叛逆
犬飼が産まれて初めて『喧嘩』の土俵を超えた戦いを実感している最中。浪川の心中もまた、複雑なものになっていた。
自分は余裕とばかりに無駄口を叩いてみせたのも、焦りの現れである。
犬飼が思わぬ抵抗をしてきたのに驚いたのは、寧ろ浪川の方だった。犬飼の反撃は、言ってしまえば単なる悪あがきだ。誰だって死の恐怖に
それにしても犬飼の奇襲には無駄がなかった。手首を折られてから地面に抑えつけられるという、コンマ十秒にも満たない間に、『氷柱でガラ空きの脇腹を刺す』という最善の判断を、一瞬の迷いもなく下した。
「……っへへ」
次の手を思案している最中、不意に犬飼が失笑した。
「?」
頭に疑問符が浮かんだ。犬飼の笑い声が、今までのような敵意に満ちた狂犬の笑みではなく、無邪気な子供のそれだったからだ。
「そっかー……岸風か。俺を殺せっつったのは」
呑気な口調で言いながら、犬飼はもう要をなさない左手の手首を掴み、瞬時に凍結させた。
血流。疼き。それら全てが、暴力的な冷気の前に静止した。
感覚も凍らせた以上、もう手の痛みはない。
「だったら尚更死ねねぇな。アイツから貰った命を無駄にはできねえしよ」
それだけ吐き捨てて、犬飼は拳を握りながら疾駆した。
「……っ!」
跳躍。
眼前に迫るまでの刹那。浪川はナイフを構えて、無防備に差し出した右手首にそれを
しかし、それは叶わない。
犬飼が殴りかかる寸前、彼の左脚に僅かに霜が付いているのが見えた。
浪川は悪寒に従い、上半身を仰け反らせる。
一閃。
浪川の前髪を、何かが斬り落とした。
犬飼の右手ではない。彼の左脚から繰り出された、氷の刃を
「……そうきたか!」
地面を凍らせて滑ったり、動きを封じたりという手には対応できたが、脚そのものを氷で武装するというのは、今までにないパターンだった。
浪川は不本意に切り揃えられた前髪を撫でながら、犬飼を観察した。
蹴り、殴り、蹴り。
間断のない猛攻を、ナイフと傘で辛うじて捌く。そうしている間にも、犬飼は徐々に勢いづいている。
犬飼も、自分が狩られる対象だと気がついたのだろう。だからこそ、次の一手を指させる間もなく短期決戦を狙っている。
法則性がある筈だ。どんな獣にも習性があるのと同じように、この無尽蔵に思える猛攻にも、ソレある筈。それさえ看破できれば、そこが逆転の糸口になる。
「……クソッ!」
しかし、解析している間にもその猛攻は密度を増す。
寸前で凌ぎながら、一つの法則に気がついた。
急所を狙った必殺の一撃と、こちらの余力を摩耗させる為の連撃を、犬飼はほとんど交互に行っていた。
首を討とうと喉に刃を突き立てたかと思えば、小手調べのようなジャブを放ち、頭をかち割ろうと脚を振り上げた直後の隙を、足払いで誤魔化したり、多撃必倒と一撃必殺を織り合わせているのだ。
次に、どうやってその二つのパターンを使い分けているのかを推測し──
「ボーっとしてんなよ、死ぬぜ」
加速していく手数に追いつけず、ついに腹部に回し蹴りがめり込んだ。
瞬時に受身の体制を取る。
だが、遅い。
浪川の身体は十メートル以上後方へと吹き飛ばされ、そのままゴミ袋の山へと放られた。
内側を揺さぶられ、遅れて吐き気が込み上げる。しかし、今のは致命傷を狙ったものではないことだけは察してた。
つまり、順当に考えれば、次に来るのが必殺の一撃。
浪川が顔を上げると、犬飼は
逃げようにも、蹴りのショックがまだ全身を麻痺させている。首を横に動かすのも、間に合わない。
それでも、浪川は悟っていた。
自分はまだ、死なない。
「──んぐっ……がはっ!?」
直進する犬飼の口から呻きが溢れた。
不意に胃から迫り上がる不快なモノに耐えきれず、直後、犬飼は路上にぶち撒けた。
先刻まで浪川を抹殺する事しか考えていなかった脳が、真っ白に染まった。
吐瀉を続けながら、犬飼は明滅する思考をなんとかまとめようと試みる。
おかしい。
おかしい。
絶対におかしい。
浪川は動けなかった。
俺は動けた。
なのにこのザマはなんなんだ。
わからない。わからない。
犬飼はバラバラになった
だが、その答えは考えるまでもなかった。
「……え」
腹部──もっと言えば鳩尾。そこに深々とめり込んでいるのは、白いビニール傘だった。
「……ええ、いやいや嘘だろソレは」
トリックは明快。
直進してくる犬飼の鳩尾に先端がしっかり食い込むように、浪川はタイミングよく、足元に転がった武器の傘を軽く蹴り上げただけ。
そして傘の取っ手が地面に落下したと同時に、先端が腹に食い込んだ。
そのまま、犬飼は自分の推進力で自分の腹を圧したという、単純な理屈。
胃の中にあった昼ご飯を、
無理な追撃はせず、浪川は姿を眩ました。賢明だと、犬飼も思った。ゲロっている隙に殺そうとしてきたら、自分は痛みさえ押して反撃しただろう。
「クソ、やってくれるわあの女」
痛みを抑えながら、四方を囲う薄汚れた壁を見回す。
人の気配はない。しかし、隠れられる場所ならどこにでもある。この裏路地は暗殺にはうってつけだと、犬飼でも理解できる。
どこに殺意が潜んでいるのかさえ判別のつかない、死の迷宮。しかし死を恐れて立ち往生している訳にも行かず、犬飼は渋々動いた。
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