第9話
俺は、とにかく駅の周りを走り回って、ミケを探した。
焦りとは裏腹に、雨脚はどんどん強まっていく。
何とかしてミケを探し出さなくては。疲れてどこかで倒れてしまったら本当にまずい。
――でも。
ミケが見つかったとして、一体俺は、ミケに何と声をかけるつもりなのだろうか。
足だけは止めずにミケを探しているが、頭はまるで夢を見ているかのように現実感が失われていた。思考が、他人事のように味気なく回る。
満足させようとして黙っていたことを、しっかり謝ろうか。
だが、そんなことでミケは許すのだろうか。
初めから話す気がなかったくせに、今更こちらから話を振ろうなどというのは、あまりにも自分に都合が良すぎるのではなかろうか。
それに俺は、ミケが猫に戻るべきであるという意見を変えるつもりはない。あるべきものはあるべき場所に還らなくてはいけないのだ。一時的に猫が人間になることがあってしまったとしても、それは可及的速やかに解消されるべき異常事態でしかない。
しかし、ミケはそれを嫌がるに決まっている。特に、あんな勘違いをしているのならムキになって意見を変えないはずだ。別に俺は、ミケが人間になったくらいで態度を変えたりするつもりはないのに。ミケのために、猫に戻ってほしいと思っているのに。
それなのにミケは、俺の中に態度の変化を見出してしまった。ある人にとっての世界というものは、その人が見ているもので構成される。ミケが俺に態度の変化を見たのなら、ミケの世界ではそれが真実となる。
これだから、人間関係というものは面倒くさいのだ。
俺は道ばたに転がっていた小石を蹴飛ばす。
転がった石は塀に当たると、むなしい音を響かせるばかりだった。
一方で、雨は俺の体を濡らして、足取りを重くしている。
もう、駅の周りはあらかた探したはずだ。でも、ミケの姿は見つからない。
ミケは今日初めて外に出たくらいだ。ミケが行きそうな場所にも全く心あたりがなかった。
これならスマホを持たしておくべきだったかな。いやでもこんな状況じゃ、アイツはメッセージにも反応しないか。
もはや取り留めもない思考。
体がぶるっと震えた。
濡れた服が貼り付いて寒い。
もしかしたら、フラッと家に帰っているなんてことはないだろうか。
甘い考えは、毒のように疲れた体を冒す。もう、探す気力もなくなってきた。
俺は、希望的な観測に身を任せ、とりあえず家に帰ることにした。
諦めと言っても良かった。
家に帰ると、玄関の前には俺と同じようにびしょ濡れになったミケが居て。「なんだよ心配かけやがって」なんて言いながら、自然にいつもの調子に戻るような。
そんな想像を、帰り道に俺は何回繰り返しただろうか。
だが、雨の中ようやく家にたどり着いたとき、玄関の前にミケの姿はなかった。俺は玄関を開けて、闇が淀む室内へと、体を何とか押し込む。
結局家にも帰っていないか。
いよいよアテがないな。
俺は闇に溶け込むように、そのまま廊下へと寝転がった。
――寒い。
もう何もしたくない。
どれだけそうしていただろうか。時間の感覚はとっくに消え失せている。
そんな折りに、玄関のチャイムが鳴った。俺は飛び起きる。
ミケが帰ってきた!?
淡い期待を胸に、ドアを開ける。ドアの覗き穴もインターフォンのモニターも確認せずに。我ながら不用心な話だ。でも、もう疲れていた。
そして、ドアを開けた先、期待していた高さに顔はなく。代わりにあったのは、白いフリルの大きな膨らみ。少し目線を上げると、そこにあったのは金色に流れる長髪だった。
最も予想していなかった人物の登場に、俺は不審な目を向ける。
「ハナ、どうしてお前がうちに……?」
「私もできることなら、三神さんの家に伺いたくありませんでしたが。ご主人にお願いされてしまいましたので」
円はどうしてそんなお願いをしたのか。
不審に思ったが、今は彼女らに構っている場合ではない。
俺は、にべもなくドアを閉めようとした。
ガツっ。何かにドアが引っかかる。
足下を見ると、ハナが自らの足をドアに挟んで止めていた。
随分と強引じゃないか。俺はハナを正面から睨んだ。
一方のハナは、視線を落として俺の体を一瞥する。
濡れ鼠のような俺の姿に、何を思うのだろう。
「ご主人から三神さんの面倒を見るように仰せつかっているのです。ひとまず、家に上げて下さい」
「家政婦を頼んだ覚えはない」
彼女が着ているメイド服を一瞥して拒否した。
「私としても上げていただけないと困ってしまいます。このまま帰っても、ご主人はきっと家に入れて下さらないので」
そんなことを俺に言われても困る。そうして判断にあぐねている間に、彼女はさらに体をねじ込んできた。
もうこれでは玄関は閉められない。
「――強引すぎる。気が済んだらすぐ帰ってくれよ?」
諦めて俺はハナを家に上げることにする。
彼女を仕方がなくリビングへと導いて、灯りを点ける。ようやく部屋から闇が霧消した。
ちゃぶ台の前に座るように手で示して、自分はそこに向かい合うように腰を下ろす。
しかしハナは座らずに、俺のほうを見下ろして咎めるように言った。
「三神さん、濡れた体を放置しているのは体によくありませんよ」
「……」
「タオルはどこにございますか。体を拭きましょう。話はそれからです」
俺は洗面所のほうを指で指し示す。
何も言わない、何もしようとしない俺に呆れた様子のハナだったが、憎まれ口を叩かずにタオルを取りに行った。戻ってくると俺の後ろに回って、頭をわしゃわしゃと拭く。雑だな。
ハナも犬だった頃は、こうして円に拭いて貰ったりしていたのだろうか。
そうして、体のほうは自分で拭けということなのか、ハナは俺の肩にタオルを載せる。ちゃぶ台を挟んだ正面の位置に戻って、彼女は腰を下ろした。
タオルを服の下に挟んだりしながら、俺はしぶしぶ体を拭いていく。そうしながら、チラッとハナのほうを向いて、話を促した。
それを認めたのか、ハナはやっと口を開く。
「三神さん、目も当てられないような落ち込みぶりでございますね」
「なんだ嫌味か? まあ、色々あったんだよ」
「そんなにミケさんが心配ですか?」
俺は驚きで目を見開く。思わず目の前のハナの両肩を掴んでしまった。
「どういうことだ。お前はミケがどこに行ったか知っているのか?」
そもそもどうして、ミケが行方知れずになっていることを分かっているのか。
その問いの答えは、すぐにハナが明らかにする。
「安心してください。今、ミケさんは私たちの家にいらっしゃいます」
ハナは、俺が両肩を掴んでも動じることなく、あくまで冷静だった。
その振る舞いが、俺の頭を冷やしてくれる。
熱くなりすぎだな、俺。
我に返った俺は失態を恥じつつ、前のめりになった体を戻した。
「ミケさんから事の顛末はお聞きいたしました。今は三神さんの顔を見たくないということなので、しばらく私たちの家で預かろうかと考えております」
「そうか……」
冷静になってみれば。ミケの行くアテは一つだけあったのだ。
今日の朝、ミケは集合場所に行く前に、円に迎えに来てもらって真宮家に行っている。そうして、服をコーディネートしてもらっていたのだ。だからミケは、唯一の自宅以外のよりどころとして、真宮家に逃げ込むことができた。
俺は、素直にほっとした。無事で良かった。
しかし……
顔を見たくない、か。完全に嫌われてしまったな。
「そういうことなら、ミケのことをよろしくお願いするよ。こっちの事情で迷惑をかけてしまって、申し訳ない」
「全く問題はございません。ご主人も、ペットが増えて喜んでおります」
円が、「うちの子になっちゃう?」とミケを撫でている様子が目に浮かぶ。
それを想像すると、あまりにもやるせない気持ちになってくるな。
心の中で泣く俺。
とはいえ、これなら一度落ち着けるだろう。ミケはどこに行くアテもなくこの雨の中をさまよっているわけじゃないらしい。居場所が分かっただけでもだいぶ安心感が芽生えた。もちろん、まだミケと仲違いしたままだという問題は残っているが。
そうして落ち着いてみると、この状況もだんだんと掴めてきた。
事情を聞いた円が、俺に気遣ってくれたということなのだろう。
ミケと仲違いをして気を落としているだろう俺を、元気づけるために。
全く、お節介な奴だ。
その目的を果たすためには、だいぶ配役を間違えている感があるが。
そんな俺の不満が視線から漏れていたのか。
「お察しかとは思いますが。そのようなわけで、私は、孤独にむせび泣いているであろう貴方を元気づけるべく、ご主人によって派遣されたというわけです。ご主人の予測は大当たりでしたね」
泣いちゃいねえが。
「泣いちゃいねえが」
「同じようなものでございましょう」
ほら、こういうところが憎たらしいのだ。どうせ来るなら、円が来てくれたほうが良かった気がする。
――そうでもないか。アイツとしても俺に気を遣っているのかもしれない。
「『どうせなら円に来て欲しかった』って顔に書いてらっしゃいますね」
やはり俺の気持ちは表情に出ているらしかった。
「しかしそれは無理な相談ですよ。若い男女が同じ屋根の下で一晩過ごすことを、ご主人の親御さんが許すはずがありませんし」
「へ?」
今、一晩って言ったな。このメイドは。
「今日泊まってくのか、お前?」
「大変不本意ながら。ご主人の命令ですので」
いやいや、円さん。流石にそれはお節介が過ぎるというものだろう。
俺の精神状態を心配してくれているのだろうが。それにしたって、ミケが真宮家にいると聞いてもう完全に落ち着いたのだ。あとは、どうやってミケのご機嫌を取るのかを冷静に考えるフェーズである。
「いや……、俺としてはもう帰ってもらってもいいくらいなんだが」
円が俺の家に泊まるのがダメなのなら、ハナだって同じようなものではないのか…… 犬を他人の家に預けるのは、確かに普通にある話だが。コイツは今人間の姿なんだぞ。
――というか、さっきは一杯一杯だったのでスルーしてしまっていたが。なんでメイド服着てるんだコイツ。
この格好で外歩いてきたのか!?
この格好で俺の家のチャイムを鳴らしたのか!?
ご近所さんからのあるぬ誤解が不安になる俺だった。
いかがわしいデリバリーだとは思われていないだろうな……
そんな俺の動揺なぞつゆも知らず。
「そうはいきませんよ。私自身も、貴方とお話ししたいと思っていたところでしたし。私は、貴方が問題の本質を理解していないかもしれないと心配しているのです」
ハナは真面目な調子だ。
「問題の本質?」
「ええ。貴方は恐らく理解できていません」
彼女の栗色の瞳が、俺をまっすぐに射貫く。
「だからそうやって、ミケさんのことを傷つけてしまうのですよ」
――。
「問題って言ったって。俺はミケに猫に戻って欲しいと思っているが、ミケは人間の姿で何かやりたいことがある。そこの食い違いが全てだろ? 本質も何もないよ」
彼女は、心底呆れたというように溜息をつく。
「やはりですか。だからこそ、これから”お話”しましょうと申し上げているのです」
「……なんか、説教でもされそうな雰囲気だな」
「ある意味ではそういうものに近いかも知れませんね」
ハナの瞳は鋭く、まるで俺の心中を見透かそうとしているようだ。
「実は私、ずっと前から貴方に申し上げたかったことがございまして。今日はちょうど良い機会なようです」
ずっと前からと来たか。愛の告白では……なさそうだな。
とてもそんな雰囲気ではない。むしろ、たき火がパチパチと弾けるように、静かな怒りを全身から漂わせていた。
この炎に素手で触れるほど、俺の肝は据わっていない。
仕方なく、話を促すしかなかった。
「分かったよ。とりあえず、話を聞くだけ聞こう」
こうして。憎たらしい番犬、あるいはメイドとの。
楽しい楽しいお泊まり会が、始まろうとしていた。
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