第14話

「他人のいる部屋の前でウジウジしていないでよ。いつまで待たせる気?」

 ああ。

 私は、自分の口から、憎まれ口が転がり出てくるのを聞いた。

 いや実際、イライラしたのは本当なの。

 アイツの足音が部屋の前まで来たのが聞こえて。

 いよいよノックされる――って身構えたのに、全然その音が鳴らないのだから。

 いい加減にしてよ、と思うのも当然だ。

 でも、それはそれとして。今このタイミングで言うべきじゃない言葉であったことは、私にも分かる。せっかく――せっかく。アイツが話をしに来てくれたのだから、ここは素直に促して、聞いてあげるべきだったのだ。――間抜けな飼い主に付き合う優しいペットとして。

 私にだって、歩み寄る意志はあるのだ。あるのに。

 私の身体は、気を抜くとすぐに裏腹な行動を取ってしまう。

 昨日までのことだって、元はと言えば、きっと悪いのは私だ。

 私の思惑も。私の願いも。言葉にし難くて、隠してしまっていた。

 だって、人間の姿になってからこっち。恥ずかしくて仕方なかったのよ。

 私の気持ちが表情や態度に出てしまって、アイツに筒抜けになってしまうんじゃないかと想像すると。

 今までは猫の姿だったから隠せていたものが、見えてしまうんじゃないかって思うと。

 それに、「あなたに幸せになってほしい」なんて、そんな風に言ってしまったら。

 まるで、告白――みたいじゃない。

 だから、ついつい、私の思惑を偽物の言葉で隠してしまったのだ。

 黙って、何も言わないでいたのだ。

 私がそんな様子だったから、きっとアイツは私に不信感を抱いて。ここ数日、私を避けるように動いていたのだろう。

 こういうのを、因果応報って言うのかしら。

 本当は、私にアイツを怒る資格なんて、ない。

 ――ほら、今だって。

 私の圧に耐えかねたのか、アイツは視線を外してしまった。

 アイツの目が少しの間、宙を彷徨い続ける。

 ここから、どうやって、仲直りをすればいいのだろう。

 気の遠くなる思いがして、私も視線を下げようとしたときだった――。

 一歩、アイツの身体が近づいてきた。

 意図の分からない行動に戸惑いながら、私がアイツの顔を再び見遣ると。

 アイツは何か覚悟を決めたような目で、私のことをジッと見つめて。

「ミケ……、お前がどんな姿になったとしても。俺にとって、ミケはミケなんだ」

 そのまま、アイツはもう一歩もう二歩と足を動かし、あっという間に、私たちを隔てる距離がなくなって――。

 ガバッと。

 次の瞬間には、私の身体はアイツの身体に包まれていた。

 抱きつかれたのだ。突然に。

「ひゃっ……!」

 そうして、強く抱きしめられる。

 アイツの身体は温かかった。私の身長はアイツの肩くらいまでしかないから、私はすっぽりと、アイツの身体に覆われてしまっている。

 自分の血が、顔に集まっていくのが分かった。まるでコタツにでも潜り込んだみたいに、頬がカーッと熱くなる。

「にゃ、何してるのよっ……!」

 恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがなくて。

 私は身じろぎをしたのだけれど。

 アイツはそれに構わず、その大きな手で私の頭を丁寧に撫で始めた。

 ゴツゴツした指が、私の髪の毛に絡む。

 毛が流れる向きに沿って、さあっと。擦れる音が、頭の上から耳元まで降りてくる。

 そうしてまた手が頭の上に戻って、また下がって。

 陶然と。その感触に、まるで思考が溶かされていくかのようで。

 私はうっかり、アイツに身体を預けそうになった。

 しかしそこで。さらにアイツは、今度は鼻を私の頭に近づける。

 ――え?

 すうっと、匂いを嗅がれているのが分かった。

 ――いやいやいや、それは本当に何をやっているの?

 危うく流れで誤魔化されるところだった。

「……ちょっと」

 私は今度こそ、力を込めてアイツの身体を押しのけた。

 アイツの体格なら、これくらいの力なんて大したことないのだろうけれど。流石に抵抗せずに身体を離してくれる。

 私は後ろに一歩下がって、最低限の距離を確保した。

 けど、いくら最後に我に返ったとはいえ。私の顔はまだ熱を持ったままだ。

 まだ、アイツの顔を直接見るなんてできなくて、私はアイツの足元に視線を落とす。

 ――急に、一体。何のつもりなのよ……




 さて、この世界には、『ねこすい』という言葉がある。

『猫水』ではない。『猫吸い』だ。

 きっと、猫飼いにしか理解されない概念だろうけれども。

 それは至って単純。愛猫の身体に自分の顔を埋めて、すうううううっと息を吸う。それだけ。

 そうして、良い匂いで鼻腔を満たして、幸せ、というわけだ。

 かく言う俺も、ミケが猫の姿だった頃は、たまに吸っていた。あれには中毒性がある。

 いやいや、まあ、冷静に考えて。獣の匂いに良いも何もないだろうというのは、俺にだって分かっている。

 しかし、匂いを嗅ぐことで。

 愛するペットがそこに生きているのだと。生き物としての確かな存在を感じられるということは、酷く安心するものなのだ。

 ――それを今、俺は。人間の姿のミケに対して、やった。

 なるべく、猫の頃と同じように吸うように、意識して。

 これは俺からの意思表示だ。以前と現在とで、ミケに対する態度を変えるつもりがないという。

 傍から見たらヤバい絵面だっただろうが……。

 でも、俺は飼い主で、ミケはペットだ。たとえ人間の姿になったとしても。俺はあくまでもペットとして、ミケのことを大切に思っている。

 それなら、倫理的な問題はきっとないはずだ。

 今は俺たちの周りには誰もいないから、社会的な問題もまあ、ない。

 考慮すべきことがあるのは、あくまでも俺とミケという個人間の問題としてだ。

 俺から身体一つ分距離を取ったミケに、問いかける。

「ごめん、匂い嗅ぐのは嫌だったかな」

「……ビックリした」

「猫だったときも、猫吸いしようとすると逃げたがる率が高かった気はしていたんだよな。嫌だったら、今度からは、しないようにするよ」

「……うん」

 ミケは俯いてしまって、表情が見えない。

 怒っているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 分からなくても、俺らは言葉を交わすしかない。

「昨日は――いや、ここ数日、申し訳なかった」

 俺は、頭を下げた。

「お前と向き合うのを、避けてしまっていた」

 顔を上げても、ミケはまだそっぽを向いたままだった。

 返事もないので、仕方ないから俺は一人で続ける。

「お前の意見を聞き出すのを諦めて、一人で結論を出そうとしていたし、無意識にお前と関わらないようにしていたのかもしれない」

「……」

「これは、お前が急に人間の姿になったから、戸惑ってしまって。俺は、昔にちょっと色々あって、他人とコミュニケーションを取るのが苦手なんだ。この質を直すべきなのか否かは、ちょっとまだよく分かっていないんだけれど、とにかく。お前のことが人間に見えてしまって、お前がそういう俺にとってコミュニケーションを取るのが難しい対象に思えてしまって、それで、こういうことになってしまったんだ。――本当に申し訳ない」

 俺が繰り返し謝ると、居心地が悪そうにミケが身じろぎをした。

 ようやく、彼女の顔が上がる。

 頬に朱が差しているように見えるのは、俺の見間違いか。

 彼女の輝く瑠璃の瞳が、ゆっくりと上目遣いに、俺を見据えた。

「でも、ミケにはこれだけは信じてほしい。それでも、俺はミケのことを、ペットとして、あるいは家族として、ずっと大切に思っていて。昨日までのことだって、ミケのことを思っての行動だったんだ。それだけは、分かってほしくて……」

「……うん」

「それで、昨日、ハナに言われてハッとなった。俺の見方が間違っていたんだ。ミケは、姿が変わったって、中身は変わってない。見た目が人間だろうが何だろうが、俺と一年間暮らしてきた猫に違いはないんだって。……だから、これからは。ミケが人間のままだとしても猫に戻ったとしても、どちらにしたって、今まで通りのペットとして扱うことができるように、頑張ろうと思う。それなら、俺が人間不信でも、関係ない。……もしかしたら、初めは昨日までみたいに戸惑ってしまうことがあるかもしれないけど、必ず、そうできるように努力するよ。だから」

 俺は言葉を切って、呼吸を入れる。

「また、俺と一緒に暮らしてくれないかな?」

 ミケは、大きい目をさらに開いて、俺の言葉を受け止めた。

 そうして、わずかな間だけ、少し頬が緩んだような気がした。けれどそれもすぐに引っ込んで。彼女は真面目な顔に戻る。

「……うん。答える前に、私からも謝らせてほしい」




 ――ふむ。

 アイツの赤裸々な告白を聞いて。

 それを聞かせてもらえて。

 私は、少しだけ嬉しくなってしまった。

 今はアイツが私に神妙に謝ってくれている場面だから、喜びを表情に出すような、そんな不謹慎はできないけれども。

 アイツにようやく打ち明けてもらえたことに、私の存在を認められた気がした。

 そして、これで、アイツの世界が、あの家の中だけであったことの理由が、少しだけ見えた。

 コミュニケーションが苦手、他人を信じることができない。

 だから、猫である私に心の拠り所を求めて、あの家を世界としていた――と。

 そうとなれば。

 私の「願い」を叶えるために、私がやるべきことは決まっている。

 今度は、私が誠実に謝る番だ。

 今だけは――今だけは。素直な私で、居られますように。




「私こそ、ごめんなさい」

 ミケはゆっくりと、頭を下げた。

「いや、そんな謝らないでよ」

 俺の制止を聞かず、下を向いたまま彼女は続ける。

「ダメ。アンタばかりに謝らせていられないわ。私だって、悪かったんだから。夢のことだって、やるべきことだって、私は何も説明しようとしなかったんだもの」

 ――そうか。俺は、彼女の言いたいことを全部しっかり聞かなければならない。

 そう思い直して、俺はミケを促す。

「……理由は、聞いてもいいのか?」

 彼女はゆっくりと頭を上げた。俺のほうをチラリと見てから、目だけまた伏せてしまう。

「……だって」

「だって?」

「……恥ずかしかったの」

 彼女は口ごもるように言った。

「こうやって、同じ人間の姿になって。表情とか、動作とか、全部見て私の考えていることが伝わっちゃうんじゃないかって思ったら。恥ずかしくて、素直に話せなかったの」

「そうか」

 俺は続けるべき言葉を探す。

「――でも、今こうして話してくれたな。ありがとう」

「それは、アンタが全部バカ正直に話すからよ。私も話さなきゃ、フェアじゃない」

 ミケはいつものように憎まれ口を叩いたけれど。これも照れ隠しなんだろうか。

「……こっちこそ、これからもよろしく」

 ミケがボソッと呟いた。

「え、何が?」

 そう聞き返す俺に、ミケはキュッと目を瞑りながら答える。

「もう、鈍いんだから。さっきの答えよ!」

「あ、ああ!」

 遅れてそれに気付いて。俺の心の中に、じわっと暖かいものが広がる。

「……よかった」

 仲直り、できた。ちゃんとうまくいった。

 俺は、ミケとの生活をまだ、続けることができる。

 胸をなで下ろす俺に対して。

 ミケには。まだ話すことが残っているみたいだった。

「私のやりたいことをなすためには、アンタと一緒じゃないといけない、から……」

 ――。

 どういう、ことだろうか。

「私の、やりたいことも、話してあげる。それは、ね」

 彼女は、ゆっくりと瞼を上げて、俺の目を見つめる。

 その視線は、俺の瞳よりも、もっと奥のものを覗こうとしているような気がした。

 それから、少しの逡巡を経て、再び緩く瞼を閉じると。ミケは両手を持ち上げて、自身の頬を擦った。何か決意を固めようとしている仕草にも見えた。

 ミケは、両手を下ろす。

 リンゴのように赤く火照った頬。震える桜色の唇。潤んで煌めく瑠璃の瞳。

 ――それは、まるで。

「私は、アンタの世界を広げたい。アンタの幸せを、一緒に探しに行きたい!」

 一世一代の告白のような。

「アンタが私との生活だけで満足しているっていうのは、分かってる。でも、アンタの行ける世界が、本当はもっと広く広がっているはずだっていうのは、私よりもアンタのほうがよく知っているはずよ。だから、色んなものを、私と見て回りましょうよ。全部見て、それでも私との生活だけで満足だっていうなら、私はそれに甘んじてあげる。――どう?」

「……ミ、ミケ」

 彼女の真っ直ぐな言葉に、俺はたたらを踏んでしまいそうだった。

 彼女の本心に、初めて直接触れられた気がした。

 俺が彼女のことを大切に思っているように、彼女だって俺を大切に思ってくれているんだ。

「そう言ってくれるのは、すごく、嬉しいよ。でも――」

 俺は、他人が何を考えているのか分からないと、怖くなってしまって。

 だから、自分の家だけが、安心できる場所で。

 これは生き方の問題で、いくらミケがそうしたいって言っても、変えられるものとは思えない。変わることが良いのかも、今の俺には分からない。

「大丈夫よ。そのために私が何をしなくてはいけないのかは、もう分かっているから」

 ミケは、挑戦的に笑む。

「アンタは、私をペットとして見ることができるように、頑張るって言ってたわね。私のためを思ってそう言ってくれて、嬉しかったわ。――でもね、私がそうはさせてあげない」

 猫科の、ハンターの血が。彼女にそんな魅力的な表情を作らせるのか。

「私はこれからも、アンタにとっての大切な存在であり続けるわ。そしてその上で」

 そうして、彼女は決定的な一言を口にする。

「アンタに私のことを、一人の人間の女の子として、意識させてあげる!」

 ……――――!!

 ――それが、意味するところは。

「アンタにとって、初めての安心できる人間になるわ」

 俺にとっての、人間不信を乗り越えた、最初のモデルケースになろう、とミケは言っているのだ。

 それは、俺のパーソナリティに対する明らかな侵略だった。

 告白の形を取った、宣戦の布告。

 それでも、不思議と拒否感は湧いてこなくて――。

「いや、でも、そんなことできるわけない……」

 ――形ばかりの俺の反論も。

「私が気付いてないと思ってるの? 昨日デートで手を繋いだときに、アンタ、顔真っ赤にしてたわよ」

 ただのペットの身体に触っただけで、そんな反応になるわけがない。

 それは、ミケのことを人間だと見なしていた確たる証拠。そう、さっきも自白した通り、俺は確かにミケのことをペットとして見られていなかったが――。

「それでも、今こうして私たちは、まだお互いを大切だと思っている。違う?」

 ――完全に論破されてしまう。

「……違わ、ない」

「だから、私たちなら、できる」

 そうして、ついに。彼女は問う。

「そのために、私をしばらく、人間の姿で居させてくれないかしら……?」

 俺の信念は、そうするべきではないと言っていた。まだ、猫に戻るように、彼女と議論するべきだと言っていた。

 だが、昨日の水族館で。もう少しこのままで居たいと思ったのも事実で――。

 それに、今日の第一目標は彼女との和解であって、猫に戻ってもらうというのは、優先順位の低い目標であったのは確かだ。

 何か言い訳を探すように。

 俺の中で惹き起こされる期待に乗せられて。

 俺は、答えを口にする。

「とりあえず、今日のところは『祓い』をやってみる、か」

 とっくに、彼女に絆されているのかもしれない。

 何が、変わらない日常が一番なんだか。

 俺は、自ら、日常を大きく変えるだろう選択を、選んでしまうのだった。

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