第10話

「ハナは、風呂は入らなくていいのか?」

 時間は飛んで。時刻は夜の九時。ハナの話というものは、まだ聞くことができていない。

 真面目な長話をする前に、冷えた身体を温めたほうが良いということで。ハナの薦めによって俺はさっき風呂に入った。さらに俺の入浴中にハナが手早く温かい夕食を用意してくれたので、それも食べて。現在は、身体が外から内から温まったところだ。

 メイドの格好は見た目だけというわけではなく、実際に至れり尽くせりの待遇だった。

 そんなわけで、完全にリラックスモードの中で、俺はいよいよ、彼女からの真面目な話を聞こうとしているのである。

「私は三神さんが自室に戻られた後にお借りしますので、お気遣いなく」

 ちゃぶ台についている俺の正面に座りながら、ハナは二人分のお茶を並べる。

「そっちこそ気にせずに、先に入っちゃえばいいのに」

「三神さんが同じ階にいると思うと落ち着きませんから」

「いや、覗かねえよ?」

 本当に覗く気があったら、俺が二階にいようが一階にいようがあまり関係ない気もするし。

 まあ茶化しているだけで、彼女なりの気配りなんだろう。説教じみたことをすると宣言しておきながら、肝心の本題を先延ばしにすることに申し訳なさを感じているのかもしれない。

 そこから、一拍の静寂。改めての話となると、否が応でも緊張感が高まってしまう。

「それで、そろそろハナ様の説教を聞かせて貰えるんですかね?」

「何ですか、その言い方。――しかし、どこからお話しましょうかね……」

 ハナは、遠い目で何処ともなく宙を見つめた。

 話の順序を考えているのか。

 間を持たせるために、俺はちゃぶ台に置かれたカップを取って、お茶を口に含める。

「では、まず私の認識を確かめておきましょうか」

 ハナの視線が、俺の瞳を捉える。

「ずばり、三神さんは、人間がお嫌いですよね?」

「――ゴホッ」

 危ない。言葉の持つ衝撃で危うくお茶を噴くところだった。

 俺は噎せつつもお茶を嚥下すると、すぐに食いつくように反論した。

「いや、ちょっと待ってくれ。それはミケにも説明しようとしたところだが、別に俺はミケが人間の姿になったからって態度を変えたつもりは一ミリもないぞ!」

「いえいえ。私が申し上げているのは、もっと一般的な話ですよ。ミケさんに限らず、一般的に言って、三神さんは人間の姿をした存在がお嫌いでしょう。違いますか?」

「は? いや――」

「嫌いだというのが言い過ぎであるならば、少なくとも全く好きではないのではありませんか?」

「そんなわけないだろう。これでも一応は俺だって人間社会で暮らしてるんだぞ?」

 こんなアニメみたいな台詞を自分が言うことになるとは思わなかったな。

「しかし、可能な限り、人間社会との関わりは断とうとしているようにも見えますが」

「まあ確かに、自分から敢えて人に話かけに行ったりすることは少ないかも知れないが……、それでもちゃんと話かけられればしっかり受け答えはするし……」

「それはまあそうでしょうね。話しかけられて完全無視なんてしようものなら、恨みを買って人間関係に問題が生じ、逆にコストがかかってしまう可能性もありますから。最も関わりを断とうと思ったら、無難に答えてさっさと会話を切り上げるのが最適解でしょう」

「……」

 立て板に水で繰り出されるハナの弁舌に、反論が滞る俺。

「――じゃあ、百歩譲って、ハナから俺がそう見えているのだとしよう。なんだ、お前は『そんな生き方は生きづらいから止めろ』とでも言うつもりか? これは俺の生き方の問題であって、お前から何か言われるような筋合いはないだろ」

「私だって、三神さんになんて興味ありませんから。このような話はしたくないのですが……」

 じゃあこの口論は何のためにやっているのか。

「――ご主人が悲しむのですよ。私はそれが許せない!」

 ハナの眼力に。食いしばる犬歯に。俺はハッとさせられる。

 俺とハナの付き合いは、ハナが犬のときから考えたって、そう回数の多いものではない。俺がたまに真宮家に訪れたときに、店先にハナがいれば目が合うというようなレベルの話だ。それが、さっきのまるで俺の学校での振る舞いを見てきたかのような発言は何だろうか。

 明らかに、ハナが直接知りうる情報ではない。

「そうか。円が……」

「ええ。ご主人が高校生になる直前の春休みのことです。三神さんのご家族が海外出張で家を空けるということで、ご主人が三神さんの世話を頼まれた。そうして一年半ぶりに三神さんとまともに会話をすることになったわけですが……」

 覚えている。

 中二の夏以降、俺らはまともに会話もしていなかったから。あのときは大層緊張したものだった。

「初めて三神さんの家に行くとき、ご主人はとても緊張したご様子で家を出ました。私はその緊張の理由を、単に異性の家に行くということによるものだけだと思っていたわけですが。帰ってきたご主人の落胆した様子を見て、どうやらそういう話ではないのだということが察せられました」

 俺が他人行儀な呼び方をしたときの話だろう。

 久しぶりに会った、それもあまり良い離れ方をしたわけではない幼馴染みとの距離感が、俺は分からなかった。

「私は、ご主人が落ち込んだときにいつもするように、ご主人にそっと寄り添って、元気が出てくるのをじっと待っていました。そのときに、独り言のように、ご主人は私に語って聞かせてくださったのです」

 何の話か。それは俺に限っては、言われなくても分かることである。

 中学二年の頃の話。俺と円が疎遠になった原因のこと。

「幸か不幸か、ご主人と三神さんは、高校一年では同じクラスになりましたから、そこでも、ご主人は貴方の様子をご覧になっていました。そうして時たま、悲しそうに私に話すのですよ。三神さんのことを」

 ここまで一息に喋って喉が渇いたのか、ハナは間を取って、お茶を口に含んだ。

 なるほど、今までの俺に対するハナの態度に、合点が行くようだった。

「これでおわかりでしょう? 私がなぜ、貴方のことを嫌っているのか」

「やっぱり、俺のこと嫌いだったんだな」

「ええ、もちろんです。先ほども申し上げましたが、単に貴方が中学時代の友人関係のトラブルで人間不信に陥っているだけなのでしたら、それは個人の問題なので私の関知するところではありませんでしたが。問題は、そのトラブルにご主人が関わっていて、そして貴方の性格がそれ以降変わってしまったことをご主人が気に病んでいることなのです。貴方が過去のことでウジウジしてご主人に対してさえも態度を変えてしまうから、ご主人はずっと後悔し続けている。それこそが、私が許せなくて、私が貴方を嫌いな理由です」

 ハナの身体からは、まるで怒りが熱気となって放たれているかのようだった。

 プレッシャーに怯みつつ、俺は言葉を探す。

 確かに、俺自身の性格は、あの時期を境にして結構変わってしまったのかもしれない。

 今では根暗な帰宅部をやっている俺だが、中学時代はテニス部でまあまあ活躍していたタイプの人間だったのだ。友達も、客観的に見て多い方だったと思う。

 この変化の原因の一端を担ったと、ある意味では言えるかもしれない円が、それを気にしているというのも、分かる話だ。アイツは良い奴だから。

 だが。しかし。

「だとしても、俺の返答は同じだぞ。円のために、俺の生き方を元に戻せなんていうのは無茶な話だ。だいたい人間は成長するわけで、俺にとっての成長がこうだったってだけのことだよ。それに、今の生活だって悪いだなんて思ってないしな」

「何も、全てを元に戻すようにとは申し上げていませんよ。せめて、近しい人間にだけはもっと心を開いたらどうなのですか、と申し上げたいのです」

「そもそも、俺は心を閉ざしているつもりもない」

「では、どうしてミケさんともこのような形になってしまっているのですか」

「――っ」

「先ほど、『貴方は問題の本質を理解していない』と申し上げましたが、それを説明して差し上げましょう」

 ハナは最後に取っておいた切り札をオープンするようだった。

「貴方は、意見の齟齬が原因だと言いました。それも間違っていません。それがなければそもそも揉めることもないのですから。しかし、それだけでは問題が起こらないのも事実です。ここで問題を起こしている原因は、その先。貴方が相手の意見を理解しようとしないこと、自分の意見を説明しようとしないことです」

 そのカードに応じるだけの手札が、俺になかった。

「私たちがちゃんと話し合うようにと申し上げたのに、貴方は『納得してくれるか』だの言って、折り合う気がありませんでした。相手と分かり合うことを端から放棄しているのを、心を閉ざしていると言わないで何と言うのですか」

「それは……」

「だいたい、ご主人に対して心を開いているというのなら、どうしてもっとあなたからご主人にコミュニケーションを取らないのですか。ミケさんを人間に戻したいという話だって私たちには相談しませんでしたし。ご主人からの提案や親御さんからの強制力がなかったら、ご主人に何かを頼るということもしませんよね!」

 いつしか、感情が昂ぶったハナの瞳には、涙が溜まっていた。

 それに気づいたように、ハナは顔を上向けると、舌鋒を一旦収める。

 その煌めきに気圧されて、俺はポロリと零していた。

「……俺は信じられないんだよ。他人と分かり合えるってことが」

 俺が見ている世界と、ハナが見ている世界は違う。

 極論を言うならば。俺が手元のカップを見て「白い」と思ったときと、ハナが同じカップを見て「白い」と思ったときとで、二人が本当に同じように「白」を感じられているということを、現代では誰にも証明することができない。実は、同じようには感じていないのに、同じ「白」という言葉を当てはめているだけなのかもしれない。

 そんな不確かな主観同士の関連を、多少言葉を尽くした程度で確かなものにできるだなんて、どうやったら素朴に信じられるだろうか。

 俺から漏れた本音に驚いたように、再びハナがこちらを見た。

 ただ、俺の言葉に何と返したら良いのかは、彼女も分かっていないようだった。

 目線が揺れる。

 これは俺の主義の問題であって、そこの根本を揺らがそうということが難しいことは、彼女も理解しているのだろう。

 それでも、少し満足げに、彼女が頬を緩めたのが分かった。

「すみません、私、熱くなりすぎてしまいました」

「……本当だよ、全く」

「一旦、頭を冷やしましょうか。私はシャワーを浴びてきますので、三神さんは部屋にお戻りください」

「あ……? ああ、そうか」

 ハナからの中断の合図にも、俺の熱暴走した頭はあまり止まってくれそうにはなかった。

 ひとまず自室に戻って、ベッドに寝転がってみるが。

 ――冷えるのか? 頭。

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