助手と狩人


 十成が額に汗を滲ませ、池袋を駆け巡っている最中。皮肉にも犬飼は、敵の懐へと向かっていた。

 トキワ通りを我が物顔で闊歩しながら、犬飼は過去に思いを馳せていた。


 初めて喧嘩で負かした相手は、父親だった。

 幼い頃から、自分の中に燻るものを抑えることができなかった。何かにつけて気に食わない、もしくは筋の通らない出来事があると、すぐ人に当たる性格で、その度に周囲の大人達に引っ叩かれた。

 弁護士と大学教授の両親にも酷く叱られたが、自分が間違っていると考えたことは一度もなかった。いつだって自分の心に素直に行動していただけだ。

 それでも、両親に分があるのはわかっていたので、二人に暴力を奮いはしなかった。こういう時に、中途半端に親から遺伝した賢さが邪魔に思えた。

 ある日、父親が母親に平手打ちをしているところを目撃するまでは。

 それは、我が子の教育方針に関する口論が発端だった。父親は「お前が下手に甘やかすからあいつの乱暴は治らないんだ」、母親は「あんたが無理に厳しくするからよ」といった旨の口喧嘩を、インテリな言葉を交えて交わしているのを、犬飼は耳にしていた。

 しかし議論がもつれ、両者がヒステリックになり始めた頃。父親は唐突に母をぶった。

 それを見ていた犬飼は、初めて父親と殴り合いの喧嘩をした。気がついたら縮こまりながら、やめてくれと必死に懇願する父が足元に転がって、自分の白いシャツは赤くなっていた。

 ──ああ、別に親なんて大したもんじゃないんだ。

 それ以降、犬飼と両親の溝は不可逆なレベルまで深まってしまった。

 その後は、絵に描いたような転落人生だった。親の枷から外れた犬飼の暴力衝動は留まるところを知らず、中学を卒業する頃には、まともな居場所はどこにもなかった。

 高校卒業後も碌に進路も決めず、いい加減実家暮らしが鬱陶しくなったのか、半ば縁を切る形で東京の安アパートへと引っ越し、日雇いの仕事と深夜のアルバイトで日銭を稼いだ。無論、そうでない日は池袋や新宿に繰り出しては、自分より強そうな不良に喧嘩を売り、財布を盗んでは豪遊していた。

 常に心が乾いていた。人を殴っても痛みを感じないし、店で料理を食べても、料金以下の味にしか思えない。

 結局何をしても、自分の中に残るものはない。犬飼はいつからか、自分の人生をそう割り切っていた。


 過去の回想を遮断したのは、肌の粟立ちだった。

 犬飼は今、池袋の西口公園に向かう途中だった。住宅街でも道幅はそこそこに広く、かなり人で混んでいた。

 前方に二つ。後方に少なくとも二つ以上。

 犬飼は十成ほど知恵者でもなければ、周囲の異常を把握できる洞察力も身につけていない。探偵としては致命的な欠陥だが、その代わり敵意には目敏い。

 人畜無害な群衆に扮した彼らを、犬飼は見落とさなかった。チラチラと向けられる視線と、そこに秘められた獰猛さ。恐らく普段から喧嘩がしたくてたまらないような、札付きの不良ワルだろう。

 一人が、早歩きで接近する。片手は、ポケットに忍ばせていた。

 目線は合わせない。

 そして、すれ違いざまにナイフがポケットから現れた。

 それが自分の腹を抉る寸前、犬飼は男の鳩尾に一撃を叩き込んだ。

 男は声もなく、道端に倒れた。すぐ隣を歩いていた女性にぶつかり、群衆が口々に騒いだ。

 犬飼は見て見ぬふりをして、颯爽と通り過ぎる。

 別の男が、今度はガンを飛ばしながらズンズンと距離を詰めてきた。手にスタンガン。それがアッパーで繰り出され、顎下まで迫る。

 犬飼は紙一重で避けて、男の脹脛ふくらはぎを蹴り飛ばした。男は足をもつれさせて、電柱に頭を激突させた。またもや通りがかりの一般人が叫んだが、無視して進む。

 背後から二人。挟み込むように近づいてくる。

 犬飼を追い越そうと近づいてきたところにタイミングを合わせて、両手の裏拳で二人同時に鼻をへし折った。

 また背後から一人。脚を挫かせ、尻餅をついた。正面から一人。すれ違いざまに頭突きで黙らせる。

 気がつけば犬飼の通った後が、阿鼻叫喚の絵図となっていた。そこら中に半グレが昏倒しており、通りがかりの人々が救急車に電話したり、ざわめいてる。

 無論、それら全てを倒したのが犬飼であるとは知らない。犬飼はそのまま大通りへと逃げる。

 しかし、


「?」


 それを咎めるように、後頭部に冷たい感触が押しつけられた。

 感覚から、何が押し当てられてるのかは察知できた。今自分の脳を吹き飛ばそうとしているのは、拳銃の銃口だ。

 犬飼は不貞腐れたように鼻を鳴らすと、諸手を挙げ、降参の意を示した。


「んだよ、つーまんね。殺気ぐらい読めるつもりだったんだけどなー」


 犬飼は特に焦った様子もなく、ぐちぐちと文句を垂れた。

 

「抵抗せえへんかったら、痛い目には遭わんで」


 冷徹な声に抑揚はない。しかし流暢な関西弁だった。

 そして声を聞いたことで、犬飼は背後にいるのが女だとも把握した。

 この状況で、殺気を隠したままここまで接近できるとなると、思い当たる節は一つしかない。


「テメーが『蛇』の浪川海砂って女か。ったく、俺の元舎弟をコキ使いやがって」


「アレはウチやない。貴羽のアホが勝手に寄越しただけの、ただの雑兵や」


「どーでもいいわ。それよりその物騒なモン下ろしてくれよ。こちとらバンザイしてんだぞ?」


 浪川は少し考える間を置いて、それを下げた。

 犬飼も、その機に乗じて反撃しなかった。無闇な不意打ちは命取りだと、この女の気迫から伝わってくる。

 女は、犬飼のすぐ隣に並んだ。思ったより若く精悍な横顔で、ベージュのカシミヤセーターにジーンズ、紺色のスニーカーという、多少ボーイッシュな点に目を瞑れば、どこにでもいそうな少女の風態だった。


「死にとうなかったら、黙ってついてきな」


 耳元で囁かれる。彼女はロングコートを腕に包んで持っているが、その隙間からこちらに向いた銃口が見え隠れしている。

 幸いというべきか不幸というべきか、一帯にチンピラ達が倒れているお陰で、二人が群衆の目を惹きつけることはなかった。

 犬飼と浪川は、二人で西池袋の裏路地へと向かった。西口公園とは正反対の向きで、結局逆戻りである。


「んで、何の様だよ。こないだテメーの彼ピッピみのづかをボコボコにした報復ってか?」


「アイツのことは気にしとらん。元々救いようがないクズや」


「うわマジかよ。なんだか可哀想に思えてきたわ」


 浪川は更に肩を寄せて、通路の端に行くよう強制する。女子特有のフワッとした香りに凛とした睫毛と、紺色の透き通った瞳を携えた横顔が迫ってきて、犬飼は「コイツほんとに殺し屋か?」と疑心を懐いた。

 彼女に誘導されるようにして、どんどん人通りの少ない路地へと案内させられる。


「話の続きだけどよぉ、なんで俺に用なんかあるんだよ。俺ぁもうファングの頭領カシラでもなんでもねえんだけど」


「……」


「うわ、ここでシカトかよ。マジで?」


「ウチに質問するなや。訊きたいことがあったら、上にクレームせえ」


 浪川はそれきり、また硬く口を噤んだ。事務的な会話以外は一切対応しないらしい。

 彼女に先導されて進むにつれて、道は狭く、人気のない場所へと変わっていく。時折、チンピラじみた服装の男がぶらついているぐらいだ。

 それだけで犬飼は、ここがファングの面子の手によって人払いされている場所だとすぐに察した。

 やがて辿り着いたのは、四方を雑居ビルと換気扇に囲まれた、一坪程度の狭い空間。土地の権利者が失踪したか何かで、ここだけぽっかりと余っているのだろう。

 ここなら誰の目にも触れないし、叫んでも換気扇のファンに遮られる。殺し屋が標的を撃つ場所としては、文句なしのロケーションだ。


「ほな、前出えや」


 犬飼は両手を後頭部に当て、拘束された人質を演じながら彼女の前に立つ。「振り向くな」と指示を受けたので、そのまま壁と向かい合う形となった。

 キリキリと、ネジを巻くような音。カチャリと、何かが外れる音。

 銃口に消音器サプレッサーを装着させて、安全装置セーフティを降ろし、こちらに突きつけている。音だけで、犬飼は状況を直観した。


「答えはYESかNOだけや」


 略式的な物言いで、浪川は要求した。


「黙ってウチらについてくるんやったら、安全を保証したる。もし抵抗するんやったら、力ずくや」


 暫しの沈黙があった。

 場を支配するのは、犬飼でも浪川でもなく、その二人が放つ、張り詰めた圧だけだった。もし他に誰かが居れば、その肌を刺すような空気に数秒も耐えられないぐらい、二人の気迫は拮抗していた。

 二人を取り囲む換気扇の臭気だけが、事の顛末を見物していた。

 口を開いたのは、犬飼だった。


「あのさ、まず俺知りてえことがあんだけどさ」


「…………」


 浪川は無の血相のまま、引き金を引き絞る音を鳴らして牽制した。


「わーったよ、答えなくていい。んじゃ、ここからは俺の独り言な」


 浪川は、拳銃を突きつけたままだった。犬飼に抵抗の意は感じない。


「変わっちまったよなぁ、ファング。俺が居た頃はただの粋がりなクソガキの集まりだったってのに、今じゃヤクの密売に人殺しまでやるようになっちまったってか」


「……」


「ま、今更ファングがどうなろーと俺の知った話じゃねえんだけどさ、それでも元居た身としては責任感じちゃうじゃん? 俺も組織の未来を想って抜けたつもりなんだけどさ」


「……」


「……相槌あいづちぐらい打てよ。こっちは話してんだろうが」


 浪川は相槌の代わりに、更に銃口を犬飼の後頭部へと近づけた。いい加減に決断しろ、という催促だろう。

 彼女は仕事に私情を挟んだりするタイプには思えない。つまり、彼女も極力ここで時間を浪費するのは避けたいのか。


「わーった、わーったよ。ったく、つまんねえ。ともかく俺の答えは決まりだ」


 犬飼は、両手を後頭部に当てたまま、悪臭の染み付いた地面に跪いた。テロリストに降伏するようなポーズだ。

 それが賢明だろう、と浪川は思った。仮に抵抗の意思があるにしても、銃を突きつけられているこの状況で騒ぎ立てる意味はない。

 しかし──張り詰めた空気がプツンと途切れるのを、浪川が察した瞬間、



ファングテメエらの方から喧嘩売ってくんなら話は早え。俺も一片、テメエら全員ぶっ殺してやりてえと思ってたところだぜェ!!」



 犬飼は組んだ手を解き、立ち上がる。

 それに先んじたのは、浪川の握る半自動セミ・オートマチック拳銃の引き金だった。

 プシュン、と気の抜ける音が響き、拳銃の遊底スライドから薬莢が吐き捨てられた。

 発射された九ミリ弾は高速回転しながら、犬飼の後頭部へとめり込む。刹那、彼の身体は石像のように固まったと思うと、そのまま前へと倒れ込んだ。

 仕事は、拍子抜けなほど呆気なく片付いた。浪川は宙に投げられた薬莢を地面に落ちる前にキャッチした。薬莢の落下音で誰かに気付かれるというケースも、市街戦ではままある。

 浪川は念の為、頭を撃ち抜かれた犬飼の死体にもう一発弾丸を叩き込もうと、その頭部に銃口を近づけた。


「バーカ、まだ死んでねえよ」


 突きつけた銃口が、死んだ筈の犬飼の手で握られた。

 顔色一つ変えなかった浪川は、ここに来て初めて瞠目した。即死でないにしても、能天を貫いた人間がこんなに元気な筈がない。

 犬飼の後頭部を一瞥すると、その種が明かされた。

 後頭部の髪の毛の中に、頭皮を覆うようにして氷が被さっており、その表面に弾丸が志半ばで留まっていた。

 犬飼のKOMBATコンバットは、手から氷を生成する能力。ついさっき、ひざまずく折に両手を後頭部に当てていたのは、氷の膜を張って、銃弾を防ぐ為だったのだ。


「クソッ!」


 浪川は正面を向いた犬飼の眉間に、そのまま風穴を空けてやろうかと引き金を絞ったが、小癪にも遊底スライドをガッチリと氷結させられており、拳銃は要をなさなくなった。

 浪川はすぐさま、ジーンズに入れていた予備の拳銃を抜いた。

 全長十五センチ程度の小型拳銃であり、安全装置セーフティが省略されている為、都度それを外す手間もない。すぐさまそれを犬飼の眉間に突きつけ、続けざまに発砲した。

 しかし、それも犬飼は紙一重で避け、お返しとばかりに浪川の顔に頭突きをお見舞いした。


「──ッ!」


 即座に後方へと大きく跳躍して、犬飼との距離を取った。ぶつかった直後に後退した為、顔への衝撃はかなり和らげた。

 犬飼は何事もなかったように悠然と立ち上がり、首の関節を鳴らしながら、血気に逸った目付きを向けた。


「ったく、急に撃ってくんじゃねーよ。騒音出したら近所迷惑だろーが」


「……」


 浪川は、もう一度犬飼に銃口を向けるが、今の犬飼には殺気がない。狩りを中断した肉食動物のように、完全にリラックスしている。

 彼が緊張しているのは、戦っている最中だけだと浪川は勘付いた。交戦時だけ全身に力を入れて、そうでない時は力を抜くという野生児じみた緩急を、犬飼は自在に使いこなしている。

 浪川は、拳銃を握る手に軽く汗が滲むのを覚えた。直感と、今まで積み重ねた知識が、この男を人間ではないと主張している。

 これは、人間同士の殺し合いではない。狩るか、狩られるか。狩人と獣の戦いだと、浪川は思い定めた。

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