ドラッグの真実

 視界が点滅する。目の前の景色にまるで現実感がない。手脚は自分のものではないかのように痙攣している。

 十成は呆れた様子で丸椅子に座り、三野塚を睨みつける。瞳は、敵を捕捉した猛禽のそれだった。


「いやー綾我ちゃん、よくこんなおっかない拷問思いつくね? 相手の心が緩んだ隙にビリビリとか、SMの才能あるよ絶対」


 背後から、十成でも犬飼でもない、女っぽい声がした。その声の主が誰なのかは思い出せない。三野塚は現実を認識するので精一杯だった。

 十成は、三野塚の頬を軽く叩いた。


「起きな。まだ拷問は終わってないよ」


「……知らねえ」


 十成は溜息を吐く。三野塚は思っていた以上に意地の硬い男だ。自尊心を砕いた程度では本当のことを吐いたりはしない。腐っても何でも屋、ということか。

 それでも、ここまではまだ想定内だった。

 最初の壁である自尊心は超えた。後は完全に心が壊れない程度に恐怖と苦痛を与えるだけである。

 そして、際限なく他人に苦痛を与えられる人物を、十成は一人知っている。

 視線を合わせると、犬飼はニヤリと不気味に笑い、十成と立ち位置を交代した。


「程度、見極めなよ」


「わーってるって、俺に任せな」


 犬飼が目の前に座り、睨みつけてくる。十成の猛禽の目付きとは真逆の、おもちゃを見つけた無邪気な子供のそれだった。


「……あ」


 三野塚の全身が粟立つ。その好奇心に逸った瞳だけで確信できる。

 この男は──子供がなんの悪意もなく虫や小動物を八つ裂きにして遊ぶように、人間を嬲れる男だと。

 犬飼は三野塚を見つめたまま、ジャージのポケットから何かを取り出した。百均のプラスチックのケースで、その中に鈍い銀色が光っている。


「んじゃ、ゲーム始めっか、三野塚。ルールは簡単だぜ。俺はこれ一個ずつあげるから、十個入れるまでに吐けたらお前の勝ち。吐かなかったら罰ゲームな」


 犬飼が強引に口を掴み、開かせる。舌の上に、ひんやりとしたものが乗せられているのを知り、三野塚は背を強張らせた。


「──ッ!?」


「動いてもいいけどよ、そん時はお喋りの苦手な口になってると思うぜ。やめときな」


 舌先に乗せられた剃刀の冷たさが、三野塚の心を凍らせた。

 そもそも予想していなかった。てっきり電気ショックのような血の出ない拷問を選ぶかと思っていたからこそ、三野塚もある程度は腹を括っていたのだ。

 だが、電撃で心身共に朽ちた今の三野塚には、BENDYを操る余力もないと思ったのだろう。犬飼は堂々と残酷な拷問方法を選んだ。

 二、三、四、五──次々に舌先の重量が増えていく。今の自分には、確かに能力を使える体力も集中力もない。異能を扱うには、どちらも必要なのだ。

 つまり、これはほぼ死刑宣告。

 舌に乗った剃刀の束が、徐々に心の、最後の壁を壊していく。


「あ、あああ……!」


「お喋りしたいなら、これ終わるまで黙ってろ。もう少しで完成だからよ……っと」


 助けを求めたのか、怒りをぶつけたのか、三野塚にもわからない。ただわかったのは──犬飼はどう転んでも、拷問をやめるつもりはないという事実だけだ。

 そして。十枚目の剃刀が舌の上に乗った、その瞬間、

 三野塚の下顎と上顎が、勢いよく衝突した。


「ん──!?」


 犬飼の右膝が喉に食い込んでいるとわかったのは、食らった直後だった。

 だが、問題はそこではない。

 今の衝撃で、鋭い剃刀が口の中狭しと暴れ出した。


「ッッ────ンンン! んぐっ、ぐぼっ!?」


 口の中が、即座に地獄と化した。

 歯茎、舌、唇、顎……口内のあらゆるものが容赦なく引き裂かれ、一瞬にして鉄の味が飽和する。

 決壊し、溢れるものに耐えられず、吐き出した。赤黒い血溜まりと共に、剃刀が音を鳴らして落ちる。口の中は、もうどうなっているのかわからない。頬や歯の隙間に引っかかった剃刀がいつまでも抜けず、ジクジクと追い討ちをかけている。


「……」


 もう、何もかも不明瞭だった。

 今の三野塚の心は、『何でも屋』としての矜持も、人間としての恥も剥ぎ取られた、裸そのものだった。

 この痛みから、この苦痛から解放されるなら……それ以外のことを思考するのを、脳が放棄した。

 ──ああ、結局なんだかんだと言って、俺は生きたいんだ。口ではあれだけ言ってても、結局俺は死ぬのも、痛いのも怖いんだ。

 犬飼に、口を掴まれる。痛いところに刺さっていた剃刀を強引に引っこ抜かれ、自分でも情けない声が出た。

 それを聞くと、犬飼は享楽の笑みを浮かべて、


「吐けるか?」


 と、悪魔の囁きをした。

 言葉さえ忘れかけた三野塚は、それに首を縦に振るしかなかった。

 犬飼はそれを見届けると、不服そうに壁に寄りかかった。


「だーっ、もうちょい根性あってもいいじゃん。おもんなコイツ」


 場違いに気の抜けた犬飼の声を無視して、十成は三野塚に向き直った。その隣には暁夜が立っている。

 十成は再びドラッグの袋を、三野塚に見せつけた。


「AWAKEには二つの効能がある。一つは他のカンナビノイド系とは比べ物にならないぐらい幸福な離脱症状。もう一つは──。間違いない?」


 三野塚は震えながら頷いた。


「けど、誰でもスーパーマンになれるような便利なクスリじゃない。長く吸っていると、少しずつ全身を『死の世界』に蝕まれて、そこで大半の使用者の内臓が真っ黒に腐り落ちて死ぬ。これも合ってる?」


 そう命令された機械のように、また、力なく頷いた。


「クスリなんて大抵が危険なシロモノだ。人によっては一回吸っただけで死ぬ。けど、それにしたってAWAKEコイツはおかしい。吸ったら十中八九死ぬ上に、その一部は能力に目覚める。なんでそんなものを流通させてるのか、ハッキリ答えてもらおうか」


 三野塚は魚のように口をパクパクと動かした。まるで自分のものではないように、言葉がつらつらと流れ出るのを、本人も感じていた。

 心が壊れれば、こうもなるのかと、十成は見下ろしていた。


「魔壁……魔壁宗浩まかべむねひろ。今のファングのトップはアイツだ」


 ファングのトップと聞いて、暇そうにしていた犬飼がチラリと二人を見る。自分がかつて支配していた組織がどのように腐ったのか、そこだけは興味があるらしい。


「そこの犬飼ってヤツが追い出された後らしいな……アイツがファングに来たのは。元々ヤクザだったらしいが、組の御法度に手をつけて絶縁されたらしい。ともかく、今ファングの麻薬流通を陣頭指揮しているのは魔壁だ。奴はそれで、いい思いしてんだ」


「僕が知らないとでも思った?」


「ま、まだ話は終わってねえ。魔壁は、つい数ヶ月前までは、そこらの半グレと大差ないブツしか売ってなかったが……ある時から、安く仕入れられたからっつって、あれを売るように言ってきた。俺はただ運んでるだけだが、店の奴らは困ってたな。自分らの売ったクスリで死人が出ちゃ、後味が悪いからな」


 三野塚の口調は、幾分か緊張が解けていた。先刻の三野塚とはまた別人のようだった。


「それでも俺らは止まれねえ。怖くて一部の太い客にしか、あれを売らなかったが……吸った奴らが面白いぐらい片っ端から死んでくんだぜ。それに、死んだ奴は全員『不審死』で片付けられた。俺たちが疑われても、魔壁が裏から手を回してたから、足もつかなかった」


 切り刻まれた舌で、よくもまぁ饒舌じょうぜつに喋るものだと十成は感心した。


「魔壁はそこまでの権力を持ってるってこと? でも、ただの元ヤクザにしてはおかしくないか」


「……俺もそう思ってる。けど魔壁はそれを訊くと『俺には後ろ盾がある』っつって、それ以上は何も言わねえ」


「……なら魔壁は自分の野望じゃなく、誰かの目的で動いてるってこと?」


 十成は囲われた王将に鋭く斬り込むような一手を指した。今の三野塚なら正直に吐くと踏んでの一手だ。

 三野塚は少しだけ逡巡し、すぐに白状した。


「魔壁の裏にいるのは政治家で、魔壁はその政治家の子飼いの部下だ。だから魔壁は、その政治家の邪魔になる連中を片っ端から暗殺している。AWAKEは、その手段の一つだろうよ」


 三野塚の虚ろな瞳に、嘘は見えない。もしも魔壁の言葉が出まかせでなければ、彼は政敵を闇に消す為の手段の一つとして、あの危険ドラッグを使っているということになる。

 十成は依頼人が政治家だったのを思い出す。その人物は、自分の同僚がドラッグをやっている可能性があるので調べて欲しいと暁夜に依頼して、暁夜が調べた結果、ファングが一枚噛んでいると発覚した。そして隣人倶楽部に仲介で依頼が舞い込んだ。

 一連の流れを繋ぐと、一つの画が見える。ドラッグを利用して、自分の政敵を排除し続ける政治家。どこにでもありそうな暗殺サスペンスの絵面が、脳裏に浮かんだ。

 しかし、不自然な点も浮かび上がる。


「もしそれが本当なら、わざわざAWAKEを選ばなくても、幾らでも致死性の強いクスリはある。それにAWAKEは異能を生み出すクスリでもある。万が一暗殺対象が生きて異能で報復しにでも来たら、魔壁にとっても厄介な筈だ」


 そもそも、暗殺の為にドラッグを使うという手段がまわりくどい。怪しまれずに殺る方法など、それこそ『蛇』の三野塚に頼んだ方が賢明だろう。

 三野塚は、侮蔑するような笑みを浮かべた。


「そうでもないさ。AWAKEは毒で殺すんじゃない。アレは人間の命そのものを『死の世界』に傾けて殺すんだ。だからなんだって死因になりうる。事故死でも、心臓麻痺でも、癌でも。多少のリスクを背負ってでも、あれを使う価値はある。例え内臓が変色してても、死因が全部別々じゃあ関連づけようがないだろ?」


「直接の死因は臓器不全じゃなくて『死の世界』へ誘導して、因果を捻じ曲げることか」


 十成は、能力を得てからも何度か『死の世界』を経験している。そして、橘のDEATHデスの力で毎度事なきを得ている。

 『死の世界』──異能達が知っている共通の心象世界は、彼らの間でそう総称されている。

 異能の多くは、臨死体験によってその能力を獲得する。その際に彼らが観測する世界が、『死の世界』と呼ばれる別次元である。

 どのような光景なのかは、能力と同様、各々で千差万別。十成の場合は『水面』で、その奥深くが死、という風になっている。

 つまり、身体が『死の世界』に傾くということは、健康状態に拘らず、その人間が死に瀕しているという意味である。


「ドラッグとして売り捌いている理由は、本当の死因が発覚した時に『ドラッグの中毒死』として世間の目を誤魔化せるからか」


「まぁ、そんなところだろうな」


 そこからしばらく、三野塚は糸の切れた人形のように俯き、沈黙した。

 知りうる全てを吐き出したのだろう。心を全て搾り取られた三野塚は、廃人同然だった。

 これでやるべきことは、終えた。十成はそう判断するやいなや、倉庫のドアを叩く音が聞こえた。

 無論、ここで三野塚を馬鹿正直に家まで送るほど十成は優しくない。倉庫の外には、依頼人の政治家の手駒──恐らく裏社会の掃除屋が、三野塚を処分する為に並んでいるだろう。


「……そろそろだね」


 十成は硬直した三野塚を一瞥した。

 これから、三野塚達音は死ぬ。

 生前の面影も残さぬよう、念入りに『人』ではないものにされる。

 その脳髄に刻まれた思い出も、感情も、趣味趣向や哲学も、全てバラバラにされ、霧散する。

 これから死に向かう者を見送るのは、いつも複雑な気持ちだった。目の前で人がモノへと変わる姿を見ると、己が存在のどうしようもない矮小さを、嫌でも実感させられる。

 自分もいつかこうなるのだろうか。誰でもない、なんでもない塵屑と化して社会から忘れ去られるのだろうか。それは最早、死ぬよりも恐ろしい事実のように思えてしまう。


「おい、ボーッと突っ立ってんなよ。行けよ」


 犬飼に膝を軽く蹴られて、十成は我に返った。今は感傷に浸っている場合ではない。

 十成はコートを羽織り直して、倉庫を後にした。

 十成が居るのは池袋ではなく、東京湾に連なる湾岸倉庫の一角である。過去に管理会社が倒産し、今はもう使われていない倉庫の一つを、フロント会社の名義を利用して暁夜が抑えているのだ。

ドアを開けるなり、ひんやりとした潮風が肌を刺す。コンクリートの沖と藍に染まった太平洋。そして目の前に停まっているのは、一台のライトバン。

 黒服を身にまとった男達が四、五名、その場で待機していた。宵闇に浮かぶ漆黒に、十成は死神を連想した。


「お疲れ。いいよ」


 それだけ言って、十成は道を渡した。黒服の男達はそのまま十成の目の前を素通りして、倉庫の中に向かう。



 と、思われていた。



 一人の男が、肩に手をかけた瞬間、十成は否応なくその殺気を悟った。

 十成は殆ど本能的に身を屈める。

 空気が裂ける音が鳴る。

 男が黒服の肩口から取り出したのは、拳銃だった。一発目が外れたのを見定めると、舌打ちをして二、三発連射してくる。男の後ろにいた黒服達も、手のひらにある銃口から火を吹かせた。

 閑静な夜の港を、無骨な破裂音が支配した。一人の男を殺すべく、甲高い銃声が夜空に鳴り響き続ける

 弾丸の半分以上は、十成に命中しなかった。しかし三、四発腹部に弾丸を喰らうと、十成は瞼を引き攣らせ、そのままぐったりと仰向けに転がった。

 弾丸は一発でも喰らえば致命傷である。それを腹部に四発もやられた時点で、そいつの命運は決している。

 男達は動かなくなった十成を放置して、そのまま倉庫に雪崩れていった。

 倉庫の中で、数十発の銃声が虚しくこだました。

 その音に気がついた者は、この倉庫街には誰一人として存在しなかった。

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