第7話
翌日の土曜日。時間は朝の九時少し前。俺は集合場所になっている駅の改札の前で、ミケを待っていた。約束した集合時間は九時ちょうどなので、もうすぐにでも来るだろう。
休みの日は遅くまで寝ているのが習慣の俺としては、だいぶ早い集合だ。普段だったらまだベッドの中だったろう。しかしこんな時間でも、休日だけあって駅は多くの人で賑わっていた。
例えば、ふと隣を見れば、大学生くらいの男の人が俺と同じように誰かを待っているようだ。時間を気にしているのか、不安そうに何度もスマホを確認していた。すると、そこに駆け寄ってくる女の人の姿。ほぼ同い年くらいに見える。男の人のほうはそれに気づくと、にこやかに手を振って女の人のほうへ歩き出した。そして、二人はそのまま手を繋ぐと、仲よさそうに改札の中へと入っていった。
今のはきっとカップルだろう。
俺は、カップルを見ても、別に羨ましいとは思わない。決してこれは強がりなどではなく、本当にだ。本当に。恋人を作るということは、それだけお互いがお互いに踏み込むということであり、恋人で居続けるということは、お互いの気持ちを尊重し合うということになるのだろう。他人の気持ちを察するのが面倒で人付き合いを避ける俺には、とてもできることじゃなさそうだ。
そもそも、ちゃんと付き合いがある異性の知り合いが、今や円くらいしかいないしな。
円は、俺とのちょうどいい距離を見定めて、必要以上には踏み込んでこないから、安心して話していられる。昨日突然家に入ることになったのは少し驚いたが、アレはあの異常なテンションで我を忘れていただけなのだろう。
さて、改めてスマホを確認してみると時刻は九時三分。ミケはわずかな遅刻のようだ。流石に三分くらいで怒る俺ではないが、正直少し不安にはなってくる。
何せ、ミケにはスマホを持たせていない。いくら大事なペットとはいえ、スマホを持たせてあげられるほど、三神家の家計に余裕はないのだ。いつまで人間でいるのかも不透明だし。というわけで、実は家を出てしまうとミケとの連絡手段はなくなってしまう。ミケに何かアクシデントがあった場合、ずっと合流できないなんてことにもなりかねないわけだ。
うーん、本当に集合できるのだろうか。昔は携帯電話がないのが普通で、それで待ち合わせをしていたと言うが、とても信じられない話だと思う。
だが、幸いなことに、俺の心配は杞憂に終わった。
「待たせたわね」
俺がスマホを見ていると、すぐ隣でミケの声がした。
声のほうへ顔を上げると、俺はしばらく言葉を失うのだった。
ミケは、水色のワンピースを着ていた。
スカート丈は膝の上で、白くて細い足が目にまぶしい。
上には白の薄いカーディガンを羽織って、黒くて小さいバッグを肩にかけていた。
ショートの髪は瑠璃色のヘアピンで留められていて、彼女の瞳の色との調和が綺麗だ。
正直、期待をしていなかったと言えば嘘になる。ミケはただでさえ芸能人顔負けの美少女だ。それがお洒落をしてくるとなれば、きっと大層可愛くなるのだろうと楽しみにしていた。
しかし、これは期待を遙かに超えてきた。もはや、可愛いなんて領域のものじゃない。まるで天使だ。天界から舞い降りた、神の使いだ。
「ちょっと、何とか言いなさいよ……」
黙りこむ俺に、不安そうに上目遣いを送るミケ。
「あ、ああ」
ミケが可愛すぎてキョドる俺。
落ち着け。落ち着け。
いくら天使のようだとはいえ、所詮はミケだ。毎日会っているじゃないか。
今更緊張するものではない。
せっかくお洒落してきたのだし、何か褒めた方が良いだろうか。
「ふ、服っ、似合ってるな」
めっちゃ噛んでしまった。恥ずかしい。
それでもミケは褒められて満足したようだった。
「でしょう?」
調子のいい奴だ。
いつまでもミケと向かい合っているとどうにかなってしまいそうだったので、俺は改札のほうに向き直ってミケに案内することにした。
「ここが駅ってところだ」
「昨日ネットで調べたわ」
……
適応力の高い猫だった。
「あっちでキップというものを買って、ここに通すのよね」
一昨日まで料理の火加減さえ分かっていなかったというのに……
昼間一人で家にいるのは暇だろうと思って、家のパソコンの使い方を教えていたのだが、二日ですっかり使いこなしているようだ。今日行く水族館も、ミケがネットで調べて、一番行きたいと思ったところらしい。
今まで俺の家で生きてきたミケは、当然家の中の世界しか知らないわけで。遠出するのも今日が初めてだ。そこも不安だったところだが、ネットでしっかり予習してきたなら少しは安心しても良いのかもしれない。
料理のときの失敗がよほど恥ずかしかったんだろうな……
「そうだぞ。ちゃんと下調べしてて偉いな」
ついいつもの調子で撫でようとして、途中で止める。
危ない、不用意に頭を撫でて機嫌を損ねるところだった。
宙に残ってしまった手が不自然にならないよう、そのまま券売機のほうを指す。
「じゃあ、さっそく切符を買ってみようか。折角だし自分で買ってみるか?」
ちょっと怪訝な顔をしたミケだったが、特に気にしなかったようだ。
「やってみたい」
目が輝いている。こうしていると、ちょっと妹ができたような気分になるな。
二人で、券売機の前に行って、ミケに千円札を渡す。
「これが本物のお金なのね……」
確かに、普通はまずそこからだよな。
ミケの反応に、何だか俺まで新鮮な気持ちになってくる。
「こんなペラペラなものに価値があるなんて面白いよな」
「そうね。人間って不思議だわ」
端から見たらこの会話はだいぶ異常だろう。俺は苦笑いしつつ、ミケに説明を始める。
「そしたら、このお金をこの黒いところに入れるだろう? で、これから俺らが行くのは、この駅だから、この駅のボタンを押す」
「うん」
「そしたら、切符と、あとお釣りが出てくるから、両方とも忘れずに取るんだぞ」
「分かったわ」
ミケは、真剣な顔で、言われた通りに券売機を操作し始めた。
俺は交通系ICを持っているので、何もせずに後ろから見守る。
しばらくして、ジャラジャラっと、お釣りが出てきた音がした。
「バッチリ買えたわ!」
弾けんばかりの笑顔で振り向くミケ。
ペットが芸を身につけたら、大げさなくらいに褒める。これは飼い主としての掟だ。
「うんうん、偉いぞミケ。良い子だ」
しかしミケのほうはお気に召さなかったらしい。
ジトっとした目を向けて不満げだ。
「……何か、すごくバカにされてる気持ちになるわ」
そのつもりはないのだけれどな。
「まあまあ、切符も買えたことだし、とりあえず出発しようか」
ミケの気を強引に逸らして、改札のほうへ歩き出す。
ふと、さっきの大学生カップルが脳裏を過ぎった。
俺らも、周りからはカップルのように見えているのだろうか。
地元の最寄駅から水族館のある駅までは、一度の乗り換えを含めて一時間十五分くらいかかる。ミケの初めての遠出としては少し遠すぎる気もする。本当はもっと近いところにも水族館はあったのだが、せっかくミケが調べて決めてくれた水族館なので、希望を叶えることにしたのだ。ちなみに、集合時間が早めの設定なのも、移動時間のせい。初外出のミケの疲れが気になるので、夕飯の時間までには家に帰りたかった。
そうなると電車の中でくらい、ミケを座らせてあげたいものだったが、いくら土曜日の朝とはいえ、二人並んで座れるほどは空いていない。仕方なく、二人で電車の入り口近くに立ち、風景を眺めることにした。ミケは、飛ぶように流れていく外の景色が気に入ったようで、ずっと飽きずに外を覗き込んでいた。たまに目線と一緒に首も動くのが和む。動くものが好きなのは、変わらないんだな。
そんなミケの様子を眺めながら、俺は昨日の夕食時の会話を思い出していた――
「ミケ、今朝の話だけどさ……」
二日連続で夕食が遅れたのが余程気に障ったのか、あるいは今朝の俺の「関係ない」発言にまだ腹を立てているのか。
ちゃぶ台の向かい側に座って味噌汁を啜るミケは、ツーンとしてすっかり黙り込んでいた。
仕方なく、俺はミケの反応を待たずに話を続ける。
「ミケを人間にしたって言う黒い影、ミケも見たんだろ?」
彼女の瞳が少し揺らいで、僅かな間俺と目を合わせた。
しかし、結局何も言わずに、ミケは今度は白米へと箸を伸ばした。
「あいつは何か『ケガレを祓う』とか何とか言っていたけど、そんな得体の知れないことは止めて、猫に戻らないか?」
めげずに俺は言葉を重ねた。
というか、朝の時点でこの会話を誤魔化された身としては、むしろ俺の方が怒っても良いはずだったんだよな……
「イヤよ」
そこでようやくミケは、一言だけ反応してくれた。
それを糸口に、俺は彼女から更なる言葉を手繰る。
「どうしてだ?」
「……や、やるべきことがあるから」
彼女は箸を置いて、顔を伏せてしまった。
『やるべきこと』――『やりたいこと』と言い換えても良いだろう。
やはり、何かあるのだ。
そして、この時点でそれは『水族館に行くこと』ではないんだろうな。それだったら、土曜日に達成されるので、日曜日の祓いはしなくても良いはずだから。
ただ、周防も「良い筋は行っていると思います」と言っていたし、土曜日の俺の頑張り次第では、満足させることもできるのだろうか――何だかそれこそデートに臨むときの気持ちみたいになってしまうぞ。
とにかく。
「俺としては――」
「そんなことより、さ……」
そんなことより???
なるべく早いうちに猫に戻るべきだと、言おうとしたら、ミケに無理矢理言葉を被せられてしまった。
話を逸らさせまいと、もう一度同じことを繰り返そうと喉に力を入れたところで。
ミケがバッと顔を上げてこちらを見てくる。その瞳が何かに揺れているのに気づいてしまって、俺は再び言葉に詰まる。
「……明日は、昨日言ってた通り、水族館に連れて行ってくれるってことで良いのよね?」
「あ、ああ。そのつもりだよ」
それが、俺にとっての現状の最適解であることに変わりはない。
「わかったわ」
そして、彼女にしては珍しく、ふわりと笑む。
「楽しみに、してるから」
「そ、そうか」
その彼女の表情を崩したくなくて、俺は先ほどの言葉を繰り返すのを、つい諦めてしまった。
――話の続きは、水族館の帰りにしよう。
そのタイミングなら彼女も機嫌が良いはずだし、もしかしたらもう満足してくれて、あっさり猫に戻ることに同意してくれるかもしれない。
そうして、俺は自分の夕食を味わうことにした。
――そうだ。だから、とりあえず今は、ミケに水族館を満喫してもらうことに注力しなくてはいけない。
車窓を眺めるミケを眺めながら、俺はそんなことを改めて思い直した。
そうしてしばらく電車に揺られて。
水族館のある駅に到着した。ここからは少しだけ歩きだ。
「早く行くわよ~」
ミケは俺の服の裾を掴むと、待ちきれない様子でグングン俺を引っ張って行く。
待て待て。服が伸びる。
しかし、心配したものだが、長旅も楽しんでくれているみたいで良かった。
「こっちばかり見てないでちゃんと前見て歩けよ」
水族館までの道は、洋服屋や飲食店が建ち並ぶ、人通りの多い道だ。
人混みに慣れていないミケには注意して歩いて欲しい。
そんなことを思いつつ、俺も他人のことは言えなかったようだ。
ついミケのほうばかり見ていたのだ。だから、前からこちらへ来る人に気づくのが遅れた。
あと一歩で衝突してしまう。
――危ない!
しかし、止めようと伸ばした手は間に合わず、ミケはサラリーマンと正面からぶつかる。
「きゃっっ」
ミケの小さな体は簡単に押されて、後ろに倒れていった。
俺は一歩踏み出して――、どうにかミケの体を抱き留めることに成功した。
「あ、すいません」
「いえいえ、こちらこそ前を見ていなくて」
ぶつかったサラリーマンが良い人で良かったな。今のはだいぶこちらも悪かった。
ほっと一息吐きながら、胸の中のミケを見る。
「大丈夫か?」
すると、俺を仰ぎ見るミケの顔は、リンゴのように真っ赤だった。
それを疑問に思って一瞬、現状を客観視するのにさらに一瞬を使って、次の瞬間には、自分の頬も湯沸かし器のように火照っていくのが分かった。
やばい。流れでついやってしまったけれど、今、胸の中にはミケがいるのだ。
こうして密着していると、ミケの体の小ささがよく分かる。
ミケの顔は俺の肩くらいの高さしかないし、体つきは細くて、少し力を入れたら折れてしまいそうだ。
――って何やっているんだ、俺。早く離れないと怒られるぞ。
我に返った俺は、ミケの両肩を押し、自分の体から離す。ミケはゆっくりとこちらを向いた。
ぶたれるのを覚悟で俺が目を瞑っていると……
「ごめん」
ミケがぼそっと呟くのが聞こえた。
おそるおそる目を開くと、ミケは目線を下に向けてもじもじしている。
「ああ、次からちゃんと前見て歩こうな」
「うん」
予想外の反応で、気まずい沈黙が流れる。
……
……
どちらからともなく、並んで歩き出した。
うーん、沈黙はまずい。何か話さなくては。
空を仰ぐと、青空に薄く雲がかかっていた。
「天気予報、今日の深夜から雨だってな。昼間は晴れるみたいで良かった」
咄嗟に天気以外の話題が思いつかなかった自分がなさけない。
しかし、ミケからの返事がないので、俺はむなしく一人で続けるしかない。
「まあどうせ水族館は室内だから関係ないんだけどな」
はははは……と乾いた笑みを浮かべていると、自分の手にふわりと触れる感触があった。はっと横を見ると、神妙な顔持ちで前を見つめるミケ。
ミケの手は、俺の手を握っている。
え……?
「手、繋がない?」
――??――!?
「べ、別に、私はどっちでもいいんだけれど、さっきみたいに先走っちゃったらヤだし、はぐれちゃっても困るし……」
ミケはそれらしい理由を並べる。
俺は何も口に出せず、手を握り返すことで、答えに代えた。
何だかおかしなことになってきたな、なんて、俺は他人事のように思うのだった。
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