクリートブロックに腰をかける。


「逃げようなんて考えん方がええで。お前の手足をもっぺん折るぐらいは朝飯前や」


「ハァ……ハァ……誰も逃げようなんて考えてねぇよバーカ。テメエの首をどうやってもぎ取って事務所に飾ってやるかしか興味ねぇんだよこっちは」


「……」


 浪川は身動きも取らなくなった犬飼から、それでも目線を逸らさぬまま身体の力を抜き、ストレッチをした。臨戦に応じて調整された全身の筋骨が、緩やかに元来の形へと戻っていく。この感覚が、嫌いではない。

 五分もしないうちに、バンが側まで到着する。そうなれば今回の仕事も終わりだ。


「ったく。そんじゃおい、俺をどこ連れてくかぐらい言えよ。そんぐらい喋る義理はあんだろ」


「知らん」


 犬飼の無駄話は、一刀にして伏された。実際、浪川も詳しく知らない。岸風が彼をどうしようが、外様とざまの彼女には関係ないので、興味もなかった。

 犬飼は「はあああ……」と聞こえよがしの溜息を吐き出して、


「わかった。そんじゃ話題変えるけどさぁ……お前、どうやって上登ったんだよ。その脚じゃ、非常階段使って屋上に登る暇なんてなかっただろ」


 瞬間、浪川の目付きが一層警戒で鋭くなる。あの目紛しい殺し合いの中で、犬飼も一応、考えるべきことは考えていたらしい。


「聞いてどないすんねん、ソレ」


 逃げるような言い草で、犬飼を煙に巻いた。


「どうもこうもねえよ。いいだろ、俺もう負けたんだからタネ明かししたって」


「知りたかったら自分で考えろや」


 黙って無視すれば良いものを、妙に口数が増えてしまっている自分に、浪川は驚いていた。実際ソレを看破されたとて大した問題ではないので、話してしまってもいいのだが、嫌な予感がして、それははばかられた。

 不揃いな足音がやってきた。全員が牙の形をしたアクセサリーを身体のどこかに飾っている。それはある意味、この池袋のアンダーグラウンドの通行手形のようなものだ。


「お、迎えが来ちまったなァ。もうちょい話したかったのに」


 犬飼は牙を剥いて男達を睨むが、四肢の自由を奪われた青年を怖がる者は誰もいない。ある者は個人的な怨みでもあるのか、たんを顔に吐き捨てていた。

 それでも、汚れた顔で、相変わらず意味深な笑みを浮かべる犬飼は、かえって不気味だった。


「おい、顔を触るんじゃねえ、噛んだら痛えぞ」


 そんな小言にも構わず、男達は犬飼を担ぎあげて、外へ停めたバンへと運ぼうとする。

 不意に、鼻をつく焦臭。

 浪川は、周囲を見回した。犬飼が破壊した壁からは、狼煙のろしのような黒煙が空に柱を立てている。だが、これじゃない。この焼けるような臭いは、こんな派手なものではない。


「……まさか」


 最初から、疑問に思うべきだった。

 否、犬飼を獣だと思い定めることに没頭して、本来払うべき注意を蔑ろにしていたと言っていい。

 例えば、マンホールから打ち上げられた巨大な氷壁を、いとも容易く粉砕した時。

 そして、壁を破壊した時。

 何故、それらの派手な行動が、彼に可能だったのか?


「……ああ、迎えが来ちまったよ」


 犬飼を運んでいるチンピラ達も、その臭気に鼻を突かれたのか、辺りを怪しげに睨みつける。

 そこの誰もが、とは気がついていなかった。

 

「テメエらの、天国からのお迎えがなァ!!」


 気がついたら、犬飼の足首を硬く固定していたタオルが火だるまになり、爆ぜた。

 それを目眩しにして、犬飼の爪先が、足を運んでいた男の顎に叩きつけられた。顎関節が曲がる感触が爪先に届くと、男は白目を剥いて地面を転がった。

 その勢いのまま、肩で犬飼を担いでいた大柄な男に頭突きをかました。

 そして男の両肩に乗り、飛び降りながら開脚のように、左右にいる二人の男の顔面に靴の底を叩き込んだ。

 数本の歯が潰されたのか、二人は口を抑えて痛みに悶えてる。


「畜生……!」


 浪川は心中で、痛烈に己のミスを恥じた。犬飼は氷だけじゃなく、炎を操る能力を持っていると、もっと早く解析するべきだった。判断材料は、交戦中にいくらでもあったのだ。

 炎を操れると知っていたら、タオルで脚を縛るような真似もしなかった。氷と違い、炎はほんの微々たるものでも、燃え移っていけば甚大な火力になる。

 つまり、少し足首に力を入れ、ちょっと火をつけただけで、簡単にタオル全体に燃え広がってしまうのだ。

 犬飼は、脚に赤白い火の粉を纏い──


「そんでもって……テメエは天国じゃねえ、地獄行きだぜ女ァ!!」


 瞬間、一気にそれらが弾けた。

 黒煙と粉塵。撒き散らしながら、犬飼は火炎の爆風で迫る。

 純粋な脚力とは、比べ物にならない。

 爆発による跳躍は、音さえ置き去りにして彼我の距離をゼロにした。

 そしてそのまま、膝の一撃が浪川の眉間へと迫り──




GETゲット




 低く、地を這うような声が、耳元をつんざいた。


「──あ?」


 犬飼の膝蹴りは、虚しく空を切った。

 確かに、顔に当たる筈だった。しかし膝先は彼女の横っ面を掠めるに留まり、犬飼はそのまま猛烈な勢いですれ違っていく。

 何が起きたのか。

 どうして何も起きていないのか。

 青天の霹靂へきれきが駆け巡り──犬飼は何が起きたのかついぞ理解することもできぬまま、路地奥のアスベストの壁面に顔面を強打した。

 頭の中が混ざるような錯覚の後、そのまま昏睡するようにして、彼の意識は暗転した。

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