狩られるのは
犬飼と浪川が睨みあった状態で固まって、一分が経過していた。
浪川は視線を逸らさず、犬飼に拳銃を向けたままだった。獣相手に軽率に背を晒せば、喰われるだけ。それは殺し屋稼業の合間にやっていた狩猟でも、そうだった。
顎先を、汗が流れる。
「なぁ、そろそろ撃てよ。退屈で死にそうなんだけど」
殴り合うきっかけが欲しいのか、犬飼は退屈そうに背伸びしている。彼にとっては、これも遊びに過ぎないのだろう。
浪川もいい加減に嫌気が差していた。無論、それを脱する術は幾つかあるのだが、どれが最も有効なのかが予想しにくいのだ。
今のところ最善の手段は、二つ。
手ぐすねを引いて、この獣が痺れを切らすのを待つか。
こちらから仕掛けて、例のアレを使うか。
前者は安全策だが、最善とは言い難い。今は遠くに誘導しているとはいえ、事を察した十成綾我が、いつこちらに向かうかもわからないのだ。
反面、後者は実用性がある。犬飼はまだ、こちらの罠に気がついていない。恐らくは、何故この場所を選んで誘導したのかさえ気がついていない。
もっとも、今の仕事は『始末』ではなく『捕獲』だ。犬飼に致命傷を負わせてしまっては仕事にならない。
「……」
浪川は無言の後に、決断した。
この男は獣だ。ただの人間のように、戦って負けを認めるような口ではないのは、先刻も思い知った通り。
ならば、犬飼氷実には手心は不要。
どの道、全力の殺意で以ってかからなければ──捕獲なんて夢のまた夢だろう。
浪川は自分の位置を確認するために、小型拳銃を突きつけたまま、後ずさった。
犬飼は動かない。勘が、前に出たら死ぬと告げていた。
「……チッ。まだかよ」
浪川は──仮にここが湖面だとしたらなら、水面に波紋すら起こさせないような慎重な足取りで、一歩ずつ引き下がる。
そして、その靴裏がマンホールの蓋に擦れて、錆びついた音を鳴らした。
次の瞬間、浪川は一気に脚を踏ん張り、その弾みでマンホールの蓋が宙に舞った。
「!」
仰天からか、それとも警戒か。棒立ちだった犬飼の瞳孔が、形を変えた。
その視線は、回転しながら跳ぶマンホールを凝視していた。
正確には、そのマンホールの蓋裏にテープで貼ってあるサブマシンガンに、目を奪われていた。
浪川は回転するマンホールに手をかけ、サブマシンガンのグリップを握り、引き剥がした。そして、
この間、時にして一秒にも満たない。
「
小声でそう呟く。瞬間、路地裏を無数の閃光が迸った。
小さな銃口が、激しい点滅と共に九ミリ弾の雨を降らす。四方八方へと散乱したそれらが、丸腰の犬飼を取り囲むように襲いかかる。
彼我の距離は十五メートル。サブマシンガンの一般的な有効射程ギリギリの距離で、犬飼を殺すまでは行かなくても、数発当てるには十分の距離と弾数だった。
「わかってんだよ。そんぐらい」
しかし、犬飼は無数の兇弾に睨まれても尚、その余裕を崩さない。
「テメエがそのマンホールになんか仕込んでんのは、引き下がった時から知ってんだ。逃げる時に、そんなに足取りを慎重にする馬鹿はいねえよ」
そして、弾丸が犬飼の目睫まで迫り、その身体を貫く寸前。
今度は犬飼の前にあるマンホールが──大きく水を噴射して弾け飛んだ。
「ッ!?」
浪川は思わず息を呑んだ。
なにも、彼女は反撃を覚悟してない訳ではない。寧ろこの状況で、犬飼はなんらかの行動を起こし、窮地を脱することぐらいは織り込み済みだった。
だが、これでは余りにもスケールが違う。
まさか、自分が不意打ちするのに備えて、
「……ッ」
犬飼は手だけではなく、足からも物を凍らせることができるという事前情報を、もっと意識するべきだったと、浪川は己の甘さを悔いた。
鯨の潮吹きのような水飛沫は瞬時に氷結し、氷の盾と化して犬飼を守護した。九ミリ弾が鉄壁の氷にぶつかり、跳弾し、辺り一帯の壁に歪な弾痕を張り巡らせている。
浪川は自身にも被害が及ぶと判断し、咄嗟に引き金を緩め、サブマシンガンは薬莢を吐くのを止めた。
遅れて無数に響いた発砲音も停止すると──今度は腹まで響くような爆音と共に、氷の壁が
束の間、辺り一帯が黒煙と白煙で満ち、氷の破片が、薄汚い路地裏を彩った。
そして、その煙と氷片の中から、犬飼が豹じみた跳躍で姿を現した。
「今度はこっちの番だぞゴラァ!!」
犬歯を無邪気に輝かせ、気炎に満ちた眼孔で、飛び散った破片の一つを手に取った。全長七十センチ程度の、槍のように先端の尖った凶器を、浪川の顔に突き立てる。
浪川は、咄嗟にサブマシンガンを盾にして受け止めるが。放たれた氷槍の刺突は、易々とカーボンスチール製のフレームを貫通した。
その華奢な肉体からは想像もつかない破壊力で銃がガラクタになると同時に、浪川はスボンのベルトから軍用のサバイバルナイフを取り出して、至近距離にある犬飼の無防備な手首を狙う。犬飼も尽かさず、氷で生成したナイフで、その刃を受け止めた。
しばし、二人はまた睨み合う形となってしまった。
今度は拳銃を突きつけられた状態ではなく、互いに刃を交えた状態での膠着だった。
「……」
「……」
「……なぁ、なんでお前全然喋んねえんだよ」
「……なんでそんなにうっさいのか、こっちが聞きたいぐらいや」
持ち手にかける膂力を拮抗させたまま、雑談感覚で威嚇し合う。ギリギリと、氷とナイフの刃同士が焦ったそうに歯軋りする。
二人は視線に火花を散らせながら、話を続ける。
「うるさかろーが俺の自由だろ、喋んのはテメーの方だよ。なんで俺を殺しに来た。目的は?」
「クレームは上に言え。何遍も同じこと言わせんなや」
「まーたその一点張りかよ……オメーじゃ話になんねーから上の名前教えろ」
浪川は、少しだけ視線を逸らして考える素振りをした。単なるブラフではなく、本当に言うかどうかを考えている目付きだった。
やがて浪川は鼻で笑うようにして、犬飼と向き直った。
「教えたる。今回のウチの雇い主は……」
犬飼は、特に関心もないから名前だけ聞いて、後は聞き流すつもりでいた。取り敢えず責任者さえわかれば、誰を殴ればいいのかがハッキリするからだ。
「
「……は?」
しかし──浪川の口から告げられたのは、今ここで、犬飼の最も聞きたくない名前だった。
その時、ほんの僅かに犬飼の膂力が弱まった。
浪川も、満更嘘をついている訳ではない。直接命を下したのは貴羽だが、その後の犬飼の拘束、及びそれを利用した十成との交渉に関しては岸風の管轄という運びになっている。
ならば、雇い主は岸風というのも、あながち間違いではない。
犬飼も、浪川が
その隙に乗じて浪川は、足元に棄ててあったビニール傘を、マンホールを踏み上げた時と同じ要領で思い切り踏みつけた。
「……ヤベッ!」
呆然としていた犬飼はすぐに我に戻ったが、しかし先んじたのは、浪川の方だった。
浪川は宙に舞う傘の柄を、ナイフを握っていない左手に取ると、その先端を犬飼の喉元へと突き立てた。
「────ッッ!?」
気道を押し潰され、声にならない絶叫が腹の中でこだました。
浪川が傘の先端で突いたのは、正確には喉仏の下にある小さな窪み、
すぐ奥に気管があるから、ほんの軽い力だけで敵の呼吸を乱せる。ましてや思い切り突こうならば、その最奥にある頸動脈までもを潰され、忽ちに命を落とす。
ぐにゅり、と、身体の内側が直に圧される実感。内臓を掌で掴まれるような異常感。
「──ックソがァ!!」
幸運にも喉に突き立てられる寸前、犬飼は本能的に後方へと一歩脚を引いていた。
すぐに脚に力をこめて、地表面に氷を形成する。そのまま滑って後退し、距離をつけて戦況をリセットしようとした。
しかしその好機を見逃す彼女ではない。浪川は喉の皮膚に傘を突き立てたまま、同じ速度で氷の上を滑っていき、そのまま対象を壁面に叩きつけた。
「ぐっ!」
喉を潰される。叩きつけられる直前、咄嗟にそう察した犬飼は、傘を右手で掴み気道を逸らせた。
しかしそちらに気を回していた隙に、浪川は彼の左手を掴む。
そしてその関節を──本来の向きではない方へと、力任せに捻じ曲げた。
「ッッ……がああああああああ!?」
ごり、と、関節同士が摩り潰される異音が響いた瞬間、断末魔のような怒号が轟く。その雄叫びも、辺り一帯を覆い尽くす室外機の音に虚しく紛れるだけだった。
鉛を打ち込まれた鹿や猪のように発狂する犬飼を、浪川はそのまま床に押し倒した。痛みで我を失った彼を組み伏せるのは、容易いものだった。
それでも犬飼は、その血走った瞳孔を拡大させながら抵抗を試みた。
背中から地面に押し倒された瞬間、側にあった氷の破片──長さにして二十五センチ程度の氷柱を、無事な右手に取り、
「クソがああああァァ!!」
それを迷わず浪川の脇腹へと突き刺した。
「ッ!」
重い衝撃が、身体を揺らした。
その硬い表情に、僅かに驚愕の意を示した浪川は、次の一撃に備えて身を逸らして、再び犬飼から距離を置いた。ここで確実に仕留めるのも手の一つだったのだが、
こうして二人は、三度目となる膠着へと突入した。
だが先刻の二度とは違い、明らかな戦況の変化がそこにはあった。犬飼の左手はあらぬ方へと捻られて、浪川も脇腹に深々と氷柱を刺されたのだ。
「……ハァ、ハァ……ぐっ!?」
心臓が、耳にうるさいぐらい響く。鼓動の都度、視界が一瞬赤く染まるような錯覚さえある。
右手の無事を確かめるように、今一度強く握りしめる。こっちは問題ない。
肝心なのは、左手だった。変な方を向いたまま、まるで自分のものではないかのように力なくぶら下がっていた。手首の脈が動く毎に疼き、指一本動かそうものならば更に鈍痛が襲いかかってくる。
「ハアアァ……クソ、やりやがって。けどなんとか、痛み分けって感じだなぁ?」
犬飼は余裕を装いながら、浪川の脇腹を見やる。
片方の手を失ったが、自分も一矢報いた筈……いや、寧ろ彼女の方が致命傷だろう。氷柱ではらわたを串刺しとあらば、片腕で済んだ今の自分は安いものだと、犬飼は己に言い聞かせる。
「ん? ああ、コレか」
しかし、浪川は自分の脇腹を一瞥すると、さも愉快そうに笑いながら、
その氷柱を、なんの躊躇もなく引き抜いた。
「…………は?」
犬飼の思考は、今度こそ石化した。
彼女が事もなさげに氷柱を引き抜いたからではない。
その刺突によって穿たれた服の穴には、傷痕も血もなく──薄手の布だけがある。
「舐められたモンやな。ウチが異能を殺すのに、無防備で来る訳ないやろ、ドアホ」
セーターの下に着用した防弾防刃の軍用アンダースーツを、裾を捲るようにして見せつける浪川。
それが意味するところは自明。
結局のところ、損をしたのは犬飼だけだという事実だ。
「……へへ。ヤバ、マジかよ」
取り敢えず、笑って見せた。今は笑う以外に、頭を冷やせる手段はなかった。
犬飼は、そこで初めて合点がいった。
もうこの戦いは、単なる殺し合いや喧嘩ではない。自分が知っているような、能力や腕っ節をぶつけ合うような真っ当な戦闘じゃない。
これは、犬飼氷実という猛獣を生け捕りにする為の、用意周到な狩りなのだと──浪川の真意にようやっと勘付いたのだ。
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