二、 紗々良の願い
翌朝、紗々良は画霊に指示された通り、炉神の
社の最奥、神社の本殿にあたる場所が炉神の居室だ。
紗々良は御簾の前で「おはようございます、炉神さま」と声をかけた。
「紗々良でございます。お召し替えのお手伝いに参りました。入ってもよろしいでしょうか」
「……ん」
寝ぼけた声で返事らしきものが返ってきた後、衣擦れの音がした。
「……どうぞ」
「失礼いたします」
紗々良が御簾をくぐり抜けると、
癖毛の長髪がもつれ合って広がっている様は、威厳の欠片もない。
紗々良は吹き出したくなるのを堪えながら、炉神を白い水干と蘇芳色の袴に着替えさせた。
次に丸い鏡をかけた鏡台の前に座らせ、髪の毛をとかす。頭皮を引っ張ったり切れ毛を作ったりしないよう気をつけつつ、紗々良は口を開いた。
今こそ、恩寵の火について話すまたとない機会だ。
「あの、炉神さま──」
しかし紗々良は、先に続く言葉を飲み込んだ。
鏡に映った炉神の両目は、半分以上目蓋に覆われている。今にも船を漕ぎそうな風情だ。
どうやらこの神は、朝に弱いらしかった。
(この状態では、会話するのも難しそう)
めちゃくちゃに絡まり合った髪をほぐしながら、紗々良はこっそりため息をついた。
(また今度にするしかないわね)
先延ばしするのは本意ではないが、仕方ない。
そう思っていた紗々良だったが、その後、自分の見通しが甘かったことを思い知る。
炉神は朝から晩まで鍛冶場にこもりきりで、日中顔を合わせることがほとんどないのだ。彼と腰を据えて話す機会は、そうそう訪れなかった。
例外があるとすれば、朝と晩の食事時だけだ。
神が食事することを、紗々良はここに来て初めて知った。なんでも、人間から捧げられたお供え物を食さなければ、存在を保つことができないらしい。
生きていく上で食物が必要不可欠なのは、人も神も変わりないようだ。
紗々良の起居する社では、朝、その供え物が所狭しと並べられている。どういう仕組かはわからないが、炉神を祀る社からのものが、すべてここに集まるらしい。
そこから必要な食材をいただいて、紗々良が調理する。それを、炉神と共に食べるのである。
しかしこの食事の時間は、和やかなものとは言いがたかった。
炉神は基本的に無口であり、自分から紗々良に話しかけることはほとんどない。紗々良が話題を振っても、心ここにあらずと言った様子のため会話が弾むこともなかった。
そして極めつけは、炉神と目が合わないのである。
視線が合ったとしても、すぐさま目を逸らされる。最初は偶然だと思っていたが、それが何度も続くと嫌われているのではないかと疑いたくなる。
このような雰囲気では、頼みごとなどできようはずもなかった。
そんな生活が一週間も続いた頃、紗々良はついに心を決めた。
「今日こそ絶対に話をしよう」
話しかけづらいことが、一体なんだというのか。
願いを叶えてもらうためなら、そのようなことは些事に過ぎないだろう。
夕餉の後が狙い目だと考えた紗々良は、その時をじりじりしながら待ち続けた。
「炉神さま、お話したいことがございます。少しばかりお時間をいただけないでしょうか」
炉神が食べ終わったのを見計らい、紗々良は強張った面持ちで口を開いた。
「構わないけれど……」
紗々良の様子にただならぬものを感じ取ったのか、炉神は居住まいを正した。
礼を述べて、紗々良は話し始めた。
「わたしは、炉神さまから恩寵の火を授かりました。わたしのような者に力を与えてくださったこと、本当に感謝しております。ですが……」
紗々良は炉神の顔をまっすぐに見つめた。
「この力を、なかったことにしていただきたいのです」
炉神は束の間沈黙してから、「なぜ」と短く尋ねてきた。
「わたしの故郷である背山村は、去年、失火が原因で火事にあいました。その日は風も強く乾燥していたために、火のまわりが早く、またたく間に燃え広がりました。さらに真夜中のことで、逃げ遅れた者が大勢いて……村の大半の者が、この火事で命を落としたのです」
紗々良は拳を強く握りしめた。
「わたしの家族も亡くなりました。祖父母に父母、弟に妹……みんな。そんな中、わたしだけが生き残ったのです。恩寵の火をもたらされ、火に害されることのないわたしだけが」
「……」
「わたしは初めて、この力を疎ましく思いました。この力さえなければ、わたしはひとり残されることはなかった。生き残ったことに、罪悪感を抱くこともなかった。みんなと一緒に死ぬことができた!」
血を吐く思いでそう口にした紗々良は、炉神の視線から逃れるように目を伏せた。
「このようなことを申し上げて、さぞご不快になられたことでしょう。申し訳ございません。ですが、わたしはもう、この力をなくしてしまいたいのです。この力はわたしを助けてくれましたが、わたしの家族までは救ってくれなかった。力の恩恵をこうむるたびに、そのことを思い出さずにはいられないのです。それが、なによりも辛い」
紗々良は勢いよく平伏し、懇願した。
「ですから、炉神さまにお願い申し上げます。どうかわたしから、恩寵を取り上げてください!」
炉神はしばらくの間押し黙っていた。
重苦しい空気に耐えながら、紗々良は炉神の言葉を待った。
「……それはできない」
期待を裏切る返答に、紗々良はがばっと顔を上げた。
「な、なぜですか!?」
「私が力を与えた時点で、それはその者の所有となるからだ。既に私の手から離れたものを、消し去ることはできない」
「そんな……」
それでは、自分はなんのためにここまでやって来たというのか。
ただ力を消したい一心で、なにもかも捨ててきた。だがそれは、無意味な行為だったのか?
放心状態の紗々良から、炉神は目を逸らした。
「そなたの本意ではないだろうが、その力を受け入れて生きていくほかない。……力になれず、すまない」
「いえ、そんな……炉神さまに謝っていただくことでは……」
紗々良はのろのろとかぶりを振った。
「貴重なお時間をありがとうございました。……お膳、お下げしますね」
「ああ」
その時の炉神は、悲しむような、悔やむような表情で紗々良を見つめていた。
それを横目に、紗々良は黙々と食器を片付けていった。
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