三、 消えた神さま

 昨夜はなかなか寝つけなかったが、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。

 炉神に話を聞いてもらった翌朝、紗々良はいつもと同じ時間に目が覚めた。


 今日はなにもする気になれなかった。しかしその思いとは裏腹に、体は勝手に動いて身支度を整えている。

 習慣とは恐ろしいものだと、紗々良は小袖に細帯を締めながら苦笑いした。


(これからどうすればいいんだろう)


 腰までの黒髪を櫛で梳きながら、紗々良は鏡に映る自身の顔を見つめた。


 ──炉神に直接会って、恩寵の火を消してもらう。

 背山村がなくなってから昨日までの間、それだけを目的として生きてきた。それがなくなってしまったら、なんのために生きていけばいいのかわからない。


(でも、もし力を消してもらったとしても……その後どうするかなんて、考えてもいなかった)


 紗々良は櫛を動かす手を止めた。

 結局のところ、自分は悲しみに溺れてしまわぬよう、ひとつの望みにしがみついていただけだったのかもしれない。

 果たさねばならない目的があるなら、それだけを考えていられる。──故郷と家族を失った現実を、少しでも忘れることができる。


 そのことに初めて思い至り、紗々良はうなだれた。

 ちょうどその時、襖障子ふすましょうじが勢いよく開き、化け箒がぴょんぴょんと跳ねながら部屋に入ってきた。


「大変! 大変だよ、紗々良さま!」


 化け箒は棕櫚箒しゅろほうきの付喪神だ。穂先にくりくりとした両目がついており、社の清掃を請け負っている。

 最初は付喪神に出くわすたびにぎょっとしていた紗々良だったが、毎日見ているうちに慣れてしまった。

 突如やって来た化け箒にも、落ち着き払って声を掛けた。


「駄目よ、化け箒。伺いも立てずに部屋に入ってきては」

「それどころじゃないんだよ! 炉神さまがいなくなっちゃったんだ!」

「……え?」


 紗々良は手にしていた櫛をぽとりと落とした。


「どういうこと?」

雲外鏡うんがいきょうが、やたらと早起きして部屋を出ていく炉神さまを見たんだ。ほら、炉神さまは鏡を箱にしまわないで出しっぱなしにしてるでしょう? だから気づいたんだって」


 雲外鏡は、炉神が持つ鏡の付喪神である。

 時折その付喪神の顔が鏡に浮かび上がるらしいが、紗々良はまだ見たことがない。


「それなら、ただお出かけになっただけなんじゃないかしら」

「僕たちにひと言も言わずに? 炉神さまは、なにか用事があれば必ず僕たちに伝えてくださるよ。なにも言わずに出て行くなんて、なにかあったとしか考えられない!」

「……なら、鍛冶場は?」


 炉神が一日の大半を過ごす鍛冶場は、社の近くに建っている。

 だが化け箒は、体を左右に振った。


「もちろん探したよ! でも、くまなく探してもどこにもいないんだ……」


 紗々良はしばし黙考した。


「もしかしたら、あえて言伝ことづての必要がない近場に行かれたのかもよ。お昼過ぎぐらいまでは待ってみたらどう? 帰ってこられるかもしれないわ」

「うん……そうだね」


 化け箒は神妙に頷く仕草をすると、仲間たちにも伝えてくる、と言って出て行った。

 しかし紗々良の予想に反して、炉神は昼を過ぎても帰ってこなかった。





 社で待っていて欲しいと紗々良に言い置いて、付喪神たちは炉神を探しに出かけてしまった。

 しばらくは供え物の整理などして気を紛らわせていた紗々良だったが、不意に居ても立ってもいられなくなり、社を飛び出した。

 炉神がなにも言わずに出て行ったのは、自身の言葉に原因があるとしか思えなかった。


(わたしのせいだ)


 社の脇に設けられた石段を駆け上がりながら、紗々良は唇を噛みしめた。


(わたしがあんなことを言ったから……!)


 紗々良の頼みごとを断った後、炉神はどんな表情だったか?

 どことなく、悲しげな顔をしていなかっただろうか。

 自分のことに精一杯だった紗々良は、炉神の心情をおもんぱかることすらしなかった。


(きっと、傷つけてしまった)


 炉神から与えられた力を、疎ましいなどと言ってしまった。

 恐らく炉神は、紗々良に目を掛けたために恩寵の火をもたらしたのだろう。だが紗々良の発言は、その厚意を裏切るものだった。

 彼が恩知らずな娘の顔など見たくないと思っても、なんら不思議ではなかった。


 石段を登り切った紗々良は、開けた場所に躍り出た。

 目の前には古びた社殿に似た、茅葺きの建物がある。ここが炉神の鍛冶場だった。

 紗々良は走り寄って観音開きの格子戸を開け放ったが、中には誰の姿もない。

 彼女は急いで戸を閉めると、来た道を戻った。


(炉神さまに謝らなきゃ)


 紗々良の願いは切実なものだったが、だからと言って炉神の心を傷つけていいことにはならない。

 炉神は許してくれるだろうか?

 その前に、彼は帰ってきてくれるのだろうか?


 社まで辿り着くと、紗々良はかつて登ってきた崖の道を下りることにした。

 周囲には相変わらず霧が立ちこめ、見通しが悪い。

 さすがに走ることはできないので、紗々良は岩肌にしがみつくようにしながら一歩一歩進んだ。


(もっと早く歩けないかしら)


 焦燥感は恐怖心を上まわり、紗々良は慎重さをかなぐり捨てて足を速めた。

 それがいけなかったのだろう。


「あっ」


 足を踏み外したと思う間もなく、紗々良は空中に放り出されていた。



***



 しばらくの間、気を失っていたらしい。

 紗々良はそろそろと目を開いて、まばたきを繰り返した。


(……生きてる?)


 あの世だろうかと一瞬思ったが、すぐにそうではないとわかった。

 至近距離にある岩肌は、槌聞山つちききやまのものと変わりないからだ。


 霧に覆われた槌聞山は地上から見上げると頂が見えないが、間違いなく高山である。紗々良が落ちたのは、相当高い位置だった。

 にもかかわらず、なぜ自分は大怪我もせず無事なのだろう?


 紗々良はこうべを巡らせてみて、己の置かれた状況に息を呑んだ。


 彼女は、狭い岩棚に生えた木に引っ掛かっていた。

 弧を描くようにして張り出した木の幹に、背を預けている状態である。

 少し視線をずらすと、足元には霧が広がっている。見えなくとも、足場になるようなものがなにもないことがわかった。

 

(運良く木が受け止めてくれたのね……)


 落ちた位置が少しでもずれていれば、今頃命はなかっただろう。

 紗々良は身震いして、自身を抱き締めた。


(これからどうしよう)


 背もたれにしている木を登ったとしても、歩いていた道に戻れるとは思えない。

 幹はしっかりしているが低い木なので、高さが足りないのである。

 紗々良は途方に暮れた。


(付喪神たちは炉神さまを探しているし、炉神さまはどこかへ行ってしまった。今わたしを助けてくれる人なんて、どこにもいない)


 仮に炉神が戻ってきたとしても、紗々良を探してくれるだろうか?

 彼の心遣いを無下にした、贄の小娘ごときを。

 そう思い至った途端、紗々良はぼろぼろと涙をこぼした。


(泣いちゃ駄目だ)


 紗々良は目をこすった。

 泣いたところでこの状況が変わるわけではないし、口に出した言葉が戻るわけでもない。

 そうわかっていても、紗々良は子供のように泣きじゃくった。ぴんと張り詰めていた糸が、突然切れてしまったかのようだった。

 己が言動に対する後悔や羞恥心、自己嫌悪がない交ぜになり、今すぐ消えてなくなりたかった。





 涙が涸れるまで泣いた後、疲れ果てた紗々良はうつらうつらとしていた。

 夢うつつの中で、彼女は己を呼ぶ声を聞いたような気がした。


「……どこにいる!」


 はっと目を覚ました紗々良は、きょろきょろと辺りを見回した。

 こんな不安定な場所でうたた寝できたことに驚き、次に声の主がどこにいるのかと探った。

 しかし、周囲の様子は先ほどと変わりはない。強いていうなら、日が傾いてきたのか、わずかに薄暗くなってはいるようだった。


「気のせいかしら」


 そう呟いてからすぐ、再び声が耳に入ってきた。


「紗々良、どこだ! いるなら返事をしてくれ!」


 それは、いなくなったはずの炉神の声に違いなかった。

 目を見張った紗々良は、咄嗟に大声で返事をしていた。


「ここです! 道の下におります!」

 

 それからひと呼吸後、視界の端に炎が映った。

 木の幹につかまりながら背後を確認すると、頭上から、炎の帯が曲線を描きながらこちらに延びてきた。

 その幅広の帯の上を、虎の画霊が熱がる様子もなく駆け下りてくる。

 

「紗々良!」


 虎の背には、炉神が乗っていた。

 赤々と燃えさかる炎の道は、紗々良のいる岩棚の横にぴたりとついた。呆然としている紗々良を、炉神は素早く抱き上げた。


「無事でよかった……!」


 画霊の背に移された紗々良は、炉神に抱きすくめられた。

 背中にまわされた腕は震えており、紗々良は彼が心配してくれたのだと知った。


「……助けてくださって、ありがとうございます」


 ──なぜ突然いなくなったのか。どうして探してくれたのか。

 聞きたいことは色々あったが、とりあえず、今はこのまま炉神の腕の中にいたかった。

 そう思う自分に戸惑いながらも、紗々良はおずおずと炉神の衣をつかんだ。

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