第11話
――――夢を見た。
中学二年の夏休みのことだ。今となっては信じられないが、当時の俺は男子テニス部に所属していた。部活は夏休みでも週六日はあって、部活のある日は炎天下で丸一日汗を流す生活だった。練習は大変だったが、運動した後の疲労感が心地よく、俺は部活が好きだった。
お盆を過ぎて数日経ったその日も、一日運動した後の気持ち良い疲労感を携え、俺は円と帰り道を歩いていた。
円は女子テニス部所属だ。男子テニス部と女子テニス部は、週四日はグラウンドを共用で使うスケジュールになっていたので、部活帰りが一緒になることも多かったのだ。
「ミノくん、相変わらず調子良さそうだね~ 九月の大会も期待できそうかな?」
「ああ、期待してくれて構わないぞ」
部活が好きな俺は、部内でも二番目か三番目に上手かった。
調子に乗るのも必然というところである。
円の方も、実力こそ部内では真ん中のほうだったが、毎日テニスが楽しくて仕方がない、といった様子だった。このときだって、歩きながらラケットを振るような動作をして、一人で盛り上がっていた。正直隣で歩いていると少し恥ずかしい。
しばらくして円の素振り擬きが落ち着いたのを見計らって、俺は新しい話題を振った。
「マドちゃん、今度の夏祭り、一緒に行かないか?」
周りに人がいるときは、俺は円のことを渾名で呼ぶことはなく「ねえ」とか「おい」とか言って声を掛けていたが、二人きりのときは、未だに昔からの呼び名で呼んでいたのだった。
この辺りで夏祭りと言えば、夏休みの最後の週末に隣駅で開催されるお祭りを指す。周辺ではかなり知名度の高い大きなお祭りで、多くの人で賑わう祭りだった。俺自身も、小さい頃は三神家と真宮家で皆揃って毎年のように行っていたはずだ。昨年だって、同級生と繰り出したりもした。
「家族でってこと?」
確かめるように円がそう聞いてくる。
俺は、意を決して言った。
「いや、俺とマドちゃんの二人で」
「……そ、そっか」
円が曖昧な言葉と共に俯いて、二人の間に沈黙が踊る。
先に言い訳をするようだが、この誘いに何か言外の意図があったわけではなかった。
例えば、これを機に円と距離を縮めて、恋人関係になろうとか、そういうつもりは一切なかった。当時から恋愛というものにはあまりピンと来ていなかったし。
ただ、その頃、俺の仲良い友達の一人に彼女が出来たということがあって。よくデートののろけ話を聞かされていたということがあって。女子と出かけるってどんな感じなんだろうなと、少し気になってしまったのだ。もし俺が女子と出かけるとしたら、気の良く合う円しか考えられなかったから、こうして誘いの言葉をかけてみた。
要は、背伸びしてみたかったのだ。
「……いいよ、行こっか」
円がそう返事したのは、たっぷりと数十メートルくらい歩いた後くらいだったか。
その日はそれ以上特別な会話をすることもなく。そして夏祭りの当日まで、特にお互いにそのことに触れようとはしなかった。
夏祭りの日はすぐにやってきた。その日は、円は浴衣を着ていた。確か、薄い桃色の地に花柄の映える、かわいらしい浴衣だったと思う。家族を連れて夏祭りに来ていたときは、円はいつも私服だったので、俺はビックリしてしまったのを覚えている。
夏祭りを二人で巡っている間も、特段何かがあったわけではない。金魚すくいをしたり、射的をしたり、綿飴を食べたり。いつも家族で来ているときと何ら変わらないことを二人でやって楽しんだ。
そうして、仲の良い幼馴染みとしていつも通りの非日常を一通り制覇して、その日を終えた。
問題が起きたのは、その翌週の月曜日、二学期が始まった日のことだった。
この日は、授業は始業式だけで終わりだったので、午後一杯が部活に充てられた。
俺には部活中によく連む仲良しグループがあって、俺ともう二人の男――ひとまずA太とB介と呼ぶことにしよう――でよく話していた。ちなみに、彼女ができたという友達こそA太であって、彼の彼女も女子テニス部所属だった。一方で円も以前は女子テニス部の中で同じようにグループに属していた――円以外の二人のことを、D子とE美と呼ぶことにする――。学期中の平日は毎日男子テニス部と女子テニス部でグラウンドを共用で使っていたので、俺のグループと円のグループで一緒になって、男女六人くらいで会話に花を咲かせていたものだったのだが――。
その日は、円は一人でいる様だったのだ。
D子とE美は俺たちにいつものように話かけてきた。
円のことが気になる俺ではあったが、敢えて聞くほどのことでもないかと思って、話を遮るのも悪いかと思って、以前と同じように彼女たちに受け答えをした。
その次の日も、円は一人だった。
さらに次の日には、――円は部活に来なかった。
さすがにおかしいと思って、D子に聞いてみたのだが――
「なんでだろうね。飽きちゃったんじゃないの?」
と、言ってクスクス笑うだけで、それ以上の情報は得られなかった。
あんなにテニスに夢中だった円が急に飽きてしまうなんてことあるだろうか。
飽きたとしても、だ。円は優等生だから、三年生になって引退するまでは、それなりの熱量でそれなりに部活に参加してそれなりにやり過ごすことができたはずだった。いきなり部活に来なくなるのは不自然だ。
不審に思った俺は、さらに次の日。休み時間に円のクラスへと足を運んだ。廊下から教室を覗くと、円はクラスメイトと談笑していた。ひとまず円の楽しそうな姿を見ることができて安心する俺。
そのまま俺は、近くにいた人に声をかけて、円を呼んでもらった。呼ばれた円は、周りの視線を気にするように、こそこそと俺のいる出入り口のほうへと歩いてきた。
「な、何か用事かな。ボク、ちょっと今忙しくて……」
本当に忙しいのか、しきりに教室の中をチラチラと見て、戻りたがっているのが分かった。
「いや、大したことじゃないのかもしれないけど……」
円の落ち着きのない様子に、俺のほうまで思考が白んでくる。
それでも聞きたいことを聞くのみだった。
「最近、部活来ていないけど、どうかしたのか?」
俺からその質問が飛んでくることを想定していたのか、円は特に大きな反応は見せず、静かに俯いた。表情が見えない。
「……ボク、テニスはもうやめようと思うんだ」
「なんでだ、あんなに楽しそうにやってたのに」
「な、なんだか疲れちゃったっていうか……」
「部活で何かあったのか?」
円は小さく首を振る。
「な、何もないよ。ボクがちょっと悪かっただけ」
「――? 悪い?」
「ううん。ホントに何でもないんだ。ミノくんは気にしないで、いつも通りに過ごしてほしいのサ」
「んな、いつも通りって……」
彼女の振る舞いは、何かあったと言わんばかりの不自然極まりないものだった。
「じゃあ、ボクはこれで」
「あ、おい……」
そして、話が切れた一瞬の隙を突いて、円は教室の奥へと戻っていってしまった。
どう考えてもおかしかった。
俺は、放課後に部活が始まると、すぐにA太に相談した。彼ならば、女子テニス部に恋人がいるのだから、女子テニス部の内部事情も知りやすいはずだ。
そうして、A太を介してA太の彼女から、女子テニス部で何があったのかを聞いたのは、さらに翌日の金曜日の部活中だった。
聞くところによると、「D子が円と絶交したらしい」とのことだった。D子はテニスも部内で一番うまくて、女子テニス部の中では学年のリーダー的な存在だった。彼女と仲違いをしたことで、他の部員からも仲間外れのような扱いを受けて、部活に居づらくなってしまった、というのが真相のようだった。
「アイツ、俺が聞いたときは、しらばっくれてやがったな……」
「まあなかなか部外者にはそういうのって言いづらいんじゃないか?」
A太からのフォローを程々に聞き流しつつ、俺は二つ隣のコートでラリー練習をしていたD子を睨んだ。
だいたい、一対一で喧嘩をするというのなら仕方のないところだが、それで部の空気ごと変えてしまって円に辛く当たろうだなんて、お里が知れるというものだ。
怒りに駆られた俺は、すぐにD子の元へ行った。
「今日の部活の後、時間あるか?」
「へ? 稔くんどうしたの?」
D子の声が高い。
「いや、ちょっとここでは言えない話が……」
「わ、……わかった」
D子が俺から目を逸らして、モジモジとしながら、小刻みに頭を縦に振った。
そうして、D子に何と言おうかと考えながら、俺はその日の残りの部活動を消化した。
部活後の夕暮れ。赤い斜陽に照らされながら、俺とD子は校庭の隅で向かい合った。
「そ、それで話って……?」
D子は意を決したように、俺の目を真っ直ぐ見つめて話を促してきた。陽の光で、頬が赤く照らされていた。
「……真宮と、喧嘩でもしたのか?」
これは、最大限配慮した言い回しだった。D子が他の部員を巻き込んで円を仇にするのは許せない話だが、それでも円は「ボクが悪かった」という旨のことを言っていた。お互いに悪いところがあるのなら、D子を頭ごなしに非難するのは違うと思ったから。だからなるべくニュートラルな表現になるように気にかけた。
だけど、表現なんて些細な問題だったらしかった。意味内容そのものが、最悪の地雷だったようだ。
D子の顔から、サッと表情が抜け落ちた。
「やっぱり、稔くんは円のことが好きなんだ?」
「え? 急に何の話をしてるんだ?」
「好きなんでしょ?」
「おい、話を逸らすなよ。俺は今部活の話を――」
「逸らしてないよ」
静かだが有無を言わせぬ迫力で、D子が台詞を被せてきた。
「べ、別に俺は好きとかそんなんじゃ……」
仕方なく、彼女の問いに答えた。
「だったら、どうしてこの間は二人でデートしてたの?」
「デート?」
「ほら、夏祭りのとき!」
「あ……」
俺は、あの日の円とのことを思い出した。
「いや、あれだって別に友達として一緒に遊んだってだけで」
「友達と遊ぶために、円はあんなにオシャレするの?」
「え――」
浴衣に咲いた花弁が、脳裏を過った。
俺は、間違いなく、本当に。特別な感情なんてなかった。ただ、ちょっと背伸びしてみたかっただけで…… でも、円はどうだったのだろうか。
それは――、このときの俺には分かりようもないことだった。
「お、俺は、本当に好きとかじゃないが。仮にそうだったとしても、何の問題があるんだよ」
「問題しかないのよ」
「――は?」
「……問題しかないのよ」
「どういうことだよ?」
「言いたくない」
「それが真宮とのことと関係あるのか……?」
「知らない」
とりつく島もなかった。だが、彼女の反応は、それが大いに関係があることを物語ってもいた。
俺は、彼女の肩を掴んで、強く問いただした。
「教えてくれよ」
キッと睨んだ俺に、彼女は怯えたように肩をふるわせた。そのまま、膝を折って地べたに座り込むと、ポロポロと涙を流した。
「円は、応援してくれるって、言ってたのに。なのに、裏切って稔くんと、デートに……」
「だから、ちゃんと説明してくれって」
「私のほうが、稔くんのこと、好きなのに。……ひどい」
「なっ……!」
その決定的な言葉を聞くまで、俺の中で点と点は全く繋がっていなかった。
だが、このとき、全ての事情に合点がいった。もっと早く気付くべきだったのだと、今更思っても遅かった。
D子が、俺のことが好きだと言うのだ。俺はそのことに今まで一ミリも気付いたことがなかった。
そして恐らく、この口ぶりから察するに、D子はそのことを円に打ち明けていた。そして「応援する」という言質も取っていたのだ。きっと、円は俺の幼馴染みであるから、円にその気があった場合に強力なライバルになり得るから。それを封じるための牽制のためだったのかもしれない。
そして、先週の夏祭りで、円が俺と二人で夏祭りに繰り出したのは、D子にとっては裏切り行為に他ならなかったわけだ。だから、絶交した……?
でも、それなら、どうして円は俺からの夏祭りの誘いを受けてしまったんだろうか。こうなることなんて、簡単に想像が付くだろうに。
――俺に誘われて嬉しかったのか? もしかして、円も……?
そのとき、俺は急に怖くなってしまった。
そんなこと、改めて思うまでもなく当然であったはずなのだが。
いつも楽しそうに話している仲良しグループの中でも。表面で見せているのとは違う思惑が、皆にもあったのだ。俺からは、分からないような、皆が心の中で思って、こっそりと秘めているものがあったのだ。
他人の奥底にある得体の知れないものを、垣間見てしまったような気がした。
その上で、ここ数日の出来事は、俺の行動が招いた結果でもあることが分かってしまった。ちょっと背伸びしようとした軽率な行動が、俺たちの日常を乱してしまった。
しかも、もっと悪いことに。俺が無神経に今こうしてD子を問い質してしまったことも、まずいことだったのだと遅ればせながら気付いた。気持ちがバレて、うちに秘めた隠したい部分を見られてしまったD子は、明日も部活に来てくれるのだろうか。円の忠告通り、俺はいつも通りの生活を送っているべきだったんじゃないだろうか。
それから、俺は。
「――ごめんな」
D子に言葉でだけ謝って、その場を収めてしまった。
そうして、翌日からは、円もD子も来ない、部活が残ることになった。
――――。
「――は!」
何か物音がした気がして、俺は眠りから目を覚ました。
自室のベッドで寝てしまっていたようだ。部屋の電気はまだ点いている。
物音がした方――部屋の扉の方を首だけ浮かして見ると。
――パジャマ姿のハナが首だけ覗かせていた。
「起こしてしまいましたか?」
「他人の寝込みを襲って何をする気だったんだ?」
いつも彼女に言われているように、少し軽口を叩いてみる。
「失礼ですね、三神さん。先ほどのお話の続きをしに来たのですよ」
ああ、そういえば。何かお説教めいたものを受けていた気がする。そんなだから、こんな夢を見たのだ。
「そうだったな、じゃあリビングに戻るか」
「いえ、ここでお話をしましょう」
「は?」
ここは俺の部屋なんだが。他人のプライベートスペースで勝手に話を進めないで欲しい。
「いや、俺の部屋でやる意味ないだろ」
「意味ならありますよ。そのまま寝落ちできますから」
「いやいやいや、お前は俺と一緒に寝る気があるのか???」
ハナは恥ずかしそうに視線を逸らしながら。
「……はい」
「はああああああぁぁぁぁぁぁ?????」
今日一番の。近所迷惑な大声が。三神家に響き渡るのだった。
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