第8話

 ミケの手のひらの感触に気を取られていると、水族館にはすぐに着いた。

 まるで時間が切り取られたかのようだった……道中は完全に二人で黙りこくってしまっていたな。

 入り口の受付で二人分の料金を払って、中へと入る。高校生にはなかなか痛い出費だった。しばらく、マンガを買うのはセーブしないとまずそうだ。

 俺は、受付で貰ったパンフレットを両手で開く。自然と、お互いの手が離れる。

 隣からミケが紙面を覗き込んできた。

「イルカショーは三時からで、アシカショーは一時からね」

 沈黙を破ったミケの振る舞いは、いつも通りの調子だった。手を繋いでいたことなど、気にしていないかのような。

 そちらがそのつもりなら、俺だって平静を装う努力をしよう。

「それなら、一時より前に一度外に出て、フードコートで昼飯食べたいな。とりあえず今は一階だけ回るつもりで行こうか」

「分かったわ。そうと決まれば早く行くわよ!」

 そんな宣言とともに、通路の先をキュッと向いたミケ。サッと俺の手を掴んで、奥へと歩き出す。

 全く、どうしてか俺のほうが振り回されてばかりみたいだ。

 それからのミケは、それはそれは水族館を存分に満喫しているようだった。一つ一つの水槽をへばりつくように眺め、感嘆の声を上げている。

 子どもたちに混ざって最前列で魚を楽しむ様子は、何だかとても可笑しかった。本当に笑っていたら、「何笑ってんのよ」と、ミケにむくれられてしまったが。

 しかし、水族館は思った以上に良いところだ。正直、俺はミケの付き添いで来ただけで、俺の歳じゃ行っても大して楽しくないだろうな……と懐疑的な気持ちだったが、とんでもない思い違いだった。ゆっくり泳ぐ魚には癒やされるし、たまに奇抜でカッコイイ魚もいてビックリする。俺もミケの横で、水族館をかなり満喫していた。よくよく考えれば、魚だってペットとして飼われることも多いわけで。ペットを愛する俺とは、かなり親和性が高いのかもしれなかった。

 そうして巡っていると、俺らはクラゲの部屋に着いた。広くて暗い部屋の中には、人間の背丈くらいの円筒形の水槽がいくつも並べられていて、それぞれにたくさんのクラゲが泳いでいる。水槽自体は淡くカラフルな光でライトアップされていて、クラゲの優雅な泳ぎが引き立てられていた。見ていると心が安まる気持ちがして、俺ら二人は、しばらくクラゲの水槽を眺めているのだった。

 不意に、何を思ったのか、ミケが口を開く。

「……学校って、大変?」

「どうしたんだ急に」

 突然の問いに、俺は苦笑した。

「深い意味はないんだけどね。アンタ、学校帰りはすごく疲れてそうに見えるから。……今月は特に」

 ミケはよく俺のことを見ているようだ。

 心配させないように、俺は明るく返す。

「まあそれは、外で働いてくるようなものだしな。疲れるのは当たり前さ」

「ふーん?」

 ここで、ふと思い当たることがあった。

「もしかして、俺の疲れが癒やされるように、この水族館を選んでくれたのか? このクラゲの部屋すごく綺麗だもんな」

「はあ!? そ、そんなわけないじゃない! この自意識過剰のバカ飼い主!!」

 すごい剣幕。

 何かあったのかと周囲の目線が刺さった。

 ごめんなさい……

 残念ながら、そういうことではなかったようだ。

 しかし、俺の日々の疲れが癒やされていることには変わりない。

「ありがとうな。助かったよ」

「い、良いからもう行くわよ!」

 照れ隠しか、ぶっきらぼうなミケ。

「うーん、ミケに話を逸らされた……」

「全く、逸らしてるのはどっちなんだか」

 最後の言葉は小声でよく聞き取れなかった。

 それから、昼飯を挟んで、俺らはまた水族館を巡る。

 アシカショーでは、ミケが「かわいい~」と大騒ぎだった。

 トンネル型の水槽では、頭上をエイが飛んでいくのがカッコ良かった。

 イルカショーでは、最前列に座って、ミケと二人でずぶ濡れになった。ポンチョを買っておいて良かったなと、二人で顔を見合わせて笑い合った。

 しかし一方で、水族館の終わりに近づくにつれて。俺は、興奮が抜け落ちていくようだった。

 俺は今、ミケの望みを叶えて、満足させることで、ミケを猫の姿に戻そうとしている。

 ミケの望みが単純に「水族館に行く」ことではないのだろうというのは、想像がついているところだが。

 それでももしかしたら、ミケはこれで十分に満足してくれる可能性もある。それに、そうじゃなかったとしても、今後も今日みたいにミケの望みを叶える努力をしていくことで、いつかは猫の姿に戻ることに同意してくれるだろう。

 それは、俺が望んでいることだ。動物が人間の姿になったり、あまつさえ『祓い』をするよう指示されたりするというのは、俺にとっては受け入れがたいことだ。俺が愛しているのは、変化のない日常なのだから。

 たまたま今日は、人間の姿のミケとのお出掛けが楽しいものになっているが。これは一時的な逸脱だからこそ、きっと楽しいのであって。すぐに元に戻るだろうと信じているからこそ、この時間がもう少し続いてほしいと感じているだけなのだろう。

 そのはずだ。

 それに、やはりあの影の言うとおりに従うというのは、ミケの身を危険に晒す可能性だってあるんだ。ミケのためにも、影との契約は、破らなければならない。

 だから、俺は別に、惜しいことをしているわけではない。

 ミケのぬくもりを左手に感じながら。俺は自分に言い聞かせた。

 最後の出口の前、お土産屋さんがあった。繋いでいる手を引っ張って、俺はミケを誘導する。

「せっかくだし、何かないか見ていかないか?」

「へー、アンタってこういうの興味がないタイプかと思ってた」

 ミケが意外そうな顔をする。確かに、俺は出かけた先でお土産を買うのはお金が勿体ないと考えるタイプの人間だと思う。しかし、たまには気まぐれで、買いたい気持ちになることもあるのだ。

「思い出になるものがあればって思ってね」

「いい心がけじゃない」

 ミケが謎に偉ぶる。

 そのまま二人でお土産屋さんの中を回った。

 お菓子は――食べたら後に残らない。

 ぬいぐるみは――俺のお財布には厳しい。

 お手頃なものを探すというのは、なかなか難しいものだ。

「じゃあ、これなんかどうかしら」

 悩んでいると、ミケが示したのは二つのストラップだった。イルカと鈴が付いている。全く同じ形をしているが、片方はピンク色で、もう片方は水色。色違いになっていた。

 二人でお揃いのものを買おうということか。確かにこれなら思い出になりそうだ。

「ミケこそ、こういうの恥ずかしがるタイプかと思ってたぞ」

「せっかくだからね。仕方なくお揃いにしてあげるわよ」

 胸を張るミケ。

 じゃあ、そうするか。

 俺はレジに向かった。

 


 お土産も買い、俺らは水族館を後にする。

 最寄りの駅まで手を繋いだまま帰った。

 そして、二人で、帰りの電車に揺られる。

 俺は、ミケに話を切り出すタイミングを計りかねていた。

 ミケは俺の黙りに気づいているようだったが、少し寂しそうな顔をするだけで何も言うことはない。

 時刻としてはもう夕暮れなはずなのに、空はいつの間にか現れた厚い雲に閉ざされ、オレンジの光は車窓に届いてこなかった。

 席に座っているだけの時間は、案外と早くすぎるものだった。あるいは、悩んでいるだけの時間と言ったほうが良いか。

 最寄り駅に着いて、俺とミケは電車を降り、改札を出る。もう、手は繋がなかった。

 外へ続く階段を降りながら、やっとのことで俺は口を開く。

 家に着いてしまったら、話す気が完全に萎えてしまう気がしていた。

「今日は楽しかったか?」

 ようやく声を出した俺に安心したのか、ミケが素直に微笑む。

「ええ、楽しかったわ」

「疲れたか?」

「それは歩き回ったから疲れているけれど、大丈夫よ」

 なら良かった。

「これくらいでは、ミケは満足できないか?」

 俺は気軽に聞こえるように注意しながら、本題へと切り込もうとしていた。

「え……?」

 そこでミケは、氷のように硬い声を漏らす。

「あ、いや、そうだよな。まだ足りないか…… ミケは、次は何をしたいんだ?」

 俺がミケの顔を覗くと。ミケの瞳に、悲しみとも怒りともつかない、複雑な光が宿っていくようだった。 

 ミケの心が冷える音を、聞いた気がした。

「どういうこと?」

 いつもの冗談で怒っているときとは明らかに異なる、低くうめくような、ミケの問い。

「どうもこうも、ミケが人間でいたがるのは、何かやりたいことがあるからだろうから。それを――」

 ここまで話して、俺は自らの失言に気づいた。

 そうだ、俺は。水族館に行く目的を、ミケに説明していなかったはずだ。

 忘れていたわけではなくて、意図的に話していなかった。

 なぜ今日ミケを水族館に連れてきたのかといえば、それは猫に戻ってもらうため。

 ミケを人間へと拘らせる何か願望があるはずで。

 それを叶えれば。ミケを満足させることができれば。きっとミケは猫に戻ろうとするはずだから。

 だから、俺は今日、ミケを水族館に連れて行ったのだ。

 だが、これをミケに詳細に説明するわけにはいかなかった。

 現状として人間で居続けようとしているミケに対して、猫に戻って欲しいとは、言い難かったからだ。

 あるいは、俺がどんなことをしたって、ミケの願望が簡単には満足しないだろうことを、無意識に危惧していたのかもしれない。本当に願望を叶えてやれると思っていたら、真っ正面からそれを聞き質してやれば良かったのだ。水族館という答えで妥協せず。「人間の姿でいることで、ミケはどんなことがしたいんだ? 俺もそれに協力するよ」と。

 それをしなかったのは、彼女の願望がそう簡単には叶わないことである可能性に怯えて。代償的な手段で、願望とは異なる様々なことを積み重ねることで、何とかミケを満足させようとしていたからではないのか。

 とにかく、俺はそうやって、彼女に深く説明をすることなく、水族館へと連れ出したのだ。だから、話を円滑に進めるためには、このデートじみた行為の目的について俺は何も語ってはいけなかったのだ。

 それなのに、自分の気持ちに整理をつけることに必死になるあまり、うっかり口を滑らせてしまった。

 もちろん、黙っていたことは、悪いとは思っている。でも、俺は、やはりミケは猫に戻るべきだと思っているのだ。これはミケ自身のためでもあって。得体の知れない作業に協力させて、彼女の身体を危険に晒すわけにはいかない。これは、飼い主としての務めでもある。

 しかし、黙っていた後ろめたさもあり、俺は何と言っていいか分からず、うまく二の句が継げなかった。

 それ以上の説明がないと見たのか、ミケは詰り始める。

「私がいつ、頼んだかしら?」

「それは、そんなことは言っていなかったけれど――」

「不思議に思っていたのよね。どうして急に私のやりたいことを聞いてくれようとしたのか」

 そういうことだったのねと、ミケは俺に反論の隙を与えることなく、畳みかけてくる。

「私ばっかり浮かれていたのがバカみたいじゃない!」

 ミケはキッとこちらを睨んだ。

 そして、その言葉は俺の胸を刺す。

 確かに俺はミケを騙していたかもしれないが。それでも、今日をとても楽しんでいたのは本当だ。俺の振るまいが、全て嘘だってわけじゃない!

 だが俺の口は思うように動いてくれず、ミケの心の叫びだけが募る。

「よくよく考えたらおかしいものね。アンタ、ここ二日くらいずっと帰りが遅かったじゃない」

 ――?

 思いもよらない話を持ち出され、俺の思考が中断された。

 それは周防のところに行ったり、ハナの写真を撮ったりしていたからだ。

 それ以上の深い意味はない。

「いつも毎日のように早く帰ってきたのに。今まで二日連続で帰りが遅くなるなんてことあったかしら?」

 ――!!

 ミケが何か盛大な勘違いをしようとしている。

 予言めいた危機感が、俺を焦らせた。

「違う!」

「違わない!」

 しかしミケの気迫は、俺の言葉を受け付けない。

「アンタ、私が人間になってから、私のこと避けているでしょう? アンタのこと、ずっと私を大事にしてくれる良い飼い主だと思っていたのに…… でも、アンタは違うのね。猫じゃない私のことなんて、どうでも良いんだわ!」

 どうしてそうなるのか!? そんなつもりは毛頭ない!

「お前、俺だってお前のためを思ってやってるんだぞ」

「私のためなんだったらどうして私に内緒にするのよ?」

俺はミケの目を睨む。ミケの目には、涙が溜まっていた。

「それは――」

 それを言われると、正直痛い。

「――悪いとは思っているよ」

 俺がそれ以上説明しないことを察したのか、ミケはキッと俺を睨むと、

「もういい!」

 そう言い残して、駆け出してしまった。

「おい、待てって!」

 俺は慌てて追いかけた。

 猫なだけあって、ミケは身軽だった。俺が階段でもたついている間に、ミケはするすると階段を降りて道路へと逃げてしまう。

 しかし、ミケと俺では体格の差もある。いくら帰宅部とはいえ、女子中学生の体に追いつけないことはないはずだ。

 俺は階段を降りると、ミケの走って行った方向を見た。

 駅前の大通りにかかる横断歩道、その手前にミケの姿はあった。

 俺は全力疾走で、ミケを追う。

 だが、こういうとき、人はとことんツいていないものである。

 横断歩道の歩行者用信号の青色が点滅するのが、見えた。

 ミケはそのまま通りを渡って行ったが、後ろを走る俺は間に合わない。

 信号が赤になる。

 クソ。

 俺は悪態を吐きながらも、止まるしかなかった。

 すぐに車が動き出して、俺とミケの間を遮る。

 ミケは通りの向こうで角を曲がり、姿を消した。

 次に信号が青になって俺が通りを渡った頃には、もうミケの行方は分からなくなっていた。

 途方に暮れて、ミケが曲がって行ったはずの角を見つめる俺。

 そして、そんな俺を責めるように、雨が降り始めるのだった。

 

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