第5話
夢だかすらよく分からない何某かを見た翌日。金曜日の朝。
ミケに6時半に起こされた俺は、彼女と一緒にキッチンに立っていた。何だかんだで一昨日までより1時間も早く起こされているわけで。これでは寝不足まっしぐらである。授業中の睡眠が捗りそうだ。
ふわ、と欠伸をする俺。手元ではベーコンと目玉焼きを焼いている。
「明日からはもう少し早く寝たほうが良いんじゃないの?」
それを聞き咎めたミケが、お小言をくれた。
料理経験のない彼女には、ひとまずパン焼き係をお願いしていた。オーブンの前から片時も離れず、オーブンの覗き窓に額を貼り付ける勢いで、パンの焼き目の加減を見張っている。
「これで早寝まで始めれば、いよいよ早寝早起きの健康生活の始まりだな」
とはいえ、遊びたい盛りの男子高校生にとって、早く寝ることは早く起きることと同じくらいには難しいことなのである。昨日もパソコンでアニメを見ていたら、気づけば25時くらいになっていて驚いたものだ。
――そういえば、こういう「24+α時」という表現は深夜帯のテレビ番組を見るオタク以外には伝わらなかったりするんだろうか。ちょっと今度大河に聞いてみるのも良いかもしれないな。
寝不足で靄のかかった頭で取り留めないことを考えていた俺だったが、そこで夜に見た影のことを思い出す。
「――寝るといえば、そういえば昨日変な夢みたいなの見たんだよな」
俺が首だけ曲げてミケのほうへと視線を送りながらそう言うと、彼女の右肩がビクリと跳ねた。
「そこにはミケも出てきて、やけにリアルな言動をしていたんだけれど。もしかしてミケも同じような夢を見てたりしないか?」
ミケはパンから目を離してゆっくりとこちらと目を合わせると。
「ふーん。私は昨日夢は見てないけれど」
やたらと副助詞『は』にアクセントを置きつつ、そう答えた。
「そうか」
俺は再び顔の向きを手元のフライパンに戻す。
あの夢らしきものの中で見たミケの言動は、いくら俺の夢だとしてもミケらしすぎたので。もしかしたら、同じ夢を二人で見ていたのかもと思ったわけだが。そういうことでもないのだろうか。
というか、冷静に考えて、同じ夢を二人で見るというのは現実的な発想とは言い難すぎるか。俺も身の回りで起きる非常識に思考が毒されてきたのかも知れない。
ただどうしても、あの影が「ミケを人間にしてやった」と言っていたのは気になってしまうんだよな。
ミケが夜のことを知らないと言うのならこれ以上今の会話で深掘りすることはできないし、とりあえずは今日学校でもう一度周防に相談してみるしかないか。
そこまで考えたところで、自分の頬がむにっと摘ままれたのが分かる。横目で確認してみれば、ミケが右手を伸ばして俺の頬を摘まんでいた。というか、この家には俺とミケしかいないのだから、ミケが摘まんでいなかったとしたらそれこそお祓いに行くべきだが。
「何だよ」
「今、誰か私の知らない女のこと考えてたでしょ?」
「へ?」
瑠璃色の瞳に覗きこまれて。俺は慌てて目を逸らす。
……もしかして周防のことだろうか。
確かに考えていたといえば考えていたが……
なんでコイツ俺の思考が読めるんだよ。
「表情がそんな気がしたというか……勘かしらね?」
ひえ。女の勘って怖すぎだろ。ミケの場合は野性の勘と呼ぶべきか?
――というか。
「別に、知り合いの後輩に相談ごとをするか考えてただけだから何でもないよ」
「へぇ」
「どちらにせよ俺が誰のことを考えていようがミケには関係ないだろ?」
「ふーん。っそ」
俺の真っ当な言い分に、ミケは俺の頬から手を離した。
つまらなそうに肩をすくめて、キッチンから出て行く。怒らせてしまったようだった。
正論とはいえ、「関係ない」は言い過ぎだったか? 一応、飼い主の交友関係は気になるのかもしれないし……
――と、そんなことより。ミケがキッチンにいた理由を思い出す。
「って、おい! パン焦げちゃうだろ!」
慌ててオーブンの加熱を止めて、扉を開ける俺であった。
そしてその日の昼休み、俺はまたオカルト研の部室に足を運んだ。昼休みにしたのは、昨日から得た教訓だ。放課後だと下校時刻まで延々と周防の長話に付き合わされてしまうが、昼休みならば後ろに授業があるのでそういうわけにもいかないだろう。
もちろん、昼休みに必ず周防がオカルト研部室にいる保証もないわけだが、何となく彼女なら居そうな気がした。
がらっと、生物準備室の扉を気楽に開ける。雑多な小物たちに埋もれるようにして、そこにはやはり周防の姿があった。冷静に考えると、彼女はまだ一年生で、この部活を始めたのだってここ一週間そこらというところだろう。それでいて、部室をここまで自分色に染めてしまうというのは、驚異の活動力と言えそうだ。
彼女は、今日も机に向かっている。今日は音で気づいたようで、彼女もこちらを振り向いた。どうやら本を読んでいたらしい。赤い表紙に、『群論入門』と書かれている。
「また、我が城にいらっしゃったんですね、先輩」
「どうも。――何を読んでいるんだ?」
「数学書です。表向きには数研を名乗っている以上、数研としての成果物も生まなくてはいけませんからね」
オカルトのためにそこまでするのか。
俺の視線での問いかけに周防は人差し指を立て、諭すように続ける。
「それに、これはオカルト研究の役にも立つのですよ。世の中に出回っているオカルト話は玉石混交。既存の自然科学的な知識で解決できてしまうものも、少なくありません。それらの情報に踊らされないためには、しっかり知識を身につけておくことが必要なのですよ。数学もその一つです」
「な、なるほど……」
本当に意識が高いオカルト研究員だった。
感心する俺に、待ちきれないとばかりに周防は話を促す。
「ときに。今日の先輩は如何なご用件で? もしや、早速進展があったのですか」
その目は爛々とした好奇心で輝いている。
「そうそう、そうなんだよ」
俺は、周防を訪ねた目的を語った。昨日見た夢のようなものについて。
俺の要領を得ない説明をときどき噛み砕きながら、周防は影に関する話をゆっくりと聞いてくれた。
そして、全てを聞き終わった後。
「なるほどですね……」
周防はまず初めに短く呟いた。それから、見解を述べてくれる。
「それは間違いなくただの夢ではないと思われますね! その謎の影、超常的な存在が、先輩とミケさんに話をするために、影が持つ支配領域へと先輩方の意識を召喚したのでしょう。きっと、ミケさんも同じものを見ているはずです」
「うーん、でもミケは『夢は見ていない』って……」
「事実、夢ではないのでその表現でも嘘ではないでしょうね」
「な、そんな屁理屈な……」
「これに関しては、幼馴染みさん方にも影が登場する夢のようなものを見たのか、聞いてみればハッキリするのではないでしょうか。彼女らは先輩に嘘をつく理由がありませんし、きっと真実を教えて下さるでしょう」
幼馴染みさんって何かむず痒い表現だな。周防には昨日のうちに円とハナのことも伝えていたので、彼女らのことを言っているのだろうが。
「それは一理あるな。ちょうど後で会う予定があるから聞いてみるか」
「はい、ぜひ聞いてみて下さい」
自信満々にメガネのブリッジを押し上げる周防。
あれ、ちょっと待てよ。
「いやー、でもそれだとミケは俺に隠し事をする理由があるってことにならないか」
「まあ、そうなりますね」
そんな悲しいことをあっけらかんと言うなよ。
「まああり得なくはないか…… 最近のアイツ、何考えているかよく分かんないときあるんだよなぁ」
「乙女の秘密ってことですよ、先輩」
「うーん、そんなものだろうか」
「……年頃の娘を持つ父親みたいに見えてきましたね」
「失礼な。そんな年取ってねえわ」
ふふふ、と口に手を当てて笑う周防。
「ふう。それはさておき。話が少し逸れてしまいましたが――、しかしこの影の発言から、だいぶ分かってきたこともありますね」
空気を切り替えるための演出か、周防はもう一度メガネを押し上げた。
「というと?」
「昨日話していた、『仕組み』と『理由』についてですよ」
「あー、その話か。確かに、影が『人間にしてやった』と言ったのが正しいとするなら……」
「ええ。『仕組み』についてはこれでハッキリしたことになります。影の力か、あるいはそれを使役している神様の力か、それらの作用によって、ミケさんは猫から人間の姿になったということですね」
「『理由』についても、ミケが人間になるのを望んだからだっていうようなことを影が言っていたぞ」
「つまりは人間になりたいミケさんと、自分に従って『祓い』なるものをやってくれる存在が欲しかった神様の利害が一致したから、ということでしょう」
昨日の周防の分析がこれほど役に立つとは。これで状況がかなり整理された気がする。
周防が言葉を続ける。
「状況が分かってきたとはいえ、ミケさんを猫に戻したいのならば、結局のところやることは同じですね。やはり、何のためにミケさんが人間の姿になることを望んだのか突き止め、その望みを叶えてあげることでしょう。そうすればミケさん自身に人間の姿でいる意志がなくなって、神様との契約も履行せず、無事に猫に戻される、という寸法です」
「ああ、俺もそう思う」
「ミケさんの望みについては、何か分かったことはありましたか?」
「それについては、昨日の夕飯のときにそれとなく聞いてみたんだよな」
そこで、俺は昨日のミケと水族館に行くことになった話を伝える。
それを聞いた周防はというと。
「なるほど、水族館デートですか。いいですね」
ニヤニヤとはやし立てやがった。
「いや、デートじゃないから」
「そうですか~? 若い男女二人で水族館だなんて、端から見たらデートそのものだと思いますけど」
確かにそれはそうかもしれないが、ミケはそんなつもりなんて毛頭ないだろう。
「別に兄妹で行くこともあるだろうさ。ミケはペットだから、家族みたいなものだよ」
「そういうことにしておきましょうか」
そこで、俺は一転真剣な雰囲気で尋ねた。これも、俺が今日周防に相談したかった内容の一つだ。
「周防は、『水族館に行く』というのが、ミケが人間になってまで叶えたい望みだったと思うか。水族館に行くだけならわざわざ人間の姿になる必要がないし、そもそもこのアイデアはその場の思いつきに見えた」
「そうですねぇ。確かに、水族館に行くだけなら人間の姿の必要がない、というのはごもっともですし、私もこのデート自体がミケさんの望みだとは考えづらいと思いますよ」
「だよな」
「とはいえ、良い筋は行っているとも感じます」
「……どういうことだ?」
「そのままの意味ですよ。ちょっとこれ以上は、ミケさんの乙女の秘密にも関わってきてしまいそうですし、いくら推測とはいえ私の口から語ることはできませんね……」
周防は意味深な笑みを浮かべる。ここでそんな気取った真似はいらないぞ、中二病患者め。
更なる追及をしようとしたところで、逆に周防から問いかけられた。
「そういえば、昨日聞きそびれてしまったと後になって気づいたのですが」
仕方なく、意味深な笑みの意味を問いただすのをやめ、俺は質問に答える姿勢になる。
「うん?」
「ミケさん本人はどう思っているのでしょうか」
「どうって……」
「いや、ミケさんは最終的に猫に戻ることを望んでいるのかという話ですよ。先ほど聞いた話を踏まえると。たとえばですが、当初のミケさんの望みが叶ったとしても、もしかしたら、他にもやりたいことが見つかって、人間の姿を維持するために神様との契約を続けようとするかもしれません」
「あー、なるほど?」
「そうしたら、先輩はどうするつもりですか?」
俺は少しの間だけ考える。俺の中にある一つの意見が、正しいのかどうか。でも、それを論破できる反論は思いつかなかった。
だから、俺はそれを述べる。
「そうだな。俺は、ミケの今の考えがどうであれ、最終的には猫に戻るべきだと思っているよ。猫だったものが人間の姿で居続けるだなんて、道理に反していると思うし…… それに、『ケガレを祓う』というのだって、得体が知れなくて心配だしな。もしかしたら、危険なことかもしれない。そんなリスクを負ってまで、ミケが人間の姿にこだわる必要はないと思う」
俺の長い説明を、うんうんと頷きながら周防は聞いていた。
「『祓い』がどのようなものなのかは確かに分かりませんし、それに対する心配があるのは、ミケさんの飼い主としても当然でしょうね。とはいえ、猫に戻るかどうかは、ミケさんが納得するかどうかにかかっているわけですから、この点について、しっかりミケさんと相談しておいたほうが良いと思いますよ」
まるで優しく子供に言い含めるかのような口調だった。
別に、俺だってミケのことを全く考えていないわけではないのだが。
色々考えても、やはり自然な状態から大きく外れ続けるべきではない気がするのだ。いつも通りの日々が一番。それが俺の信条だ。
それがちゃんと伝わっていないような気がして、もう一度説明しようかと思ったところで、ちょうど五限目の予鈴が鳴ってしまった。
「おっと、先輩。授業の時間ですね」
自然と、相談にはお終いの雰囲気が流れる。どうやらお昼休みを選んだのが仇になってしまったようだ。まあ仕方ない。
二人して生物準備室から出る。周防はドアの鍵をかけると、くるっと振り返って俺の顔を覗きこんだ。
「ところで先輩、昼休みに部室にいらっしゃったということは、今日の放課後はオカルト研には来ていただけないんですか?」
「まあ、そうだな」
「うーむ。せっかく今日も来ていただけると思って、面白い話を色々と用意していたんですけどねぇ」
「悪いな。俺も他に用事があって……」
用事があることは嘘じゃない。
「先輩酷いな~、昨日は『こんな面白いことができるなら俺もオカルト研入ろうかな』って言ってくださってたのに……私をその気にさせて!」
「いやそんなこと言った覚えないわ!」
コイツは俺をオカルト研に引き込むつもりなのか。全く、油断も隙もあったものじゃないな。
「でも、こーんな可愛い後輩と、放課後密室で二人っきりになれるチャンスなんて、他じゃそうそうありませんよ。先輩的には、むしろお願いしてでも入りたいくらいなんじゃないんですか?」
「はいはい、そうかもしれないな」
「返し適当すぎません!?」
どうやらこの後輩は、気を許すとなかなか面倒くさいやつらしい。
俺の適当な返しにも一切気を悪くした様子を見せず、むしろ周防は上機嫌そうだ。
「じゃあ月曜日、今度はデートの結果聞かせてくださいね。楽しみにしてますから」
「だからデートじゃないと……」
そう何度も言われると変に意識してしまう。
どうせミケは何とも思っていないはずだ。こちらだけ意識しているのは悔しいし、何よりミケに悪い。
僕は周防と別れた後、ぶんぶんと頭を振って、何とか思考を落ち着けた。
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