第13話
――私は。
アイツに撫でられるのが好きだ。
アイツに話しかけられるのが好きだ。
アイツに見つめられるのが好きだ。
気分じゃなくて素っ気なくしたときに、それでもめげずに私の注意を惹こうとしてくるのも――ウザいと思うときもあるけれど、基本的には好きだ。
アイツのゆっくりと動く大きな手が。深く柔らかい声が。憂いを帯びた優しい瞳が。
私の生活に意味を与えてくれる。
私にとっての世界の全ては。あの家の中だけだった。
そうして窮屈な空間に押し込められているのを、可哀想だと見る向きもあるかもしれないけれど。私はそれで満足していた。アイツとの生活は快適であり、満たされていた。
――そして、アイツにとっても。
アイツにとっても、あの家の中こそが、世界だったのだと思う。
毎日のように家の外に出て、何かよく分からない「学校」と呼ばれる場所に通って、夕方になると帰ってきた。
すり減って空いてしまった空間を埋めるように、私で満たされていた。
アイツも、それで幸せだったのかもしれない。
私だって、人間の文化なんてほとんど分からないのだから、アイツの幸せがどういうものなのかなんて、知りようがないのだけれど。
アイツの、手の緩慢な動きの裏に。声の深さの底に。瞳の憂いの中に。
その場所を私だけが占有してしまって良いのだろうか。
アイツにとっての世界が、この家の中だけであって、本当に良かったのだろうか。
私はずっと悩んでいた。
私が人間の姿になった日。
アイツには、「意図して人間になったわけではなく、突然人間になったものだから驚いてパニックになってしまった」と伝えていた。
まさか人間になれるとは信じていなかったので、パニックになってしまったのは本当だったけれど――意図していないという部分については、真っ赤な嘘だった。
あの日、家のリビングでのんびりと顔を洗っていた私に、どこからか声が聞こえてきた。神の使いを名乗るそれは、私に問うたのだ。「人間になりたいか?」と――。
私は、心の中で、「なれるものならなってみたい」と。できっこないと自嘲しながらも、そう念じた。
そうしたら、アイツと一緒に外に出ることができる。
アイツと一緒に、世界を広げていくことができる。
アイツにとっての幸せを探すことができる。
そう思ったからだ。
そうして結果は、ご覧の通り。
私は、円の家でご厄介になっていた。
気をつかってもらって、私は円の部屋で独り。体育座りで壁にもたれ掛かっている。
アイツと口論になって、咄嗟に飛び出してきてしまってから、もう一晩が経っていた。
――人間の姿になってしまったのは、間違いだったのだろうか。
アイツにとっての逃げ場を私が奪ってしまったのだろうか。
そしてあるとき、静寂が淀んだ室内に、場違いに軽い音が響いた。
ピンポーンと。
階下から聞こえるそれは、真宮家のインターホンの音だったろう。
しばらくして、円が階段を上がってくる足音が聞こえる。
用件は、円に説明される前から分かっていた。
猫だって、耳が良いのだ。
玄関先でどんな会話が成されていたのかなんて、お見通し。
部屋のドアが軽くノックされて、円の声が投げかけられる。
「ミノくんが、ミケちゃんに話があるみたいなんだけどサ。どうしようか?」
一晩経って、落ち着いた今なら分かる。私の答えは、一つしかありえなかった。
ハナからの説教を受けた、その翌日の日曜日。そしてその朝。
早くアラームを止めろ、というハナからの抗議で目を覚ました俺。
結局、昨夜はしばらく暗闇の中で目を開けていた。
直前に一度寝てしまっていたし、隣に他者がいる環境に落ち着かなかったし、議論で心が昂ぶっていたし。そうそう睡魔は俺を連れ去ってくれなかったのだ。
他人と一緒でないと眠れないというハナの感性は、なかなか理解しがたいものであった。
だが、眠れなかったお陰で。今日、これからミケに対して俺が何をするべきなのか、じっくりと考えることもできた。
今晩には件の『祓い』のこともあるから、ミケとの仲違いは、今日の夕方までに解決する必要があった。ミケが俺と別行動をして、勝手に一人で『祓い』に行ってしまうというのが、最悪のシナリオであるからだ。
夜までにミケと和解して。『祓い』に行かないという結論になればそれで良いし、行くという結論になったとしても、俺とミケの二人で揃って行くべきだ。
そういうわけで。急ぐに越したことはないということで。俺とハナの二人は、朝食もそこそこに、すぐに真宮家に向かうことになった。
暖かい春風に晒されながら。歩き慣れた道を二人で歩いて行く。
空を見上げれば、そこにあるのは蒼天。昨晩の大雨が嘘のように晴れ渡っていた。槍は降らないらしい。
「……暑いですね」
ハナが恨めしそうに呟いた。
まあ、それはそうかもしれない。今のハナは、メイド服の上に、ロング丈のコートを羽織っているのだから。わざわざ、春が来て一度クローゼットにしまった俺のコートを、このために再び引っ張り出してきたのである。
「コミケ会場じゃあるまいし、コスプレ人間を連れて出歩けるわけないだろ?」
本当は別の服を着させればそれで済む話だったのだが。
現在家にある女性服はミケ用のものしかなく。中学生くらいの身体付きのミケと比べると、女性にしては身長が高く、出るところも出ているハナは体格が全然違うために。それを着せられる様子ではなかったのだ。
結果、メイド服を着させて、その上にコートを羽織らせてそれを隠すというスタイルになっていた。四月も半ばを過ぎてだいぶ暖かくなっているというのに、かなり不審な風体であった。
「――というか。この間の撮影会のときは、メイド服嫌がってなかったか? なんでそんなの着て外を歩くようになってるんだ」
俺の真っ当な指摘に。
「そ、それは、『かわいい』ってあんなに言っていただけると、意外と私としても悪くないかという気持ちになってきましたから」
おいおい、単純だな……
だからって、外で着るなよ。まあ、コイツも犬だから、人間社会の常識には少し適応しきれていない部分もあるのかもしれない。
「ま、確かにかわいいな」
何となく弄ってみたくなった俺。
「で、でしょう!」
台詞だけなら、褒められ慣れている感を感じられるかもしれないが。実のところは頬を朱に染めて、噛み噛みのハナなのであった。
――コイツのことは、いつも俺に吠えてくる面倒くさい番犬だとしか思っていなかった。そんなコイツに、こうやって案外親しみやすい一面があることに気付いたというのも、ここ数日の成果かもしれないな。
そうして、俺たちは真宮家に到着する。時刻は朝の九時過ぎだった。
開店前の文房具屋真宮のほうでは、円の両親が店先で商品棚を整理しているのが見えた。ここは寂れた商店街ではあるが、日曜日はそれなりに書き入れ時なのだろう。
つまり、今は休日とはいえ、真宮家には円とミケの二人しかいないわけだ。
俺は、真宮家のインターホンを鳴らそうとする。しかし、そこで手が止まってしまった。
これくらいの逡巡は許してほしいものだ。いくら覚悟を決めてきたとはいえ、いざそれが始まろうというときに、少し待ったをかけたくなるのは自然な心情だろう。俺がヘタレだというわけではない。
が、そうは問屋が卸してくれなかった。俺の心の機微なんて素知らぬ振りで。隣からハナが腕を伸ばして、インターホンを押してしまう。
ピンポーン、という本来軽いはずの音に、試合開始のゴングを重ねてしまう俺だった。
少しの間を開けて、真宮家の玄関が開く。
中から出て来たのは、円だ。さすがにここにミケが出て来るわけはない。
「ミノくん、来たんだね」
「ああ。一晩ミケの面倒を見てもらってしまって、申し訳ない」
「ううん。それは気にしないでよ。ボクもミケちゃんと話せて楽しかったからね」
「……それで、だ」
「うん」
「ミケと話をしたくて来たんだけど、……俺と話してくれそうか?」
俺は、不安な気持ちで円に問うた。そもそもミケが聞く耳を持ってくれなければ、話し合いは成立すらしない。
昨日の別れ方では、それも有り得ない話ではないかもしれなかった。一晩寝て、気が変わっていてくれると良いんだけれども。
「ちょっと、確認してくるね」
円は、そう言うと一度玄関のドアを閉めた。
彼女が階段を上る足音が薄らと聞こえて、そして静かになる。庭で鳴く雀の声が、何もない時間を埋める。
ただ、割とすぐに円は戻ってきた。階段を降りる音が聞こえて、玄関のドアが再び開く。
「大丈夫……だってサ」
俺は、ホッと胸を撫で下ろした。
ひとまず、第一関門突破か。
「じゃあ、お邪魔して、いいのかな?」
「うんうん、どうぞどうぞ」
円の許可を得て、俺は真宮家に足を踏み入れた。玄関で靴を脱いで、階段の上を見遣る。
「俺がミケのところに行く感じか?」
「そうだね。ミケちゃんは階段上がって左手の、ボクの部屋にいるよ」
「分かった」
階段を上がる前に、俺は円のほうを振り向いた。彼女の隣には、玄関に入ってコートを脱いだハナも立っている。
言うことを言うために、俺は一度深呼吸を要した。
「実は、円とハナにお願いがあるんだけど」
「へ? お願い?」
円が、気の抜けた声を出した。慮外からの発言に、驚いたのかもしれない。
「面倒だったら、全然断ってくれて良いんだが…… 今日の昼飯、俺とミケの分も用意してもらえないか? 献立は、ハンバーグがいい」
視線を足元に落として、俺は全部を一息に言い切った。
ハナが、ふっと笑みを漏らすのが聞こえた。
「今日の昼食とはまた急ですねぇ」
だが、その声音が、決して馬鹿にしているようなものでないのは俺にも分かった。
「そんな、面倒なんてことはないよ。でも、ハンバーグなのには理由があるのかな?」
物を頼むのだから、理由はしっかり答えなくてはならない。
「いや、ただ。この間ミケと、ハンバーグ食べようって話になったからってだけ」
「なるほどねぇ」
ここまで聞いて、円はにんまりと。その顔に笑みを浮かべたのだった。
「分かったよ。そう言われちゃ仕方ないね! ミノくんとミケちゃんの仲直り記念に、ハンバーグパーティーと洒落込んじゃおう!」
「い、いやまだ。仲直りはできていないんだが……」
俺のツッコミを聞かずに、円はキッチンのほうへと身体を向けた。
「じゃあ、挽肉を買ってこなくちゃね。他にも揃えなきゃいけないものあったかなぁ」
「な、なんか面倒かけて申し訳ないな」
「良いってことよ。そしたら、ボクとハナちゃんは買い物に出かけてくるね」
円は、首だけでこちらを振り向いて、何気なくそう言った。
え、それはつまり……
この家を俺とミケだけにしてくれるということだ。
来客がいるときに家を完全に空けてしまうというのはセキュリティ的にどうなんだろうという気がしてしまうが、まあ三神家も真宮家に合鍵を渡してしまっているし、他人のことは言えないか。
とにかく、仲直りするための環境を、整えてくれるということらしい。
「――助かるよ」
俺の口を突いて出た言葉をスルーして、円は言う。
「そうと決まったら、ミノくんは早くミケちゃんとお話ししてきなよ」
「そう、だな」
円の言葉に諭されて。俺は、もう一度階段の上を見上げた。
唾を飲み込んで。俺は階段を上っていく。
階段の上。左手には、確かにドアがあった。ここが、ミケのいる部屋だ。
ノックしようとして、再び俺の腕が固まる。最後にもう一度、覚悟が必要だった。
すう。はあ。
俺は、ミケを今までと同じように扱う。何を考えているか分からないと思っても、怖がってはいけない。恐れずに、腹を割って話すんだ。
何度目かの深呼吸で、ようやく意志を確かにする。
そうして、いよいよノックするぞ、と。握りこぶしを後ろに引いたとき――。
ガチャリ、と。
ドアが開いた。
内開きのドアの向こう側から。一晩ぶりに見た、瑠璃色の瞳と、視線がぶつかる。
ドクン、と、俺の心臓が跳ねる。
彼女は、細く開いたドアの隙間から身を滑らせるようにして、廊下へと出てきた。
「他人のいる部屋の前でウジウジしていないでよ。いつまで待たせる気?」
ミケは、つっけんどんにそう言った。
「わ、悪かったな……」
いきなりのクールな対応に心が折れそうになるが、ここで諦めてはいけない。
彼女の睨んでいるかのような上目遣いを真っ正面から受け止めて。
俺は、昨晩に決めたアレを、今こそ実行しようと腹を決めていた。
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