槌聞山の神さまにこいねがうことは

水町 汐里

一、 顔合わせ

 岩だらけの斜面を這うようにして登った紗々良ささらは、開けた視界の先に目を見張った。

 目の前にそそり立つ断崖絶壁には、巨大な裂け目がある。その中にしがみつくようにして、黒ずんだ社が建っていた。


(あれが、炉神ろのかみさまのお住まい)


 自力でこの槌聞山つちききやまを登ってきた紗々良は、安堵のため息をついた。

 どうやら、なんとか目的地に辿り着くことができそうだ。

 しかし社へ続くつづら折りの道を目で辿っていくと、意気揚々とした気持ちは即座にしぼんでしまった。


 崖からせり出した道は人ひとりしか立てないほど狭く、手すりもない。足を踏み外せば一巻の終わりだ。

 しかも周囲に薄く漂う霧のせいで、視界が良好とは言いがたい。

 紗々良は身震いした後、勢いよくかぶりを振った。


(怖じ気づいちゃ駄目。ここまで来て、逃げ帰るなんてありえない)


 深呼吸して気持ちを落ち着かせると、紗々良は足を踏み出した。


(わたしはなんとしても、炉神さまに恩寵の火を消してもらわないといけないんだから)


 この願いのために、紗々良は人の世を捨て、神の国に招かれることになったのだ。





 紗々良の生国・群雲国むらくものくにには古から続くしきたりがあった。

 月が本来の位置に戻る年──日食が起きる年、国の若者からひとり贄を選び、神の伴侶にするというものだ。

 太陽と月はもともとひとつであったという考えから、このふたつが重なって見える日食は、人々から特別視されていた。


 その日食が起こった今年、亀卜きぼくによって占われた結果、紗々良の住む村から贄が選ばれることになった。

 十二柱のうちどの神に捧げられるのかは、贄の生まれ月によって決まる。

 霜月生まれの紗々良が選ばれれば、火と技を司る炉神に奉じられることになる。そのことを知っていたから、紗々良は自ら贄に志願した。

 炉神に直接会って、頼みたいことがあったからだ。


 紗々良は生まれ故郷にあった火之和ひのわ神社で巫女として働いていた。

 火之和神社の祭神は炉神だ。本殿に切られた囲炉裏の火を絶やさぬようにするのが、巫女の最も重要な役割である。紗々良は毎日心を込めて、ご神体である火の世話をしていた。


 それが炉神の目にとまったのか、ある日突然、紗々良は囲炉裏の炎に全身を包まれた。

 火は一瞬でかき消え、不思議と火傷もなかった。この異様な現象に、紗々良は炉神から恩寵の火を授けられたのだと悟った。


 恩寵の火をもたらされた人間は、火を直に触ったとしても火傷することがなくなる。煙も同様に、その人間を害することはできない。

 そんな特殊な力を与えられた紗々良は、当初大いに喜んだ。炉神に感謝し、より一層巫女としての仕事に身を入れた。

 しかしその生活は、長くは続かなかったのだ。



***



「ようこそいらっしゃいました、花嫁御寮」


 無事社に辿り着いた紗々良は、なぜか虎に迎え入れられていた。

 紗々良はまばたきを繰り返し、目をこすってからもう一度猛獣を見た。

 それはどこからどう見ても、この国には存在しないはずの虎だった。しかも人の言葉をしゃべっている。

 

(夢でも見ているのかしら)


 思わず頬をつねった紗々良に、こちらを見上げる虎は微笑んだ──ような気がした。


「申し訳ありません、驚かせてしまいましたね。わたくしは画霊なので、実際の虎ではないのですよ」

「がれい……?」


 耳慣れない言葉に首を傾げると、虎は穏やかな低い声で解説してくれた。


「画に宿った精霊、とでも申しましょうか。付喪神つくもがみの一種です。この社には虎の屏風があるのですが、わたくしはそこに宿ったものです」

「えーっと……作られてから百年経った道具に魂が宿ると、付喪神になるんでしたっけ」

「その通りです。ただきっかり百年とは限らず、もっと年月が掛かる場合もありますが。道具によってまちまちですね。この社では、炉神さまと月日を共にしてきた道具がたくさんありますから、それに伴い付喪神も多く存在するんですよ」

「そうなんですか」


 さりげなく頷きながらも、紗々良は突きつけられた現実を受け止めるのに苦慮していた。

 常時霧に包まれた槌聞山は禁域であり、神の国に繋がっている。その槌聞山にいるのだから、不思議な出来事のひとつやふたつ、あってもおかしくはない。

 そうわかってはいても、完全に受け入れるには時間が掛かりそうだった。


 虎の画霊は紗々良に円座を勧めながら、切り出しにくそうな素振りで口を開いた。


「嫁御さま」

「あの、申し遅れましたが紗々良と申します。そのようにお呼びください」

「では、紗々良さま。大変申し上げにくいのですが……その、炉神さまは男女の機微に疎いと申しますか……少々幼いところがおありなのです」

「はあ」

「紗々良さまを伴侶に迎えるということも、どうもぴんときていらっしゃらないようでして。ですから、人の世における夫婦生活とは異なるものになること、ご承知おきください」


 円座に座った紗々良は、なるほどと頷いた。


(つまり、仮初めの夫婦になるということね)


 自分が正式な伴侶ではないと聞かされても、特に思うところはなかった。

 紗々良にとって重要なのは、炉神と夫婦になることではなく、炉神に望みを聞いてもらうことだからだ。


「わかりました」


 素直に頷いた紗々良に、画霊は「申し訳ございません」と耳を伏せてうなだれた。


「せっかくこんな僻地までいらしてくださったのに、このような有様で……。なんとお詫び申し上げればよいのか」

「いえ、お気になさらないでください。あなたが責任を感じることではありませんし。それより、わたしはなにをしたらいいのでしょうか。伴侶でなかったとしても、炉神さまに捧げられた贄であることに代わりはありませんから」

「そうですね……でしたら、炉神さまのお世話をお願いいたします。今までわたくしたちでお世話申し上げてきましたが、なにぶん元は物ですから、行き届かない点も多々あるでしょう。人間である紗々良さまの視点があれば、そこを解決できるのではないかと思いまして」

「承知しました」


 神の世話は、巫女であった時もやっていたことだ。

 神の国に来ても役割が変わらないのは、不思議な心地だった。もっとも、今度はご神体ではなく炉神そのものの世話だから、勝手は違うのだろうが。

 紗々良が詳細を尋ねようと口を開きかけた時、こちらに近づいてくる足音が耳に入ってきた。


「あっ、炉神さまがいらっしゃいましたね。付喪神に呼びにいかせたんです」


 紗々良が真向かいの開け放たれた入り口に目を向けるのと、そこからひとりの人物が上がり込んでくるのはほぼ同時だった。


(この方が、炉神さま)


 こちらに近づいてきたのは、涼やかな目許をした水干すいかん姿の青年だった。

 席を譲って下座に平伏する直前、炉神の後ろ姿が見えた。高く結い上げた髪は下へ向かうにつれ色が濃くなっており、頭頂部は薄い黄色、毛先は赤橙色になっている。まるで燃えさかる炎のような色合いだ。


「顔を上げて」


 静かな声音にそろそろと上体を起こすと、熾火のような瞳と目が合った。


「槌聞山は難山なんざんだっただろう。よくここまで来てくれた」

「もったいないお言葉にございます」

「そんなにかしこまらないで。今日から共に暮らすのだから、楽にして欲しい。でないと、お互い息が詰ってしまうだろう」


 そう言われても、神に気さくな態度を取るのは難しい。今まであがめ奉ってきた存在なのだから。

 紗々良が曖昧に頷くと、炉神は淡々とした口調で続けた。


「足りないものがあれば、遠慮なく付喪神に申しつけて欲しい。用意させるから」

「はい」

「ここまで来るのに疲れただろう。今日は早く休むといい、紗々良」


 紗々良は目を見開いた。

 まだ名乗っていないのに、なぜ名前を知っているのだろう。


(やっぱり神さまだから、人間の名前ぐらいおわかりになるのかしら)


 紗々良が驚いているうちに、炉神は立ち上がった。


「もう行かれるのですか、炉神さま」

「ああ、まだ作業が残っているから。……それではまた」

「は、はい」


 慌てて頷くと、炉神は颯爽とした足取りで社を出て行った。

 あまりにもあっという間の出来事に、紗々良はしばし呆然とした。

 顔合わせが、こんなにあっさりと終了してよいのだろうか。


(炉神さまは、伴侶なんていらないのかもしれない)


 そもそも贄のしきたりは、人間が神の機嫌を取るために始めたことだと聞く。

 望んでもいないのに人間の小娘を押しつけられ、実は迷惑しているのかもしれない。

 だとすれば、さっさと退出したのも、紗々良を正式な伴侶としないのも得心がゆく。


(男女の機微に疎いというのは建前なのかも)


 紗々良があれこれと考えていると、画霊はまたしても申し訳なさそうにこちらをうかがってきた。


「気を悪くしないでくださいね、紗々良さま。あの方は根っからの鍛冶職人でして、しょっちゅう鍛冶場にこもっていらっしゃるのです」

「炉神さまが鍛冶を……?」

「ええ。基本的には刀鍛冶ですが、他の道具も作られるのですよ」


 火と技の神である炉神は、鍛冶職人にもっとも信仰されている。

 だが、まさか炉神自身が鍛冶職人であるとは思いもよらなかった。


 そこで紗々良は、はたと思い出した。


(そうだ、炉神さまに会ったら真っ先に恩寵のことを話そうと思っていたのに……)


 あまりにも一瞬の邂逅で、切り出す暇もなかった。

 少々がっかりしたが、紗々良はすぐに気持ちを立て直した。

 これから同じ社で暮らすのだから、伝える機会はいくらでもある。焦っても仕方がない。

 部屋を案内するという画霊の後に続きながら、紗々良はいつ話そうかと思案し始めた。

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