探偵の日常/助手の気まぐれ

 昼下がり。長閑のどかな西池袋二丁目の住宅街の一角に、その探偵事務所は佇んでいた。

 ビルの二階、道路に面した窓には『なんでも相談! 隣人倶楽部』と、やたら明るいフォントのステッカーが堂々と貼られていた。探偵業と何でも屋の二足の草鞋わらじで生計を立てているこの事務所は、同時に、何故か近隣住民のお悩み相談所でもあった。

 内容は様々で、「仕事がうまくいかない」だの「彼氏と別れたい」だの「おもちゃが転売ヤーに買い占められて手に入らない」だの、おおよそ探偵に相談するものではないのが大半だったが、それでもどんな話でも否定せずに応対してくれるからか、相談者は後をたたない。

 ちなみに全て無料なので、全く利にはならない。それどころかいたずらに時間を浪費するので寧ろ損なのだが、暇さえ潰せれば十成としては充分だった。

 そんなこんなで、今日も適当に相談を捌いて、平穏に一日が終わると思われていたが──


「多分……ストーカーかもしれないんですけど」


 そうは問屋が卸さない事態である。

 コーヒーを啜る十成の前で縮こまっているのは、近隣の女子校に通う、十六歳の高校生で、名前は美春みはる。最初は家族に関する相談だったのが、雑談する中で話が逸れていき、いつの間にかストーカーの話へと変わっていた。

 無論、ここから先は『お悩み相談』で終わりそうもない。ストーカーとの戦いとなれば、それはもう『探偵』の領分である。

 十成はカップを机に置き、給湯器をチラ見する。


「お茶、新しく淹れようか」


「え?」


 言われて、少女は差し出されたお茶が冷めてるのに気がついた。お茶請けのどら焼きにも、途中から全く手をつけていない。

 十成は席を外し、すぐに温かい緑茶に取り替えた。


「ほら、お菓子も遠慮しないでいいから」


「そんな、遠慮だなんて……私、こんな図々しく相談させていただいてるのに」


「寛いじゃっていいよ。このご時世、客なんて暇人か野良猫しか来やしないんだから、いくらでもゆっくりしてくれ」


「野良猫って……フフッ」


 美春は間の抜けた失笑をして、促されるままにお茶を飲む。十成が金鍔を食べると、釣られるようにお茶請けに入ってたどら焼きをもう一つ頬張る。甘くて、お茶に合う優しい味がした。

 それで、少し強張った心が解れたようだった。切羽詰まった色は、もう見えない。


「ありがとうございます。ちょっと落ち着きました」


「あんま無理に話さなくてもいいよ。僕も暇だし」


 こう言うと、決まって相談者は気を遣って本題を打ち明けてくれる。あまり褒められた手法ではないが、十成は多用していた。

 美春は半分ほど残った湯呑みを置いて、座り易いように腰の位置を調整する。


「……最初に気がついたのは、一週間前、家までの帰り道でした」


 錆びれた鉄の扉を開くような語り口だった。

 曰く、一週間前から毎日、どこに行くにも同じような人影を視野の隅に捉えてしまうらしい。最初の二日ぐらいは気のせいだと考えていたらしいが、それ以降も明らかに同じ顔の男を目撃する回数が増えた。実は、今日ここに来る道中でもその視線を感じたという。


「男の特徴は? 思い出せる範囲でいいから」


 努めて優しくたずねたつもりだが、どうも自分の語調にとげがあるのを、十成は感じていた。どこか嫌な予感がする。


「背は多分、私よりちょっと高いぐらいで。いつも黒いキャップに黒いジャケットを羽織ってたと思います。それと……」


「それと?」


 少女は瞳を斜め上に向けて、思い出したくもない男の姿を必死に思い浮かべている。


「……なんか、耳に変なピアスつけてました。白い三日月みたいな」


 その情報で、十成は完全に合点がいった。

 一週間前、そして三日月のような──正確には牙を模したものだが、間違いはない。ここ最近美春を尾けているのは、一週間前、十成が暁夜からの依頼で一悶着した元カラーギャングの半グレ組織『ファング』の構成員だ。


「男の顔に、心当たりはない?」


「いえ、全く。だから余計に怖くって」


 首を横に振った。視線や表情筋に、嘘をついている人間特有の挙動不審さは感じられない。

 彼女と面識がないという情報を鵜呑みにするなら、つまりファングが狙っているのは自分。──美春を追っているのは、彼女が隣人倶楽部の常連客だからなのか。

 これはファングからの最後通牒であり、宣戦布告。彼女をストーキングしているのは、十成を炙り出す為だ。

 ギリ、と、知らずのうちに歯噛みをしていた。

 自分が憤怒を懐いているという事実に、当の本人が驚いていた。こんな感情を覚えること自体が久方ぶりだったからだろうか。


「あのー、探偵さん?」


 自分が一体何故苛立っているのかを考える前に、美春の声で我に帰った。今はとにかく、彼女を半グレ共から護るべく動かなければならない。

 そう決めて、十成はとっくに冷めたコーヒーを一気に飲み干した。


「ここに来るまでの途中でも気配を感じたんだよね? 今日は家まで送るよ」


「え!? そんな、大丈夫ですよ。危ないですし、そもそも私の勘違いかもしれないのに……」


「さっきも言ったけど、僕は暇だから大丈夫。それに、ストーカーに最も効果覿面てきめんなのは集団行動だしさ」


 申し訳なさそうに口籠もる美春をなんとか説き伏せて、十成は身支度を整える。例によって、いつもの革ジャンを羽織り、その上に更にベージュのコートをまとった。

 変装用のベレー帽も被って、十成は入り口前の鏡を眺める。「このファッションでパイプまで蒸したら、完全にシャーロック・ホームズだな」と自嘲した。

 少女は申し訳なさそうに、鏡の前でポーズを決めている十成の顔を覗き込むと、「ちょっといいですか」と質問した。


「先に、探偵さんの車の前で待ってた方がいいですか?」


「今度はその娘を殺すんですね。遠野さん!」


 耳に届いた余計な声は無視した。十成はもう一度鏡に向き直り、服装を整える。

 鏡に写っていたのは、皮膚を焼き尽くされ、誰かもわからないぐらいに全身が爛れた女だった。

 否、誰かもわからないなんて大嘘だ。

 知っている。彼女が誰なのか。

 例え肌が爛れようが顔が消えてようが、二度と忘れられない。もう二度と見れないのに、いつでもどこでも脳裏にこべりついて離れない顔。


「……うるさいな」


 両手で頬を叩く。数回瞬きをすると、それは消え、鏡は真実を写すという本来の役目を思い出したようだった。


「いや、徒歩で行こう。たまにはゆっくり街を歩きたいし」


 少女は怪訝そうに見つめていたが、すぐに笑顔に戻り、十成と共に事務所を出た。アパートの廊下を進み、階段を降りる。土曜日にしては、住宅街は随分と閑散としていた。


「あ、そういえば今日居ないんですね。銀髪の人」


 頼れる大人と一緒に歩いているお陰で、心細さもなくなったのだろう。美春はいつも通りの陽気さを取り戻して、十成に話題を振った。

 対する十成は、彼女を心配させぬよう、いつも以上に声を元気に張り上げて、


「ああ、犬飼? あいつは今バイト中」


「へえー、色々やってるんですね。探偵助手の他には、何されてる方なんですか?」


「今日はー、うーん……目白で清掃のバイトって言ってた」







「ほぉらお掃除の時間だぞー、ゴミ野郎!!」


 同時刻。犬飼は池袋郊外にあるボロいアパートで怒声を上げていた。

 隣人倶楽部は、基本的にどんな依頼でも受け付けている。善良な市民からネコ探しや草むしりを頼まれる場合もあれば、ヤのつく自由業の使いで借金の取り立てを手伝う日もある。

 そして犬飼は、とりわけ後者の依頼を請けることが多かった。常連曰く、「傷が残らない程度に痛めつけるのが上手い」とのこと。


「ふ、ふふ、ふざけんじゃねえぞテメェ! お、俺の顔に傷つけやがって。出るとこ出るぞこの野郎!」


 不運にも犬飼に取り立てられた男は地面に転がり、顔を痛そうに抑えながらも尚彼に立ち向かわんとしている。無論、痛みはかなり与えているが、傷という傷は一つもつけていない。


「おーいいじゃん、出るとこ出ようぜ。法廷バトルしようぜ俺らで。お前が三股してるせいで破産寸前なのもバラしちまうけど問題ねえよなァ?」


「そ、それは今のとは関係ないだろ!? とにかく、今は返せないんだ、帰ってくれ! 来週には臨時の副収入も入るからさ!」


「三股バラされたくない、法廷にも行かない、金も返さない……お前さ、世の中そーんなに甘かったら誰も苦労しねえよ。山ほど女に金使って、借金重ねる馬鹿を生かしてくれるほど、世間は余裕ないんですよ、わかりまちゅ?」


 犬飼は土足のままアパートの室内へと押し入る。換気していないのか、籠った湿気と生ゴミの生臭さが同時に鼻を突きつけ、げんなりして唾を吐いた。

 しかし、一見すると見窄らしい生活をしているように見えて、壁にはギターや海外のメタルバンドのポスター、他にも新宿の路上で高額で売られてそうなクロムハーツや、身の丈に合わないハイブランドの香水が転がっている。

 犬飼はゴミでも拾うように無造作に取り、自分の身体に吹きかけてみる。中年が加齢臭を誤魔化す為の香りが広がり、嫌そうな顔で投げ捨てた。


「オイオイ、バカみてえに買ってバカみてえに貢いでんな、田中クンさァ」


「勝手に使わないでくれよ。大事にしてくれ」


「わーってるよ。じゃあこっち使うわ」


「それなら別に……って俺の財布!?」


 犬飼の手には、いつの間にか田中の財布が握られていた。最初に鼻っ柱を殴って彼が悶絶していた隙に、ポケットからくすねたものだ。


「あちゃーうっかり掏られちゃったな田中クン。まァでも、ほら、明日から池袋も防犯週間じゃん? ま、これもお勉強代って事で」


 犬飼はその中から容赦なく福沢諭吉を二十人奪う。雇い主から指定されたノルマには数枚足りないが、とりあえずお仕事完了。犬飼は、そのまま財布をゴミ箱に投げ捨てようとした。

 その財布の中に、見逃してはならないものを見つけるまでは。


「おい」


「な、なんだよ。俺の金だぞ返せ!」


 背後から激昂して襲いかかってくる田中を見向きもせず、犬飼は裏拳の一撃を叩き込んだ。

 実際のところ、別に強い一撃ではなかった。しかしたったそれだけで、鼻の奥にある神経を直に振盪させられた田中は、激痛に狂い悶え、蹲った。

 犬飼は真っ赤な鼻を抑えながらべそをかく田中に、ヤンキー座りで目線を合わせる。そこら辺に落ちていたワックスで、銀髪をオールバックにしていた。要するに、本気の仕事として向き合う必要があった。


「前々から思ってたけどやっぱいいご身分だよなァ、お前。ろくに仕事もしてねえのになんでそんなに女に貢げるがずっと不思議だったんだよ。──まさかファングのバイヤーとは思わなかったぜ」


 犬飼は財布から抜き出した危険ドラッグの小袋と、牙のピアスを、彼の前にぶら下げた。田中は顔を蒼白とさせて、すぐにその袋を奪い返そうとした。犬飼はその腕を掴んで捻り、地面に押さえつけた。


「い、痛い痛い痛い! やめてくれって」


「あーあー、こうなったら救えねえなァ。ま、気にすんなよ。強姦とかで捕まるわけじゃねえんだ。刑務所内カーストもそれなりにマシだろ」


「な、なんだよ!? 俺を通報するってのか! 嫌だよ、それだけは勘弁してくれよ!」


「そりゃー聞けねえ相談だなオイ。俺も善良な一小市民だしさ。それにお前も、そのぐらいの覚悟ハラ決めてこういう稼業やってんだろうが、あァ?」


 犬飼は本来の仕事を忘れていた。この男から金さえ絞れば、それ以上のことはするなと雇い主にも言われていた。下手に刺激しすぎると、高跳びや訴訟で後始末が面倒になるのだ。

 しかし、もう頭を冷やす余裕はない。

 自分がかつて治めていた組織の腐敗。それを知る度、犬飼は無力感に苛まれる。そして、暴力以外でそれを晴らす術を、犬飼は持ち得なかった。


「んじゃあどうする? 今すぐ自首しに行くか、腹括るまでここで俺とのんびりするか。好きな方決めな」


「イヤイヤ頼むよ、待ってくれって! そ、そうだ。お前も俺と一緒にやらねえか! 俺とお前で山分けして……」


「ったく、俺が何にキレてんのかわかってねえのかよ、ほんっとクソだな。お前もファングの端くれなら、俺のツラぐらい知ってんだろ?」


「え? 俺はそんな……ああっ!!」


 今更ながら、田中は犬飼が元ファングのリーダーだと勘付いたらしい。犬飼が追放されて以降、今やファング時代の犬飼を知らない構成員の方がマジョリティだった。田中もその一人である。

 すると、先刻まで媚びに媚びた田中の態度は打って変わった。余裕こそないものの口元には侮蔑の笑みすら浮かべ、口の端から息が漏れていた。


「……ッハハハ。マジかよ、冗談だろ? おりゃあてっきり、あんたはいい御隠居生活を送ってるもんとばっかり思ってたがよ」


「お喋りになったじゃねえか。テメエ、誰からヤクを仕入れた?」


「ハッ、俺が知るわけねえだろ。なんだったら拷問でもやってみろ。三野塚みたいに行くと思うなよ」


 田中は自身ありげに笑う。嘘をついてる顔ではない。本当に彼は知らないのだろう。

 犬飼は、それきり田中に興味をなくしたのか、鼻で溜息を吐いて、

 田中の右手の小指を、ポキッ、と。

 枝でも折るようなノリで、関節を逆に曲げた。


「イッッ──うおおおおお!?」


「そうかよ、仕方ねえ。じゃ拷問やーめた、代わりに憂さ晴らしだ。テメエの指全部折るまで帰れま10するから覚悟しろよ」


「待っ、テメエ、調子乗ってると痛え目に……ああっ!?」


 間抜けな声と共に、右手の薬指も折られた。最低限の力ではなく、関節同士を擦り合わせるという、最も痛みの伴うやり方だった。


「わ、わかった言うから! 頼むから三本目は勘弁してくうううんんん!!」


「女みてえな声出すなよ、SM風俗じゃねえぞ豚野郎」


「お、俺にヤクを渡した相手が誰かは知らねえ! けどいつも西口公園を中継地点にしてるから、多分そこに行けば誰かにいいいいイイイイイーッ!?」


「おー、今のショッカーみてえだな。んで、何時ぐらいに行けばいい? 続けろ」


「きょ、今日この後すぐに行く予定だった……んだけど……ふぐぅ」


 右手の小指から人差し指を折るまでの間で、大体の事情は掴んだ。ファングのドラッグ輸送ルートは、特定の責任者を中心に展開するのではなく、全員が面識のない状態で、場所を中継して運ばれるらしい。三野塚のように詳しく教えられている構成員は、やはり限られているのだろう。


「オッケー、いい子だ」


 犬飼は満足気に田中の頭をぽんぽんと撫でるが、激痛と恐怖を植え付けられた田中はそれどころではない。指を抑えたままの彼を無視して、犬飼は部屋を後にしようとした。

 すると、一つだけ訊きそびれたことを思い出し、犬飼は振り返った。


「おい」


「ひっ!? な、なんだよ」


「岸風、元気か」


 田中はその真意がわからず、一瞬茫然とした。しかし犬飼の無言の圧力に耐えかねて、すぐに質問に答えた。


「あ、ああ。岸風の兄貴は元気にやってるよ。俺は会ってねえけど……まぁ、宮崎の兄貴よりも部下には慕われてるんじゃねえかな、多分」


 それだけ知ると、犬飼は少しだけ──童心に帰ったような満足顔で笑った。


「そうか」


 犬飼は万札を乱暴にポケットに突っ込みながら、アパートの扉を足で乱暴に閉めた。

 本来ならこれを闇金の事務所まで持ち帰るまでが仕事だが、予定が変わった。

 今のファングがどうなっているのか、探偵らしく密偵しに行こうと思い立ったのだ。

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